「おっ、いずみんじゃん」
 窓から射し込む光を受けて金色に輝く頭が、ひょいとこちらを向いた。
 もしもこれが小説か漫画だったら、まさに『太陽みたいな』と表現されそうな、屈託のない笑顔が私を見ている。
 彼は「やっほー」と軽く手を上げて、まるで何年も前からの大親友に対するような気さくさで、私に挨拶をした。
「あ……」
 うわ、最悪。めっちゃ苦手なひとの隣になっちゃった。
 そんな感情が顔に出てしまっていないか不安になりつつも、私は必死に表情筋を動かし、なんとか笑みを浮かべて答える。
「どうも……よろしく」
「俺ら、なにげに初絡みじゃね? よろしくなー、いずみん!」
 同じクラスとはいえ、これまで接点は一切なく、まともに話したこともないのに、いきなりあだ名で呼んでくる、この距離感がバグっている感じ。こういうところが、特に苦手なのだ。
 そういうことをしても、自分のキャラなら許される、という自覚があるのだろう。たしかに彼なら許されるだろうなと、客観的に見て私も思う。
 いつでも絶やさない明るい笑顔、誰にでも分け隔てなく接する人懐っこい性格。
 そういう内面的な特長だけでもだめで、外見もやっぱり大事だ。
 彼は、たとえばアイドルみたいにずば抜けて綺麗な見た目をしている、というわけではない。でも、清潔感があり、すらりとした体型で姿勢がよく、歩いているだけでなんとなく目立つ。顔立ちも、華やかな目鼻立ちではないものの、ひとつひとつのパーツの配置が整頓されていて、バランスがいい。ファッションやヘアスタイルも、垢抜けて洗練されていて、よく言う雰囲気イケメンというやつだ。
 だから彼は人気者だし、男女ともに友達が多く、いつも人の輪の中心にいる。
 でも私は、こういうちゃらちゃらした人は苦手だ。
 ちゃらちゃらした格好ができる時点で、私とは根本的に、スタート地点から違うことが分かる。気が合うわけがない。
 制服を着崩したり、おしゃれな髪型をしたり、メイクをしたり『するのを許されるかどうか』以前に、そういうことを『してみたいと思える』のは、まずもって自分に自信があるからだ。自信を持てるような素材を持って生まれたからだ。
 誰だって、いくら磨いても宝石にはならないと初めから分かっている道端の石ころを、時間も手間もかけて必死で磨いたりはしないだろう。輝く宝石の原石ならまだしも、石ころに生まれたら、宝石になる夢は諦めるしかないのだ。
 髪を明るく染めたり、シャツの第二ボタンまで開けたり、可愛いアクセサリーを身につけたり、スカートを短くしたりしたいと思ってできるのは、一部の人間だけ。容姿が優れているとか、運動神経がいいとか、コミュ力が高いとか、そういう、いわゆる『特権階級』の人気者だけ。『それ以外の人間』がそんな格好をしようものなら、『自分の分際をわきまえていない、イタいやつ』という烙印(らくいん)を押される。
 私は石ころだし、分相応を知っているから、おしゃれやメイクなんて一生しない。
 持って生まれた違いはそれだけではない。ちゃらちゃらした格好をしている人は、そういう格好をしても許される家庭環境も持っているということだ。
 たとえば私がすごく美人だったり可愛かったりしても、私の親は、私がスカート丈をいじったり髪を染めたりしたら、卒倒するか怒り狂うだろう。『こんな娘に育てたつもりはない』とか言って絶縁されるかもしれない。
