「じゃあ、俺は渡したんで!」

 彼は稚沙にそう話して、早い所この場を立ち去ろうとした丁度その時である。

「あれ、椋毘登(くらひと)じゃないか!」と、何やらまた別の誰かの声がしてきた。

 2人は思わずその声の主に目を向けると、そこには1人の青年が立っている。見た目からいうと、だいたい20歳前後ぐらいだろうか。

「あぁ、蝦夷(えみし)。お前も小墾田宮(おはりだのみや)に来ていたのか?」

 椋毘登はふとその彼に返事をかえす。

 彼に蝦夷と呼ばれた青年は、そのまま稚沙(ちさ)達の側までやってきた。

 稚沙もそんな彼を、ひどく凝視して見る。背丈は椋毘登よりも少し高く、体つきも割りとしっかりとしていた。そして目力がとても強い感じの青年に彼女は思えた。

(あれ、この人は確か……)

「俺も今日はちょっと小墾田宮に用事があってな。それでこの近くを歩いていたら、何やらお前に似たような声がしたんだ。だが俺が思うに、ちょっといい合ってる感じにも聞こえたぞ?」

「悪い。ちょっとここの女官と少し話をしていただけだ」

 椋毘登はやれやれといった感じで蝦夷にそう話す。

 すると蝦夷は、椋毘登のとなりにいた稚沙にも挨拶をした。

「俺は蘇我蝦夷(そがのえみし)、あの蘇我馬子(そがのうまこ)の息子だ。椋毘登とは従兄弟の関係といった感じかな」

(やはりあの蘇我馬子の息子なんだ。でも彼を間近で見たのは初めてかも?確かにいわれてみれば、父親の馬子ともどことなく似ているような……)

 稚沙はそんな蘇我蝦夷がとても新鮮に思えて、少し興味津々といった感じである。

「これは蝦夷殿、私はこの宮に女官として仕えております稚沙と申します。今回は何かと失礼な所を見せてしまいまして……」

 稚沙はとりあえず、蝦夷に謝りも含めて挨拶をすることにした。

「あぁ、それは別に気にしてない。どうせ原因の半分は椋毘登だろうからね。というか、俺はこいつが痴話喧嘩でもしてるのかと思ったんだよ」

「え、痴話喧嘩?」

 稚沙は何故そんないい方をされるのか、今一理由が分からない。

「うん?椋毘登の女じゃないのか……ということは今口説いてる最中だったのか。それは悪いことをしたな!」

 蝦夷は少し愉快そうにしてそう話した。つまり彼は、稚沙と椋毘登が男女の関係だと思ったようである。

 それを聞いた稚沙が、慌てて誤解を解かなければと思った矢先、椋毘登の方が先に口を挟んだ。

「ふん、そんな訳があるか。だれがこんな子供じみた娘なんかを。偶々知ってる相手だったから、少し話をしていただけだ」

(まさか椋毘登にまで、そんな事をいわれるなんて……)

 稚沙は自分が幼く見られがちなのは十分に理解している。だが彼にまでそういわれると、妙に腹が立ってきた。

「こ、子供じみた娘で悪かったですね!さぁもう用事は済んだのでしょう。私も仕事が残ってるので、早くお引き取り下さい!!」

 そういって稚沙は、そのまま入り口を勢いよく閉めて、部屋の中へと戻っていってしまった。

「お、おい、まてよ稚沙!!何だよあいつ。いきなり閉めなくても良いだろうに……」

 椋毘登は、少し不満げにしてそういった。

 そんな彼らを見て、蝦夷はかなり面白かったのか、思わず吹き出して笑い出してしまった。