その日は朝から、なんかいな、と思っていた。
 身体が熱っぽい感じがして、でも腕や脚の表面や指先は冷たい。
 頭にがかかったようにぼんやりしていて、授業中も先生の話になかなか集中できないし、気がつくと板書をとる手が止まっている。
 昨日の晩、中間テストの解き直しの残りを夜中の一時すぎまでやっていて、いつもよりさらに睡眠時間が短かったからかもしれない。
 睡眠は大事だと分かっているけれど、でも、お母さんに昔から『テストは終わったあとのほうがもっと大事なのよ』と言われていて、だからどんなに疲れていても、やらないわけにはいかないのだ。
 お母さんは『子ども四人全員を東大に現役合格させたスーパーママの教育術』みたいな本を愛読書にしていて、私が小さいころから進学塾の保護者向け講座を受講したり、有名な教育評論家や予備校講師の講演を聞きに行ったりして、そこで仕入れてきた効率のいい学習法をいつも熱心に私にレクチャーする。
『テストが終わったら全教科の全問題の解き直しをすること。なにも見ないで解いて全問正解できるようになるまで、何度でも解き直しなさい』
 小学生のころからそう決められていて、毎回お母さんのチェックが入るのだ。
 だから今回も、学校の課題や塾の宿題を終えたあとに、毎日二教科ずつ解き直しをしていて、昨日は数Ⅱと物理の三回目だった。どちらも苦手科目なのでなかなか終わらず、寝るのが遅くなってしまったのだ。
「うおー、いずみん!」
 突然隣から聞こえてきた底抜けに明るい声で、私ははっと我に返った。
「また満点じゃん! すっげー」
 今は英文読解の授業中で、英単語の小テストを隣の席の人と交換して相互採点している最中だった。
 私のテストに丸つけをしていた日和くんが、目をきらきらさせて「マジすげえ」と大げさに騒いでいる。
 彼と隣の席になって二週間ちょっと。別世界の住人なのだから極力関わらないでおこうと思っていたのに、彼のほうからなにかと話しかけてくるので、結局毎日何回も言葉を交わしていた。
「スペルも完璧だし! ってか古文単語とか世界史の小テストも毎回満点だよな」
「え……あ、うん、まあ……」
「どうやったらそんな覚えられんの? 記憶力どうなってんの? 天才なん?」
 あまりにも真っ直ぐな言葉を向けてくるので、どんな顔をすればいいか分からず困った。私が天才なんて、あるわけがない。
 採点を終えた日和くんのテストを返しながら、「そんなんじゃないよ」と小さく笑って答えた。
「私、帰宅部だし、趣味もないし、ひま人だから、勉強に使う時間がいくらでもあるってだけ」
 褒められるのは苦手だ。自分がそんな優れた人間ではないと、よく分かっているから。
「暗記がちょっと得意なだけだよ……。応用力はないから、本番のテストだと大していい点とれないし」
 定期テストでは、どんなに頑張って全範囲を暗記していても、それだけでは解けない応用問題が出されるので、満点はとれない。本番に弱いからケアレスミスもしてしまう。
 だから、せめて小テストでは満点をとって、平常点を稼いでおこうという魂胆なのだ。通知表で少しでもいい評価を得るために。
 すごいことでもなんでもなく、ただ打算的なだけ。
 すごいと言うなら、むしろ日和くんのほうだ。
 バスケ部の彼は、毎日朝練をやったあとに授業を受けているようだし、帰りのホームルームが終わるとすぐに大きなスポーツバッグを抱えて体育館に向かう。土日も練習や試合でつぶれることが多いらしい。たぶん部活が忙しくて勉強は課題だけで手一杯で、小テストの勉強時間などまともにとれないはずだ。
 それでも毎回彼の小テストは8割以上は正解しているし、定期テストや実力テストではかなりの好成績をおさめている。きっと地頭も効率もいいのだろう。