 彼の金色に輝く髪の隙間で日射しに煌(きら)めく銀色のピアスや、開いた襟元から覗く紫色の派手なTシャツや、手首に巻きつけられたブレスレットを横目に見ながら、私はふうっと溜め息をついた。
 つまり、私が持っていないもの全てを、彼は生まれながらに持っているのだ。
 だから、羨ましすぎて、苦手だ。
「はーい、お引越しは終わったかな? そろそろ静かにしてね」
 教壇のほうから聞こえてきた担任の先生の声で、我に返った。
 今は月曜一限のホームルームの時間。先週二学期の中間テストが終わったので、席替えのくじ引きをして、一斉に新しい席に移動したところだった。
 私は窓側二列目の、いちばん後ろの席を引き当てた。そして、窓際の列の最後尾、つまり私の真横が彼だ。
「じゃあ、座席表を配るので、自分の名前を書いていってね。座席表を回してる間に、提出物の回収と、ノートの返却、あとプリントの配布と――」
 先生が指示をする間に、教室を支配していた席替えの興奮が徐々におさまっていき、通常運転に戻る。
 大量のプリントが配られている間に廊下側からひとりずつ回ってきた座席表が、やっと私の列に辿り着いた。前の席の女子から紙を受け取り、『泉水(いずみ)』と自分の名前を書き込んだあと、隣に目を向けた。
 彼は前の席の男子と楽しそうにおしゃべりをしていて、こちらに気づかない。なんとかあちらから気づいてもらえないかとしばらく待ってみたけれど、無理そうなので、声をかける決意を固める。
 彼のようなカースト最上位の人に、私のような下位の人間が呼びかけるのは、たとえるなら雑用係が不敬にも王様に声をかけるようなもので、かなりの勇気を要する。
「――あの、龍ケ崎(りゅうがさき)くん……」
 金色の頭を揺らして、ぱっと振り向いた彼は、にこりと私に笑いかけた。
「日和(ひより)でいいよ! みんなそう呼んでるし」
 うえ、と私は思わず内心で呻(うめ)く。
でいいよって、なにその謎の許可、全然求めてないんですけど。たしかにうちのクラスの人も他のクラスの人も、男女問わずみんな『日和、日和』って呼んでるのは知ってるけど、でも私は別にあなたのこと、下の名前で呼びたくなんかないんですけど。みんながみんな、あなたと仲良くなりたいと思ってるわけじゃないんですけど。
 でも、いいよと言われたのにあえて違う呼び方をしたら、まるで厚意を無下にするようで、失礼どころか、それこそ自分が『わきまえていないやつ』になってしまうので、私はへらりと笑ってみせた。
「じゃあ、日和くん……」
 はいどうぞ、と座席表を差し出して言うと、彼はありがとー、と受け取りながら、にかっと笑った。
「『日和くん』って。めっちゃ可愛い呼び方してくれんじゃん」
「え……っ」
 男子を呼び捨てにするなんて発想が私には全くなかったので、迷いなく『くん』づけにしたのだけれど、まさかこんな反応をされるなんて。
予想外の展開に動揺するあまり、頬に熱が集まるのを感じる。それでさらに焦って、ますます顔が熱くなってしまう。
「あははっ、真っ赤じゃん!」
 彼がいつもの人懐っこい笑顔で言った。
 私は心の中で『無神経!』と悲鳴をあげる。なんでスルーしてくれないの。友達でもなんでもないんだから、ここは気づかぬふりで流すところでしょ。ただでさえ恥ずかしいのに、もう最悪だ。
「照れてんの? いずみん、かっわいー」
 にこにこして彼は言った。からかうふうでも、馬鹿にするふうでもなく。
 もう本当この人最低、と叫びたかった。
 言っていいことと悪いことの区別もつかないの?
