「君の名前は、確か稚沙といいましたか?」

「は、はい、そうです!」

 稚沙は隣にいる小野妹子にそう答えた。
 彼は大国隋にでむき、その国の皇帝にも実際に会った人物である。そんな彼が自分の横にいて、話しかけてくれている。何とも不思議な感じがするなと彼女は思った。

「今日はあなたも大変だったでしょう。でもそのお陰で、今日は本当に良い宴になりました。あなた方にはとても感謝しております」

 彼は稚沙に対し微笑んだ表情をしてそう話す。口調もとても丁寧で、そんな彼の人柄の良さがとても伺える。

(この人は厩戸皇子よりも数歳年下ぐらいかな?それにとても思いやりがあって、話しもしやすい……)

「妹子殿のような方にそういって頂けて、本当に嬉しいです。今日の宴が無事に成功して、私も本当に良かったと思います」

 稚沙は笑顔でそう答えた。宴に参加している人から、こうやって感謝の言葉が貰えるとは思ってもみなかった。


「ところで、この場所には良く来られるのですか?こうやって座っていると、1人で静かに過ごすには、とても良い場所のように思えたて」

「はい、実は時々来てます。嫌なことがあった時とかに……」

 稚沙は厩戸皇子と初めて会った以降も、この場所には時々きていた。大半は仕事の失敗で落ち込んだ時ではあったが。

「それに厩戸皇子も、この場所のことは知っておられます。私実は彼と初めて会ったのもこの場所なんです」

「へぇ、ここはそんな思い出の場のある場所でもあるのですね」

 小野妹子は少し興味深そうにして、彼女の話しに耳を傾ける。

「はい、ここは私にとっては、とても思い出のある大切な場所なんです」

 稚沙は少し照れながらそう答えた。彼女がこんな話を他人にしたのは初めてである。
 例え厩戸皇子に自分の想いが伝わることがなかったとしても、彼との思い出は大事にしたいと彼女は思っていた。

(今日は何故こんな話をしてしまうんだろう。何か不思議ね……)

「もうじき夏になれば、この辺りもまた景色が変わってきますね」

 ふと稚沙は再び空の雲を見ていった。自身の想いも、あの雲のようにどこか遠くに行ってしまえば、どんなに良いだろう。
 それとも時がたってしまえば、本当にあの雲のように、この気持ちは遠くに消えていくものなのだろうか。


 彼女はそれから、ふとその場で和歌を詠み上げた。

「み空行(ゆ)く、夏の雲みて、心もと、清々しきは、風のまにまに」

 小野妹子は彼女の和歌にいたく感心した。

「なるほど、このような景色を見ていると、清々しい気持ちになって、そのまま風のように自身も流されていく。とても良い歌ですね」