 この学校には、そういう人がけっこういる。去年首席入学して以来ずっと学年一位をキープし続けているという隣のクラスの女子も、陸上部に入っていて熱心に活動しており、しかも県大会まで進むほど速いらしい。まさに文武両道だ。
 彼らのような人と私は、生まれつき素質が違うのだ。ガリ勉と本物の秀才の違いだ。
 私はこの学校の誰よりも膨大な時間を勉強に使っていると思う。それでも、なんとかぎりぎり上位と呼べる順位に食い込める程度だ。いかに私が人より劣っているか、よく分かる。
 それでも日和くんは、私を見ながら「どっちにしろすげえよ」と繰り返す。
「小テスト毎回満点とかマジですごいと思う。一回でも油断したりサボったりしたら無理じゃん。いずみんはずっと気い抜かずにめっちゃコツコツ勉強してるってことだろ。そんなん、なかなかできないよ、尊敬するわ」
「ええ〜……」
 卑屈な思いから苦い笑みを浮かべる私に、彼はにかっと笑って言った。
「そんないずみんに、花丸をあげよう!」
 一瞬、聞き間違いかと思ってきょとんとしてしまった。
「えっ……」
 やっとその意味に気づいた私が止める間もなく、彼は私の小テストの得点欄に、びっくりするほど大きな字で『10』と書き、それを大きな丸で囲んで、さらにぐるぐるとたくさんの花びらを描き込んだ。
「はい、どーぞ!」
「あ……うん……」
 手渡された紙を受け取り、目を落とす。
 まるで小学一年生のひらがな練習のノートのような、紙面の余白もないくらいの、特大サイズの花丸。
「……ふふっ」
 あまりの大きさに、思わず笑ってしまった。
自然と頬が緩み、口角が上がり、顔が綻ぶ。
 花丸。
 こんなものをもらったのは、いつぶりだろう。
 自分の努力を褒められたのは、いつぶりだろう。
 もう何年もの間ずっと、子どものころの百倍も千倍も頑張っているのに、誰からも花丸なんてもらえなかった。『頑張って当然』だと、『それでもまだまだ足りない』と、自分でも思っていたし、お母さんからも思われていた。
「………」
 なんだか、言葉にならない思いが、唐突に込み上げてきた。
どんどん膨らむ感情が喉を塞いで、うまく声が出せなくなった。
 なんとか絞り出した小さな声で、ひとことだけ伝える。
「……ありがとう」
「どういたしまして!」
 日和くんが楽しそうに笑う。それから、『いいこと思いついた』とでも言いたげにぱちんと手を叩いた。
「じゃ、今度俺が満点とれたら、いずみんの花丸ちょうだい!」
「えっ」
 花丸なんて、描いたことがない。ちゃんとうまく、綺麗に書けるだろうか。
 しかも、私みたいな地味な人間が、人気者の日和くんのテストに花丸をつけるなんて、許されるのだろうか。あまりにも分不相応なんじゃないか。
もしも他の人に知られたら、『身の程も知らずに、調子に乗っている』と思われてしまうに違いない。
 でも。
 私の手の中に咲いている、大きな大きな花丸を見つめる。
 これをもらったときの、照れくさくて気恥ずかしくて、でも嬉しくて、胸が温かくなる気持ち。
 なんの見返りも求めず与えてくれたものを、ひとりじめして、返せるのに返さないなんて、それこそ身の程知らずで調子に乗っていると思った。
 だから。
「れ、練習しとく……ね」
 ぽそぽそと答えると、日和くんは「やった」と花が咲いたように笑った。
「よっしゃ、次は満点とるぞ!」
 彼が気合を入れるようにそう言うので、なんだか申し訳なくなる。
「いや、あの、大した花丸は書けないけど……」
 彼は今度はおかしそうに肩を揺らして笑った。
「なんだそれ、花丸に大したも大さないもないだろー」
 その言葉に、私は思わず片手で口もとを押さえ、小さく噴き出した。
「あはは。『大さない』って。初めて聞いた」
「あ、やっぱ変か?」