 彼女でも女友達でもない、ただのクラスメイトの女子に、『可愛い』なんて危うい単語を軽く言えちゃうところ、こういうところもすごく、特に苦手だ、苦手を通り越して無理だ。
 異性に『可愛い』と言ったり言われたりなんて、彼の生きる遥か雲の上の世界では日常茶飯事なのかもしれないけれど、私にとっては今まで一度も経験したことのない非常事態なのだから。
 もし、百歩ゆずって、私の顔が実際に、誰が見ても可愛かったり美人だったりするなら、冗談交じりの『可愛い』くらい言ってもいいかもしれない。それは女優さんやアイドルの子に言うようなのと変わらないから。
 でも、現実の私はこれだ。こんな地味な容姿の、しかも赤の他人の女子に向かって『可愛い』なんて、冗談にもならないのだ。
 こっちだって反応に困る。『いや、全然可愛くないし』なんて真面目に返したら、逆に『可愛い』と言ってもらったのを真に受けてしまった自意識過剰で冗談の通じない面倒くさいやつになってしまうし、『ありがとう』なんて答えた日には自己評価大間違いのイタいやつ確定だ。
 ああ、本当に、生きるのって難しい。
 とりあえず、この場での最適解は『全てなかったことにする』だという結論に達して、私は「あはは」と曖昧な笑いを返して前に向き直る。
 それから彼のほうは一切見なかった。
 正直なことを言わせてもらえば、もう二度と私には話しかけないでほしいし、目も合わせたくないくらいだ。
 それくらい、私は彼――龍ケ崎日和が苦手だった。





 昼休みはいつも、香織(かおり)ちゃんと早(さ)希(き)ちゃんが私のところに来てくれる。彼女たちとはクラス替えをしてすぐに仲良くなり、以来ずっと一緒に行動していた。
 周りの空いている席から椅子を借りて、私の机を三人で取り囲む。
「もうやだー、午前中だけで二回も当てられたんだけど!」
 香織ちゃんが、お弁当箱の蓋を開けながら泣きそうな顔で言った。彼女は一限目の席替えで、残念なことに最前列のど真ん中、教卓の真ん前を引き当ててしまったのだ。
 早希ちゃんが「分かるー」と口をへの字にして頷いた。
「私も去年一回あの席になったけど、この学校の先生たち、軽い感じでめっちゃ当ててくるよね」
「ほんとそれ! 出席番号順とか席順じゃなくて、たまたま目が合った生徒に気軽に当てる的な」
「ほんとやめてほしいよね。こっちにだって心の準備ってもんがあるじゃんね」
「そうそう!」
 彼女たちの心の内は、私にもよく分かる。いきなり問題に答えろと当てられることも嫌だけれど、急にクラスのみんなからの注目を浴びるのもつらいのだ。みんなに見られていると思うと緊張して頭が真っ白になって、分かっていた答えも分からなくなってしまったりする。そういう心の動きを口に出すのはさすがに情けなさすぎるので言わないけれど。
「いずみんはいちばん後ろだもんね。いいなあー」
 香織ちゃんが羨ましげな表情でこちらを見て言うので、私は笑って「えへへ、めっちゃラッキーだった」と答えた。
「本当いいなー、替わってほしい! お願い、お願い!」
 若干の本気が混じったトーンで手を合わせて言われ、私は辟易(へきえき)する。
 この場合、どういう返しをすれば、相手の気分を害さず、場も白けさせずにいられるだろうか。
 笑顔を貼りつけたまま頭をフル回転させ、でも結局いい答えは見つけられず、曖昧に笑うことしかできなかった。
 微妙な空気になりかけたのを察してくれたのか、早希ちゃんが私の手もとを覗き込んで「わあ」と歓声を上げた。
「いずみんのお弁当、今日もすごーい!」
「あはは……」
 私は笑いながら自分の弁当箱の中身に視線を落とす。
 赤、黄、緑、白、黒、薄茶、ピンク、オレンジ。目がちかちかするほどの色彩に溢れ、細かい飾りがたくさん施された、いわゆる『デコ弁』、デコレーション弁当だ。
 毎日早起きをして、薄暗いキッチンで背中を丸めてちまちまと作業をしているお母さんの後ろ姿が、ふっと脳裏に浮かぶ。
 高校は自宅から遠いので、家を出る時間は中学のころより一時間以上早い。
『もう高校生だし、毎朝早くて大変だろうし、普通のお弁当でいいよ』
