吉田紘子の世界は、あたたかさに溢れていた。
「あー、美味しかった!ごちそうさま!いつもありがとね、紘子」
 夜勤明けの「お母さん」は夕方起きてくると、私が作った夕飯を完食してそう微笑んだ。その言葉と笑顔を向けられた私は、なんて返せばいいのか一瞬戸惑う。
「う、うん、どういたしまして」
 これで正しかったのかは不明だけど、私の胸の内はとてもあたたかい。
 こんなにも、裏表のない感謝をされたのは、いつぶりだろう…。
 当たり障りのない友人関係、あからさまに私に気を使う教師陣。それもこれも、全部父親のせいだった。
 私をこの学園に入れて安心したいがために学園の株を買い占めて筆頭株主になどなったせいだ。
 どこでどう話が回るのか、私が入学した時には周りの生徒たちは皆そのことを知っていたし、そのせいで私は周りからどことなく恐れられているような、そんな扱いを受けてきた。
 私のご機嫌を損ねないように、顔色を窺って、表面上の付き合いしかしない。
 すれ違うだけで、名前も知らない人から挨拶をされたりする。
 どんな人にもずっと笑顔で当たり障りなく接していたら、いつしか恐れられることもなくなったけど、その代わりに私と「知り合いになっておいて損はない」といった魂胆みえみえで接してくる人が増えた。
 それでも私は、誰にでも笑顔で接することを徹底していた。
 そんななんの味気もない学校生活には、正直うんざりだった。
 こんなにも心のこもった「ありがとう」を、やっぱり私は知らない。
 誰かのためにしたことで感謝されることが、こんなに嬉しいことなんだ。
 吉田紘子の世界は、知らないことだらけだ。
 ふと、そんな風に思った。
 今日の学校でのいじめだってそうだ、と私は振り返る。
 制服に水をかけられて立ち尽くす視界の端に感じた「私」の視線は、確かに交わったのに、彼女は逸らした。

ーーーー助けてよ!

 吐き気と一緒に喉までこみ上げてきた悲鳴は、声にはならずに飲み込まれる。
 そんなこと、言えない。
 だって、私は今までただ傍観してきただけだから。
 助けなかったのに、助けてなんて、虫のいいこと言えない。
 助けようなんて、考えもしなかったのだ。なんて薄情なのだろう、私は。そして、自分が彼女の立場に立たされて初めて「薄情」だと考えていることこそに「薄情」さを感じていた。
 そして、理不尽に責め立てられて、沸き起こる怒りをなんとか押さえつけた私の記憶の端に、いつもの吉田紘子の笑顔が浮かんできたのだった。

ーーーそうだ、彼女はこんなとき、笑って謝るんだ…。

 得意の愛想笑いを顔に貼り付けてみれば、いじめた人達は満足そうに去っていった。
 きっと、これが手っ取り早いからなのだろうけど、やっぱり気分の良いものではなかった。
「今日、ジャージで帰ってきたみたいだけど、制服どうしたの」
 食べた食器を下げ終わったお母さんが、私の向かいに腰を下ろしてそう聞いてきた。両肘をテーブルに乗せて、こちらに身を乗り出している。その顔は、やはりどこかパーツパーツで吉田紘子を思わせるつくりをしていた。
「…掃除の汚い水入ったバケツ片づけてたら、転びそうになって浴びちゃった」
 吉田紘子から、いじめの事は母親には絶対に言うなとキツく言われていた私は、嘘にならない程度に事実を述べておく。
「どんくさいわねぇ、気を付けなさいよ。クリーニング出す?」
「明日も学校あるし、洗って乾かせば大丈夫」
 今日のあの騒ぎのあと、スマホには吉田紘子から『制服は手洗いしてよ。クリーニングに出すお金なんてないから』とメッセージが入っていたのだ。まぁ、よく気が回ること。関心しながら、不思議と嫌な気持ちにもならず了解の旨だけ返しておいた。
「まだ高校生の紘子に気を使わせちゃって、本当ごめんね」
 笑って応えた私に、申し訳なさそうに眉尻を下げるお母さん。
「気にしないで、こんなの全然平気だから」
 あぁ、「お母さん」って良いな。
 見返りのない愛情と感謝と心配をくれるお母さん。
 クラスメイトの口から出てくるお母さんは、いつも疎ましく思われていて、「うちは居なくて良かった」なんてのんきに思っていたけれど。
 もし、私のお母さんが生きていたら、こんな感じだったのだろうか。
 もしもの話ほど、無駄なことは無いのに、そんなことを考えてしまう自分がなんだかおかしかった。
 今さら、母親を恋しがるなんて。笑っちゃう。
 そうか、これが吉田紘子が笑う理由なのかもしれない。
 ふとそんなことを思った。
 母親にいらぬ心配をかけないようにと私に言う彼女の顔は真剣そのものだったのを思い出す。笑って自分さえ我慢してその場を抑えれば、それで良いと思っているのだろうか。
 そんなことは、私が詮索したところでわかるはずもないのに、なぜだか私は、吉田紘子のことをもっと知りたいと思っていた。