 彼が照れたように笑う。
「なんか口なじみ悪いなと思ったけど、他の言い方が思いつかなくてさあ」
「たしかに、正解はなんだろね。『大したことない』かな? でも長いよね」
「長いよなー。『花丸に大したも大したことないもないだろ』……噛みそう。やっぱ会話のテンポって大事じゃん?」
「あはは、そうだね」
 いちばん苦手だと思っていた相手と、まさかこんなふうに楽しく会話して笑い合う日がくるなんて、思ってもみなかった。
 これが席替えの醍醐味ってやつかな、なんて思っていたそのとき。
「でもさあ――」
 ふと日和くんが声を落とした。
 見ると、とても真剣な表情を浮かべていたので驚く。
いつもにこにこ笑っている人が急に真面目な顔をすると、妙な迫力があった。
「いずみん、頑張りすぎてない?」
 え、と目を丸くして、私は彼を見つめ返す。
 予想もしなかったことを訊かれて、反応に困った。
 冗談か軽口かなと思ったけれど、彼はやっぱり真剣な顔をしている。
「いずみん、どの教科でもいつも小テスト満点だし、抜き打ちの復習テストも満点だったし、毎日死ぬほど勉強してんだろうなって」
 日和くんがふいにこちらに身を乗り出し、
「なんか今日は、顔色も悪い気がするし……」
覗き込むように私の顔を見つめて言った。
「頑張りすぎてんじゃない? あんまり頑張りすぎると倒れちゃうよ」
 真っ直ぐな瞳が私を映している。
光に照らされて、淡い茶色に透き通る、澄んだ瞳。
 そんな綺麗な眼差しを向けられているのが苦しくなって、私はふいと顔を背けた。
「……普通だよ」
 なんとか作り笑いを浮かべて答える。
日和くんは、「ならいいけど……」と、まだ少しなにか言いたげな表情で言った。





 日和くんの予言が当たった……わけではないと思うけれど、午後になって急に体調が悪化した。
 胸のあたりがぐるぐるする。気分が悪い。吐き気がする。
 額やこめかみにじっとりと脂汗が浮いているのを感じた。
 お昼のとき、食欲がなかったのに、香織ちゃんたちに心配をかけたくなくて、それとお母さんの機嫌を損ねたくなくて、無理してお弁当を残さずお腹に詰め込んだ。あれが良くなかったのかもしれない。
 気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い。それしか考えられなくなる。
 でも、授業中にいきなり席を立って、『体調が悪いので保健室に行かせてください』なんて、そんな目立つことはしたくない。
 じっと座っていれば、きっとよくなる。
 我慢していれば、嫌な気持ちは通り過ぎていく。今までずっとそうだったんだから。
 でも、気持ちが悪い。むかむかする。頭が痛い。
 吐き気と頭痛を紛らわすためには、もっと強い痛みが必要だった。
きつく唇を噛み、右手で左腕をぎゅうっとつかんで、カーディガンの上から爪を立てた。
「いずみん」
 こつこつ、と音がする。重たい頭をなんとか動かしてゆっくりと目を向けると、隣の日和くんが、眉をひそめてこちらを覗き込んでいた。
「いずみん、大丈夫?」
 大丈夫、と答える前に、視界がぐにゃりと歪み、急に薄暗くなった。
 力が入らない。姿勢を保っていられなくて、身体が大きく傾いていくのが自分で分かった。でも、どうしようもなかった。
 そのまま倒れ込んで、硬い床に全身を強く打ちつける――と覚悟していたのに、衝撃は訪れなかった。
 なんとか薄目を開けて、ぼやけた視界で周囲を窺い、倒れる寸前に誰かに抱き止められたのだと分かった。
 そのまま身体をふわりと抱き上げられる感覚。
 心地いいぬくもりに包まれながら、私は意識を手放した。





 目を覚ますと、保健室にいた。
 白い天井と、四方を囲む薄水色のカーテンでそれを理解する。