 お母さんの機嫌がいいときを見計らって言ってみたけれど、当然ながら断られた。
『お母さんがやりたくてやってるんだからいいのよ』
 そう言われると強くも出られず、恥ずかしさともやもやを抱えながらも、幼稚園児向けのような可愛らしすぎるお弁当を毎日食べている。
「いずみん、愛されてるねー」
 香織ちゃんがプチトマトをつまみながら言った。早希ちゃんも同意するように頷く。
「いずみんママ、めっちゃ優しいんだろうなあ」
「だろうねー、羨ましい! うちのお母さんなんてほぼ鬼だよ、怒るとマジでやばい。ちょっと反論したらすぐキレて『スマホ解約するよ!』とか脅してくるしさー」
「うちもうちもー。喧嘩した次の日のお弁当、全部嫌いなおかずにされたり」
「つらいよねー。いずみんのお母さんは優しいから、絶対そんなことしないんだろうね」
「いいなー、いずみんは」
 ふたりが私を羨望の眼差しで見つめる。
 私はまた「あはは」と笑いながら、いつもの癖でカーディガンの袖をぎゅっとつかみ、手のひらのあたりまで引き伸ばした。
 そのとき、「なあなあ」と横から声がした。なにげなく見ると、日和くんがこちらに目を向けている。
「あのさあ、いずみん」
「え……っ」
 まさか自分が声をかけられているとは思ってもみなかったので、心底驚いた。
 住む世界が違うのに、どうしてわざわざ雲の上から地べたの人間に話しかけてくるのか。
 ほら、香織ちゃんと早希ちゃんも、固まってしまったじゃないか。
 彼女たちも私と同じで、彼のようなカースト上位の人間に向き合うと萎縮してしまい、コミュニケーション能力が著しく低下する。仲間内だけで話すときは普通に盛り上がって騒いだりできるのに、上位の人たちが近くにいて話を聞かれていると分かると、急に言葉が出なくなり、表情筋も固まってしまう。
 誰に対してもどんな状況でも、いつもと同じ態度でいつもと同じように会話できるというのもまた、最上位の人たちの特権なのだ。それ以外の人間は、彼らの顔色や反応を窺わずにはいられない。
「ちょっと質問していい?」
 彼は先生に発言の許可を求める小学生のように、ぴんと右手を挙げてそう言った。
「え……うん、なに?」
 質問は受け付けません、なんて答えられるわけがないので、私はへらりと笑う。
「いずみんってさあ、なんでいっつも長袖なん?」
 どきりと心臓が跳ねた。
 でも、大丈夫。慣れている。ふうっと細く息を吐いて、気持ちを落ち着けた。
 わずかに顔をうつむけて、グレーのカーディガンに包まれた自分の腕を見る。
 本来なら十月の初めから冬服を着ることになっているけれど、今年は例年より気温も湿度も高い日が続いていて、臨時措置として衣替えは延期されていた。だから、みんなまだ夏服だ。
 そんな中で私だけ、夏服の上に長袖のカーディガンを羽織っている。それも気温にかかわらず毎日。
目立って当然だ。自分でもよく分かっている。
 真夏にもずっとカーディガンを手放さない私は、去年も今年も何度かこの手の質問を受けた。さすがに誰も日和くんのように直球では訊かないけれど、「長袖そろそろ暑くない?」などと遠回しにさりげなく探られるのだ。
 本当なら『日焼けしたくないから』と返したいところだし、『肌が弱くて、日焼けすると荒れちゃうから』なんて答えられたらいちばん説得力があるのだろうけれど、美人でも可愛くもおしゃれでもない、色白でもない私が日焼け対策で長袖を着ているなんて、『美白の前にやることあるでしょ』などと思われるに違いない。
 似たような理由で、『寒がりだから』『冷え性だから』も使えない。そういうのは、華奢な身体つきでいかにもか弱そうな女の子が言うからこそ成り立つのであって、私みたいにしっかり脂肪がついていて骨格にも恵まれてしまった中肉中背女子は、なんとなく口にしづらい。下手をすれば、心配してもらいたがっているかまってちゃんと思われかねない。それは絶対に避けたい。
 ちょっと考えすぎかな、被害妄想かなとも思うけれど、考えすぎなくらいのほうがいいのだ。考えなしの言動で大失敗をしてしまうくらいなら。
 そういうわけで、今回も私は、これまでに考え抜いて出した最善の答えで返す。
