その頃古麻(こま)は、必死で恋人の名前を呼でいた。

「ねぇ伊久呂(いくろ)、嘘よね。私を騙していたの?」

 古麻に呼ばれた男は、椋毘登(くらひと)達に意識を向けながら、古麻に答えた。

「あぁ、そうさ。お前のことは、この宮の情報を探る為に利用しただけだ。別に俺はお前の事なんか何とも思っていない」

 そしてその伊久呂と呼ばれた男は、椋毘登達の登場により、自分達が不利な状況に陥ったことを理解する。

 そこで今は椋毘登と彼の従者が、古麻の側にいないのを良いことに、彼は古麻を人質にしようとして迫った。

(まずい!古麻が捕まってしまう)

 それを見た稚沙は突然走りだし、伊久呂の背中を掴んで、彼の動きを止めようとした。

「おい、きさま、離れろ!」

 そういって稚沙の腕を掴んだ。

「古麻、一旦離れて!!」

 稚沙は何とか古麻を逃がそうとする。

 すると男は「ちっ」といって、稚沙の体を自身に引き寄せた。どうやら彼は人質を稚沙に変えることにしたようだ。

「いいかお前ら、これ以上続けるなら、この娘をここで殺す!」

 それを聞いた椋毘登(くらひと)は、急に矛先を変え、稚沙を捕まえている男の前に近づいてきた。そして彼は尚も刀を握った状態のままである。

「お前……これ以上近付くと、本当にこの娘を殺すからな!」

 すると椋毘登は、酷く恐ろしい笑みを見せて彼にいう。

「別に殺したければ、殺したら良いさ。俺には関係のないことだからな」

(椋毘登は、私を見殺しにするつもりなの……)

 だが一瞬椋毘登が稚沙を見る。
 まるで何かの合図を送っているかのように。

 そんな彼を見て稚沙は思わず「はっ」とする。
 そして彼女は服に忍ばせていた、細く小さな刀をそっと取り出した。

(この刀を使えってことなの?)

 それから稚沙は、その刀で男の腕を思いっきり刺した。

 その瞬間に男は「うぎゃあー!!」と叫び、思わず稚沙を掴んでいた腕を緩めた。

「稚沙、下にしゃがめ!!」

 椋毘登からそういわれて、彼女は思わず下にしゃがんだ。

 その瞬間に椋毘登が素早く動き、相手の男の体に刀を突き刺した。

 そしてその男は絶叫しながら、その場に倒れていった。

(私、助かったの?)

 稚沙は椋毘登から、いざという時用に、小さな刀を事前に渡されていた。もし危険になれば相手をこの刀で刺せ。そうすれば相手は、確実に油断するからと。

 そんな彼女の鼓動は今酷く波打っていた。

「ち、稚沙、大丈夫!!」

 古麻は慌てて稚沙の元に駆け寄る。
 そして2人は互いに抱き合って、共に安否を喜んだ。

 一方敵の方は主犯の志摩吐(しまと)のみになっていた。そして彼は椋毘登達に囲まれる形となってしまう。
 追い込まれた彼は、ここはもう逃げるしかないかと一瞬考える。

 だがそんな時である。それまで従者に守られて、静かにしていた蘇我馬子(そがのうまこ)が急に口を開いた。

「志摩吐、お前の負けだ。大人しく諦めろ」

「ふん、お前のせいで俺達は、何もかも失ったんだ。だから絶対にお前だけは許すものか!」

 そして志摩吐は蘇我馬子に刀を向ける。どうやら彼は、命をかけてでも馬子を殺すつもりでいるようだ。