 ゆっくりとベッドから身を起こし、自分の腕を無意識に見つめていたら、
「泉水さん、起きた? 体調はどう?」
 養護教諭の先生が、カーテンを開けて顔を覗かせた。
「あ……すみません、平気です」
 私は軽く頭を下げて答える。まだ少し頭がぼんやりしているものの、気を失ったようにぐっすり眠ったおかげか、倒れる前の吐き気はすっかりよくなっていた。
 先生が「それならよかった」と少し微笑む。
「熱はないみたいだけど、やっぱり顔色があんまりよくないわね。ゆうべはちゃんと眠れた? 朝ごはんは食べた?」
「あ、はい……」
 頷いたところで、先生の目が私の腕、いつものように癖で袖口を引っ張っている手のあたりに向けられている気がして、反射的に掛け布団の中に腕を隠す。
 すると先生の目がすうっと細くなり、
「あなた――」
 となにか言いかけた。びくりと肩が震える。
ちょうどそのとき、ぱたぱたと足音が響いてきた。
「あ、いずみん起きてる! 大丈夫?」
 カーテンの向こうに揺れる、太陽みたいな金色の髪。
「日和くん……」
 先生の後ろから顔を出した彼は、心配そうな表情を浮かべている。
「龍ケ崎くん、泉水さんの荷物、持ってきてくれた?」
「はい、持ってきました」
「ありがとう。……泉水さん、彼があなたをここまで運んできてくれたのよ。ちゃんとお礼を言っておいてね」
「あ、はい」
 先生が再び私の腕をちらりと見て、「また今度ゆっくりお話ししましょう」と言い、カーテンを開けて離れていった。
 私は日和くんのほうを向き、「ありがとう」と頭を下げる。
「ごめんね、色々迷惑かけちゃって……」
 彼の目の前で気を失ったせいで保健室まで運ばせてしまったことも、さらに荷物までわざわざ持ってこさせてしまったことも、本当に申し訳なかった。
「いや、それは全然いいんだけどさ。具合はどう?」
「あ、もう全然大丈夫。たっぷり休んだから」
「そかそか、よかった。でもマジでびっくりしたよ、急に倒れるから……みんなも心配してたよ」
 彼はベッド脇の丸椅子に腰かけ、こちらをじっと見つめて言った。
「やっぱ体調悪かったんだな。すぐ気づけなくてごめん」
 どうして彼が謝るんだろう。
 そもそも、どうして私なんかを心配してくれるのだろう。
 不思議に思いながら、私は首を横に振る。
「ううん、ただの寝不足だから……」
「なんで?」
 即座に訊ね返されて、返答に詰まった。
「……なんでって……」
「なんで寝不足なん? スマホ見るのやめられなかったとか? 好きな漫画とかテレビ見てたら止まらなかったとか?」
「や……」
「じゃないよな。いずみんって、そういう感じじゃないもんな。ちゃんと自制できそうだもん」
 答えを先回りされて、まごついてしまう。
「いや、あの……勉強、してて……」
 もごもごと答えた。
 睡眠時間を削ってまで必死で勉強しているというのは、なんだか恥ずかしくて情けなくて、あまり知られたくない。普通に勉強して普通に今の点数をとれているのだと、できれば思われたい。
 でも、助けてくれた日和くんに嘘をついたりごまかしを言ったりするのはさすがに気が引けて、正直に答えた。
「私、要領が悪いから……効率よく勉強できる人はいいんだろうけど、私はとにかく時間かけてやるしかなくて」
 なぜか言い訳がましい口調になってしまう私を、じっと黙って見ていた彼が、ふと口を開いた。
「……勉強、頑張ってるのは偉いけどさ」
 真摯な眼差し。
 見られたくないことまで見られてしまいそうで、知られたくないことまで知られてしまいそうで、思わず目を逸らした。
「体壊すほど無理して頑張るのだけは、違うよ。勉強だけじゃなくてさ、習い事でも部活でも趣味でも、なんでも」
「……そうだね」
 私は上の空で頷いた。
「あのさ――」