「なんか、長袖が好きで……」
 我ながらよく分からない答えだ。
でも、この答えなら自意識過剰感も出ないし、ただの好みで夏場も長袖を着ているちょっと変わった子と思われるくらいで済むだろう。これ以上掘り下げられることもないはずだ。
「へえ、そうなんだー。教えてくれてありがとな」
 わざわざ訊いてきたくせに、彼はあっさりと引き下がり、再び仲良しの男子と話し始めた。
 たいして気にもなってないなら、わざわざ訊かなくてもいいのに。いい迷惑。
 そんな思いを押し殺しつつ、
「ごめん、ちょっとトイレ行ってくるね」
 香織ちゃんと早希ちゃんにそう告げて、私はそそくさと席を立った。

 トイレの洗面台の前に立ち、カーディガンの袖口が濡れないように軽く捲り上げる。
 手を洗いながら、鏡に映る自分を見つめる。
ちょっと袖を上げすぎていることに気づいて、慌てて引き下げた。今は誰もいないけれど、いつ人が入ってくるか分からない。
 袖に触れた手が濡れていたせいで、カーディガンに水滴がついていた。すぐに生地に吸い込まれ、かわりに少し暗く変色して水染みになる。
 ふう、と息を吐く。
 正直、いつでも長袖を着ているのは面倒くさい。夏は本当に暑くて汗が止まらないし、手を洗うときにいちいち濡れないように袖を捲るのも面倒だ。
 でも、着ないわけにはいかないのだから仕方がない。
 家から電車で一時間近くかかるこのB高校をわざわざ選んだのだって、校則が厳しくなくて、髪色や服装の自由度が高いので夏場のカーディガンも許されるという理由からだ。
私が生まれ育ったこの町は、いわゆる地方都市で、田舎というほどではないけれどまだまだ古い価値観が残っている。そんな土地柄、身だしなみに厳しい学校が多い。
だからどうしても自由な校風のB高に入りたくて、自分の学力に見合わないくらい偏差値が高かったけれど、合格するために必死に勉強したのだ。
 寝る間も惜しんで参考書や問題集に向き合う私の姿を見て、お母さんは『やっとお勉強の大切さを分かってくれたのね』と喜んでいたけれど、実はただただ長袖を着たかっただけだなんて知られたら、大いに失望されるだろう。





 自宅マンションに辿り着き、エントランスに入ってインターホンの前に立つ。
 部屋番号と呼び出しボタンを押すと、すぐにお母さんの『お帰りなさい、今開けるわね』という高い声がホールに響き渡った。同時に自動ドアが開き、私は中へ入る。
 エレベーターを待つ間にふと、いつまでこんなことを続けるのだろうか、と考えてしまった。
だって、私も家の鍵を持っているのだから、自分でエントランスのドアを開けて中に入ることはできるのだ。そのほうがずっと早いし、私もお母さんも楽だ。
それなのに、お母さんは、私が自分でそうすることを嫌がる。
『お母さんが子どものころ、誰もいない家にひとりで帰って自分で鍵を開けて入ってすごく寂しかったから、あなたには同じ思いをさせたくないの』
 たまになら別にいいけれど、さすがに毎日は面倒くさいし、もう高校生だから寂しいなんて思わないし、やっぱり時間がもったいないと思う。そんなことはもちろん口に出しては言えないけれど。
 エレベーターに乗り込んで、十階のボタンを押す。
 途中、立体駐車場のある二階で止まり、人が乗ってきた。サングラスをかけて、高級ブランドのバッグを持って、颯爽(さっそう)と歩く綺麗な女の人だ。さらさらの長い髪、つやつやのネイル、きらきらのアクセサリー。都会ではないものの大きめの駅と商業施設に隣接したこのマンションには、こういう雰囲気の住人がわりと多い。
 小学四年のとき、一度だけ同じクラスの女の子がうちに遊びに来たことがあった。クラス替えで仲良くなって、『いずみんちに遊びに行きたい』と言われたのだ。
それまで私は家に友達を呼んだことがなかったので、お母さんは前日から張り切って手作りのケーキやクッキーを焼き、新鮮なフルーツを買ってきてジュースを絞り、帰り際には高そうな箱に入った手土産のお菓子まで渡していた。
『いずみんのおうち、すっごーい! お金持ちなんだね、お姫様みたい!』 
