そんな時である。知らない男性が稚沙の前にやってきた。

「女の子の泣いてる声がすると思ってきてみれば、君どうかしたのか?」

 稚沙はいきなり知らない男性がやってきたので、思わず泣くのをやめて相手を見上げる。

(この男の人は一体誰だろう……)

 だが何をどう話して良いか分からず、口から思うように言葉が出てこない。

 するとその男性は稚沙に再び話しかけてきた。

「私は厩戸皇子(うまやどのみこ)、炊屋姫の甥にあたる大和の皇子(みこ)だよ」

「え、大和の皇子様?」

 12歳の稚沙でも、皇子がどのような身分かは理解出来ていた。その彼にこんな場面を見られたとなれば、叱られてしまうかもしれない。

「み、皇子様、申し訳ありません!私は少し前からこの宮に、女官として仕えております稚沙と申します」

 そういって稚沙は慌てて立ち上がった。

「それで今日ちょっと仕事で粗相があり、少し気を紛らわしてました。べ、別に仕事をサボっていた訳ではなくて……」

 稚沙なりに必死で考えを巡らせて、そう皇子に説明した。

 そんな稚沙の言葉を聞いた厩戸皇子は、思わず吹き出して笑った。

「君は、中々面白い子だね。誰だって辛いことがあれば、隠れてこっそり泣きたくもなる。別に私は他の者にいったりしないから、安心しなさい」


 厩戸皇子はそういって、稚沙の頭をぽんぽんと撫でてくれた。そして彼はそんな彼女に優しく微笑みかけてくれる。

 ただでさえ、宮での生活に慣れておらず、寂しい思いをしていた稚沙である。厩戸皇子のその優しさに、彼女はとても癒される感じがした。

 そしてその日を機会に、厩戸皇子は小墾田宮(おはりだのみや)を訪れるたびに、稚沙を心配し良く声をかけてくれるようになった。

 そんな皇子に稚沙もすっかり心を開き、徐々に好意を持つようになった。

 だが彼は既に複数の妃を娶っていた。
 そんな中で、年の離れた稚沙に皇子が特別な感情を抱くこともなく、彼女の儚い片想いとなってしまっていた。


「分かってる。皇子が振り向いてくれるなんて、恐らくはないってことぐらい……」


 それから稚沙は「よし、とにかく今は気持ちを切り替えて仕事よ!」といって再び倉庫に向かうことにした。




 そして稚沙が倉庫の近くまでくると、1人の青年が歩いているのを彼女は目にする。

「あ、あれは蘇我椋毘登(そがのくらひと)……」

 稚沙は先日のことをふと思い出し、思わず身震いした。
 あの時の彼は、稚沙を本気で殺そうとし、凄まじい殺気で彼女に刀を突きつけてきた。彼が自分とは2歳しか違わないのが、本当に信じられない。

 稚沙はそんな椋毘登を見て、どうして良いのか分からず、思わず固まってしまった。

 だが彼の方は、どうやら稚沙の存在には気付かなかったようで、そのままその場を離れて行った。

(あぁ、良かった。どうやら私には気付かなかったみたい)

 稚沙はそんな状況を見て「ほっ」と胸を撫で下ろした。

(とりあえずは、一安心ね)

 そして彼女は、蘇我椋毘登がいなくなったことを確認したのち、そのまま倉庫へと向かった。