 日和くんがなおも続けようとしたとき、保健室の電話が鳴った。先生が受話器をとり、なにか話をしている。
 通話を終えた先生が、私を見て言った。
「泉水さん、担任の先生から内線。お母様がもう職員室にいらしてるって」
「え……っ、お母さん?」
「早退の手続きをして、今からここに来てくれるわ」
 ぼんやりした頭で、やっと状況を理解した私は、驚きのあまり声が震えた。
「お母さんが……迎えに……?」
 先生は当たり前のように「ええ」と頷く。
「あなたが寝てる間に担任の先生にお願いして、お母様に事情を連絡してもらったの。そしたらすぐに迎えに行くって。もう着かれたなんて、本当に急いで来てくださったのね」
「………」
 先生が微笑んだ。
「きっとあなたのことが心配で仕方なかったのね。優しいお母様じゃない。今日はもう帰ってゆっくり休みなさい、あと一時間だし」
 壁の時計を見ると、ちょうど五、六限目の間の休み時間だった。だから日和くんが顔を出してくれたのかと思う。
 でも、ただの寝不足なのに早退なんてしてもいいのだろうか。
 迷っていたとき、先生がベッドに近づいてきて、静かに告げた。
「お母様に、それの話、してもいいかしら」
 先生の視線は、間違いなく私の両腕に注がれていた。
「だめです!」
 私は腕を背中に回し、反射的に叫んだ。
『なにか知ってるんですか』とか、『勝手に見たんですか』とか、問い詰めたいこともあったけれど、まずは、お母さんにばらされるのだけは、なんとしても阻止しないといけなかった。
「やめてください……それだけは……」
 懇願するように言うと、先生が「でも」と眉をひそめる。
「黙って見過ごせないわ」
「絶対に言わないでください」
 先生の言い分は無視して、繰り返し主張する。
「どうして?」
 先生が私の考えを読み取ろうとするように、じっとこちらを見据えている。
「あなたが倒れたって聞いたら心配してすぐに駆けつけてくれて、娘思いのお母様じゃない。それなのに、悩んでることがあっても、お母様には話せない?」
 私はふるふると首を振った。お母さんには、いちばん話せない。
「心配……かけたくないし……」
 もっともらしい言い訳を思いついたので口にした。先生が口もとを歪める。
「親御さんからしたら、悩んでるのに黙っていられるほうが、よっぽどショックだし心配なのよ」
「でも……言わないでください、本当に」
 先生が今度は呆れたように、諦めたように溜め息をついた。
「担任の先生には?」
 再び首を振る。もちろんだめだ。担任からお母さんに話が伝わってしまうかもしれない。
「じゃあ、スクールカウンセラーの先生とお話ししてみない? 守秘義務っていうのがあってね、カウンセラーの先生は相談内容を絶対に他の人には話さないから」
 私はまたきつく首を振った。
「大丈夫です。自分でなんとかします、できます」
 視線を感じる。日和くんが見ている。
 クラスメイトにこんなところを見られるなんて、最低だった。なんとか気づかないでいてくれますように、と心から祈る。
 そのとき、保健室のドアをノックする音がして、私たちはそちらに目を向けた。
「失礼いたします。娘がお世話になっております」
 甲高く丁寧な声が言う。お母さんの、よそ行きの声だった。
「泉水です。入ってもよろしいでしょうか」
「ああ、お母様。お忙しいところ、わざわざ足を運んでくださってありがとうございます」
 すぐに先生がお母さんを出迎え、保健室の中に招き入れた。
「いえいえ、こちらこそ。娘がご迷惑をおかけして、申し訳ございませんでした。本当にありがとうございます」
 なにか余計なことを言われてしまうのではないかと内心はらはらしていたけれど、先生は事務的な連絡を済ませると私に向き直り、「じゃあ、お大事にね」とだけ言ったので、心底ほっとした。