 友達は興奮した様子で帰っていき、次の日にはクラス中の人に、『いずみんの家はお金持ちで、お姫様みたいな暮らしをしている』と言って回った。
悪意はなかったと思う。彼女はとても素直で無邪気な子だったので、ただ自分の見たものをみんなと共有したかっただけなのだ。
 でも、彼女の話を聞いた一部の人が面白がって、私に『姫』とあだ名をつけた。姫なんて呼び名が似合わないことは、自分がいちばんよく分かっている。私は言葉にならない気まずさと居心地の悪さを味わい、もう二度と友達を家には呼ばない、と心に決めた。
 たしかにうちはお父さんが小さいけれど会社を経営をしていて、裕福なほうだとは思う。でも、そんな、みんなから羨ましがられるような家では決してないのだ。
 エレベーターを降りて部屋に向かう。お母さんが玄関ドアを開けて待っているのが見えた。
 ただいま、と声をかけると、「お帰りなさい」といつもの満面の笑みが返ってくる。
家の中に入って玄関のドアが閉まるとすぐにお母さんの笑顔は消え、まるでお医者さんに検査の結果を訊ねるかのような深刻な表情で、こう言った。
「数Ⅱのテスト、どうだった?」
 私は溜め息がこぼれそうなのを必死にこらえる。
 これはテストのたびに行われる恒例行事だ。試験が終わってから成績表が出るまでの約一週間、お母さんは毎日その日に返却されたテストを出すように言い、ひとつずつ答案をチェックして、ああだこうだとコメントをする。
「まだ返ってきてないよ」
 私が荷物をおろしながらそう答えると、お母さんの顔が落胆の色に染まった。
「どうして? 今日は数Ⅱの授業があったはずでしょ」
 私の時間割までしっかり把握しているのだ。小学生でもないのに。
「採点が間に合わなかったみたい。返却はあさっての授業だって」
「まあ、まだ採点が終わってないの? なにをしてるのかしら、数Ⅱは林(はやし)先生よね」
 不満そうな顔で先生を責めるような言い方をするお母さんに、内心呆れる。なんでこんなに偉そうなんだろう。
「なんか出張があったから採点できなかったって言ってたよ」
「なにも採点がある時期に出張しなくてもいいでしょうにねえ。テストの結果をやきもきして待ってる生徒の気持ちも考えてほしいわよね」
 私の点数についてやきもきしているのはお母さんのほうでしょ、と言えたらどんなにすっきりするだろう。
「ああ、本当に、数Ⅱは何点なのかしら。あなたは数Bは悪くないけど、Ⅱのほうは一学期さんざんだったものね。今回はせめて平均点プラス十点はとれてないと……」
 高校生の我が子の各教科のテストの点数を、こんなにも気にしている親は、かなり少数派なんじゃないかと思う。溜め息を飲み込むのに必死だった。
香織ちゃんや早希ちゃんと話していても、赤点をとってしまったり順位が大きく下がったりしたら小言を言われるらしいけれど、うちのお母さんのように細かいことまで把握していちいちアドバイスをしてくるようなことはないらしい。私は彼女たちが心底羨ましかった。
「他のテストはどうだったの?」
 やっぱり深刻な調子で訊ねられ、私は黙って鞄からファイルを取り出し、古典と化学とコミュニケーション英語の答案用紙をお母さんに手渡した。この三科目は暗記の割合が高いので、テスト勉強は頑張って詰め込みさえすればなんとかなるから、いつもながら点数は悪くない。
 お母さんは三枚の答案をさっと確認し、小さく頷いた。
「まあまあね。でも誤字とケアレスミスで三点も落としてるじゃない、もったいない。次は気をつけなさいよ、見直しまで気を抜いちゃだめって言ってるでしょう」
「はい……ごめんなさい」
「それで、偏差値と順位はいつ出るの?」
 お母さんは答案の返却以上に、成績表の配布を心待ちにしているのだ。
「来週の月曜日の予定だって」
「はあ……遅いわねえ。金曜日までに出してくれたら、週末にお父さんに見せられるのに……」
 お父さんは、残業や接待などで忙しいのを理由に、毎日のように会社に泊まり込んでいて、家にはほとんど帰ってこない。
『お父さんね、どうも会社の近くにマンションを一部屋借りてるみたいなの。そんなにうちに帰りたくないのかしら……』