「まったくもう、あなたは……」
 ふたりで保健室を出て、来校者用の駐車場に向かう途中、お母さんの小言の嵐が始まった。
「先生方にこんな迷惑かけて……恥ずかしいやら申し訳ないやら……」
 周囲に誰もいないのをいいことに、さっきまで先生の前で見せていた、愛情溢れる優しい母親の仮面は剥がれ、苛立ちを隠さない表情がさらけ出されている。
 世間体を気にするお母さんからしたら、『娘を睡眠不足のまま学校に行かせた』なんて受け入れがたいことで、母親として監督不行き届きだと思われてしまう、『理想の母親』から遠ざかってしまうのが嫌なのだろう。
「なんで倒れるまで気づかないの? 自分でおかしいと思わなかったの?」
「ごめんなさい……」
 倒れたことを心配してくれているんじゃないか、私が毎日どれだけ頑張っているか気づいてくれるんじゃないか、そんな淡い期待が、脆くも崩れ去っていく音が聞こえるようだった。
「寝不足なんて……どういうこと?」
 お母さんが大きな溜め息を吐き出しながら、私を問い詰める。
「ちゃんと寝てなかったの? 夜ふかししたの? どうして? いったいなにをしてたの?」
「………」
 どうしてって? なにをしてたって?
 それはお母さんがいちばんよく知ってるでしょ。
 どうせ口には出せないのに、頭の中では反論が渦巻いている。
 お母さんの言いつけ通りに勉強してたんだよ。
 学校と塾から出される大量の宿題を終わらせたあとに、お母さんが望むプラスアルファの勉強もしてたんだよ。
 睡眠時間を削って頑張ってたんだよ。
 だから寝不足になって倒れたんだよ。
 頑張ってるのねって、偉いわねって、言ってくれるんじゃないかと少し期待してたのに。
 身体は大丈夫なのって心配してくれると思ってたのに。
 そんな甘い考えに浸っていた私は、なんて馬鹿なんだろう。
 お母さんは私じゃなくて、私の成績だけに興味があるのだ。
 お母さんの承認欲求を満たせるような『いい娘』の私にしか興味はないし、そうじゃないなら必要のない邪魔な存在なのだ。
 そんなこと、分かりきっていたはずなのに。
「いつも言ってるでしょう、自分の体調管理も能力のうちなのよ。どんなに受験勉強を頑張ったって、入試当日に風邪なんて引いたら全部水の泡でしょう。それに、学生のうちは体調を崩したら心配してもらえるけど、社会に出たらそうはいかないの。大事な仕事の日に体調不良で休んだりしたら、『自己管理能力が低い』って評価されて、見限られて終わりよ」
 私の気持ちなど知るはずもなく、お母さんはお説教を続けている。
「はあ、まったく……。高校生にもなって自分の体調もコントロールできないようじゃ、大学受験も先が思いやられるわね……」
 駐車場に辿り着き、お母さんが運転席のドアを開けた。
 私は後部座席のドアの前で動きを止め、立ちすくむ。
「お母さん、自分のことは二の次で全部犠牲にして、毎日毎日あなたのことだけ考えて、必死にサポートしてるのに、どうしてあなたはそうなのかしら……親の心子知らずよね、本当に」
 ぷちん、となにかが切れる音がした。
 なにそれ。
 私は、これまでずっと、お母さんに言われたことを、言われた通りに、必死にやってきたのに。お母さんの期待に応えるために、頑張ってきたのに。
私だって、なにもかも全部犠牲にしてきたのに。
 それなのに、たった一度、失敗しただけで、こんなに怒られなきゃいけないの? 呆れられなきゃいけないの?
「――もう、やだ……!」
 気がついたら、踵を返してお母さんに背を向け、走り出していた。
「ちょっと! どこに行くの!?」
 驚いたような、焦ったような声を背中で聞きながら、私は目の前の現実から逃げ出した。