 いつだったか、珍しくお酒を飲んでひどく酔っ払ったお母さんが、泣きながら私にそんな話をしたことがあった。毎日会社に泊まるというのも現実的ではない気がするので、本当にそうなのかもしれない。
 でも毎週土曜か日曜の夕方だけは、お父さんは家に帰ってくる。大量の洗濯物を持ち帰ってきてお母さんに渡し、かわりに洗濯済みの服を持っていくために。
 滞在時間は一時間にも満たず、私の成績表なんて見せても、興味もなさそうにちらりと目を落とすだけだ。それでもお母さんは、毎週土曜の午前中はいつお父さんが帰ってきてもいいように家中を大掃除して、飲んでもらえるか分からないお茶とコーヒーと、口もつけられない軽食を用意して、テスト後なら私の成績表も準備して、お父さんの帰宅を心待ちにしている。お父さんに『家の管理も娘の教育もしっかり手が行き届いているアピール』をしたいのだ。
 私はもう、いい点数を見せてお父さんに褒めてもらうことも、私という存在に関心を持ってもらうことも、小学生のころから完全に諦めている。それなのにお母さんはまだ、お父さんに家庭を顧みてもらうのを諦めきれないらしい。どうせ無駄なのに。付き合わされて身の程に合わない好成績を必死に維持しないといけない私の身にもなってほしい。
 お母さんは、お父さんと世間体にしか興味がないのだ。私自身には興味がない。
お母さんにとって子どもは、ただお父さんに『よくやってるな』と認められたり、世間の人から『すばらしい教育をしてるんですね』と褒められるために必要な材料でしかない。
 だから、ほら、こういうことを笑顔で言うのだ。
「あなたがもっと勉強を頑張って、自慢の娘になったら、きっとお父さんはもっと家に帰ってきてくれるわよ。お母さんもできる限りサポートするから、一緒に頑張りましょう」
「……うん」
 私は別にお父さんに帰ってきてほしいなんて思っていない。むしろ今さら毎日のように帰ってこられたりしたら困る。
 小さいころはお父さんがたまに帰ってくると無条件に嬉しくて、つきまとうように後を追い回してしゃべりかけ、学校のことや習い事の話をしたりしていた。でも、面倒くさそうな顔で適当な相槌だけを打たれていることに気づいてしまってからは、なにも話さなくなった。
 今となってはもう親戚のおじさんが定期的に訪ねてくるというくらいの感覚で、どんな顔をすればいいか分からないし、話すこともないし、ただただ気が重い。
「ああ、今日はなんだか疲れたわ」
 お母さんがふうっと大げさな溜め息をついて言った。
「お母さん、もう部屋で休むわね。悪いけど、晩ごはんは冷蔵庫の中のもの、適当に食べてちょうだい。色々入ってるから」
「はーい……」
 お母さんが寝室に入っていくのを横目に見ながら、洗面所で手を洗ってうがいをする。
 自室で制服を脱いで部屋着に着替えてから、キッチンに入る。
 冷蔵庫を開けて中を確認する。保存容器の中に、お弁当の残骸が入っていた。
 型抜きをされたあとのスライスチーズとハムと薄焼き卵の残り、切り刻まれた焼き海苔の切れ端、半分にされたウィンナー、ばらばらに裂かれたカニカマ、ブロッコリーは茎だけが使われて頭は残っている。
 これも、私と同じだ。
 お母さんが毎日朝早くから丹精込めて作るあのきらきらのお弁当も、お母さんがお母さんの中での『理想の母親』でいるための道具。
もっと皮肉な言い方をすれば、世間から『いい母親』だと評価されるために欠かせないパーツなのだ。
 お母さんは昔から、『夫婦関係も親子関係も良好な、幸せいっぱいの家庭』と周囲の人に思われることに全力を注いでいる。本当は幸せなんかじゃないと自覚しているからこそ、幸せだと思われたいのだ。
 ああ、でも、それは私も同じか。
ふと気がついて、口もとが歪んだ。
 私だって、誰にも家のことを話さず、黙っている。素敵なおうちだね、優しいお母さんだねと言われたら否定せず、にこにこしている。
私も周りから不幸だと思われたくなくて、必死に装っているのだ。
 ふと、シンクに包丁が一本置かれているのに気がついた。
 流し台の上の蛍光灯の光に青白く照らされ、鈍く光る刃。
 いつの間にか、右手が、包丁の柄を握っていた。
 はっと我に返り、頭をよぎった思いを、誘惑を、慌てて振り払う。
 今はだめだ、ここではだめだ。お母さんに気づかれたら大変だ。

残り物の夕食をさっと終えて自室に戻り、机の前の椅子に腰かけて、今週提出の課題に取りかかった。
明日もあさっても塾があるから、今日のうちに半分は終わらせておきたい。
 まずは必須の課題を早く終わらせて、予習と復習にしっかり時間を割かないと、すぐに授業についていけなくなってしまう。
 私の通っている高校は、服装など校風は自由だけれど、県内トップレベルの進学校なので勉強に関してはしっかりやらないといけない。特に私はかなり無理をして入ったので、スタート地点からみんなより出遅れているのだ。
 それなのに『お父さんに自慢の娘だと思ってもらえるような成績』をとらないといけないから、みんなと同じように普通に勉強していたって全然だめだ。だから私は一年生のころから部活にも入らずに週五日は塾に通い、家でも食事の時間以外はほぼずっと机に向かっていた。
「ふう……疲れた」
 二時間ほどで集中が途切れ、溜め息と共に手を止めた。
 ずっと俯いていたので肩と首が痛い。ペンを握りしめている右手の指が軽く痺れている。
 さすがにちょっと休憩するかと思い、息抜きがてらスマホで軽くSNSをチェックすることにした。
 誰かが親の愚痴をつらつらと並べている。親ガチャ失敗、と嘆いている。それを知り合いの誰かに見られる前提で書いている。
 いいなあ、と思った。
友達に打ち明けられる不満でいいなあ。愚痴を吐けていいなあ。
 私にはできない。友達がいないわけではないけれど、打ち明け話はできない。本当にしたい話は、誰にも言えない。
 今は香織ちゃんと早希ちゃんと仲が良くて、毎日色んな話をするし、彼女たちの家のことや親への不満なども日常的に聞いているけれど、聞けば聞くほど、私は言えないなあと思う。だからいつも黙ってにこにこ聞いている。
 そんな私を、彼女たちは、不満もないくらい優しくてすばらしい親を持っていて羨ましいと思っているらしいけれど、実際はこう(、、)だ。
 彼女たちは親の文句を言ったりもするものの、その根底にはちゃんとゆるぎない愛情があり、信頼関係が築かれているのが、はたから聞いていても分かる。
嫌よ嫌よも好きのうちとか、可愛さ余って憎さ百倍とかいう言葉があるけれど、そういうことなのだろう。大好きな親だからこそ、甘えられる相手だからこそ、遠慮なく文句も口にできるのだ。
 だから、私は、言えない。
『私はお母さんもお父さんも大嫌い』だなんて、言えない。
 友達とどんなに仲良くなっても、本音で話すことができないので、心を開けない。
いつだって、周りとの間に、見えないけれど高くて分厚い壁がある。
「あーあ……」
 鍵つきの引き出しを開け、中に入っているカッターを手に取る。刃を繰り出して、デスクライトの光に当てる。
 目の前には、やらなくてはいけない課題や、予習復習用のノート、塾の宿題などがうず高く積み上がっている。まだまだ時間がかかりそうだ。いつ寝られるだろうか。今日もまた五時間眠れたらいいほうかな。
「はあ……」
 また溜め息が洩れる。
 なんのために頑張っているのだろう。
 誰のために生きているのだろう。
 そんな意味のない思考に、ふいにとらわれてしまう瞬間がある。
 なにもかも放り出してしまいたくなる瞬間がある。
 疲れているのかもしれない。すぐに集中力が切れてしまうのも、そのせいだろう。
 疲れているからといって、足を止めて休むわけにはいかない。走りつづけないと、すぐに置いていかれてしまう。私はサラブレッドではないから、厳しく地道な訓練に日々耐えるしかないのだ。
 でも、と心の中で誰かが呟く。
 いつまでこんな毎日が続くんだろう。
 いつまで頑張れば終われるんだろう。
 ふと浮かんだ疑問を、ぶんぶん頭を振って追い払った。
 大丈夫、大丈夫。
気分を変えるためのいちばん効果的な方法を、ちゃんと知っているから。
 私はお守りのようにカッターを握りしめ、左腕の袖を捲り上げた。