女主人は朝から興奮していた。

「何よ母さま、こんな早くに」

叩き起こされて、寝起きの悪い娘は母親を睨んだ。

「寝ている場合ではないのよ! 今朝連絡があって、正示様が『ぜひこの家の令嬢と縁談を進めたい』と言ってきたのよ」
「ええ!?」
「これでおまえは金持ちの奥方、そして我が家は安泰よ! さぁ、ぐずぐずしていられないわ。正示様がいらっしゃるので、すぐに準備を始めないと」

そうして数時間後、正示と女主人は応接間にいた。

「突然のことで申し訳ありません」
「いいえ! こちらこそ有難いお話を感謝申し上げます」
「とんでもない、昨日お会いして、とても素敵な方と思ったのですよ。是非私の妻にとすぐに思いました」
「もったいないお言葉です。では、すぐに娘を連れて参りますゆえ」
「いえ、それには及びません。お嬢さまはすでに私と一緒にいます」
「は?」

何を言っているのか、という顔をしている女主人を尻目に、正示は「こっちに来なさい」と声を掛けた。
すると、若い女がおずおずと応接間に入ってきた。
華奢な身体に淡い桃色のワンピースが雪のように白い肌に映えている。ハーフアップにした艶やかな黒髪にワンピースと同じ色のリボンが可憐だった。
目鼻立ちが整った小さな顔は恥ずかし気に俯き気味で、楚々とした美しさが滲み出ていた――どう見てもうちの娘ではない、と女主人は当惑した。

「あの、このお嬢さまはどなたで……?」
「ご冗談を。あなたのご息女さまではないですか」
「……は?」
「私は昨日この屋敷でこちらのお嬢さんにお会いしたのですよ?」
「冗談とはこっちの台詞です……!」

いい加減、からかわれている気がして女主人は声を荒げた。

「このような娘、私は知りません。私の娘は一人だけです!」
「本当に、一人だけなんですか?」

突如正示は口調を鋭くし、冷ややかな視線を向けた。
その瞬間、女主人ははっとして言葉を失い、顔を青ざめさせた。
そして、正示の隣で小さくなるように俯いている娘を凝視した。

「まさか、おまえは……」

カタカタと少女は震え始めた。
その背中を正示が優しく撫でると、娘は恐る恐る顔を上げた。

女主人は目を見開いた。
娘はあの美世だったのである。

「今は実業家としてやっておりますが、私は元はとある屋敷の使用人をしておりました」

正示が静かに話を始めた。

「その屋敷にはとても優しい両親とそして花のように美しいお嬢さまがいました。私はその屋敷のご主人に目を懸けていただき、裕福で人柄の良いご家庭に養子に出していただきました。いつかご主人に恩返しをと思っていたある日、ご主人の奥方が亡くなり後妻を迎えたこと、そしてそのほどなくしてご主人自身も亡くなられたことを知りました。私はずっと気掛かりでした。あの美しいお嬢さまは、どうされているだろうと」

それは美世も初めて聞かされる話だった。
正示は驚きの表情を浮かべている美世に微笑み、彼女にのみ語るかのように穏やかな口調で続けた。

「事業も軌道に乗り始め、私はいつしかお嬢さまを今度は自分が援助したいと思うようになりました。ところが、もうあの屋敷には後妻と亡きご主人との間にできた娘しかいないとのこと。私は驚いて調べましたが、あのお嬢さまの足取りは一向に掴めませんでした。ならば当時の使用人に訊こうと思っても、ご主人が亡くなってすぐに古い使用人は全員解雇され、今は新しい使用人しかいないという……。何かおかしい、と私は思いました」

正示は鋭い眼差しを女主人に向けた。

「単独調査をしていた私が昨日こちらへお邪魔したのはそのためでした。ついに私はお嬢さまを見つけることに成功しました。哀れに虐げられ続け、変わり果てたお嬢さまを」
「……」
「よくも、これほど酷なことができたものだ。恐ろしい継母だ」
「私は夫を愛していました!」

突如女主人は叫んだ。

「私と娘は愛されるべきだった。なのにあの男は、いつまでも死んだ妻を想い、その妻に瓜二つの娘を溺愛した。私と私との間に生まれた娘を蔑ろにして……!」

女主人は蒼白となっている美世を指さした。

「忌まわしい娘! こんな一滴も血が繋がっていない娘など私の娘じゃないわ。おまえなど幸せになる資格などない。使用人で十分なのよ。奴隷のようにこき使われて生き地獄を味わえばいいんだわ!」
「そうですか」

冷淡に正示は返した。

「使用人という扱いを変える気がないのならいいでしょう。ここよりもいい条件を提示して、私がこのお嬢さまを使用人として引き抜くことにします。その場合、彼女はこの家とは無関係ということになる。だから親族が受けられる援助も当然無しということでいいですね?」
「……!」
「聞けば、亡くなったご主人が始めた会社はだいぶ傾いているとか。「娘さん」が私の援助を受ければ、ついでに会社経営も面倒見たというのに、残念ですね」

唇を噛んだ女夫人に冷笑を向けて、正示は決断を迫った。

「お嬢さまに今までのことを詫び、娘として認めるのなら考え直しましょう。さぁ、いかがなさいますか?」



冬も終わりに近付くある日の午後、正示と美世は居間から臨む庭を愛でながら、英国直輸入の紅茶を楽しんでいた。

「今日の紅茶は美味しく淹れられましたでしょうか」
「ああ、とても美味しいよ」
「よかった。今度はお茶菓子も準備しますね。美味しいビスケットの焼き方を習ったのですよ」

正示は苦笑いを浮かべた。

「気持ちは嬉しいが、君にそんなことはさせられないよ」
「そんな。感謝しているのです。私を救ってくださっただけでなく、父が残した会社まで救ってくださったのですから」

経営が傾いていた美世の父親の会社は、正示が株を買い占めたことで救済した。
紙切れに等しくなりつつあった株を買う代わりに経営に口を出し、人事は一新した。
追い出した無能な役人の中に美世の継母が入っていたが、約束したのはあくまで「会社経営の援助」だったので、使用人と屋敷を手放し路頭に迷ってしまった継母親子の面倒までみるつもりはなかった。
ちなみに、売られた屋敷は正示が買い上げ住まいとした。
美世を新たな女主人とするためである。

居間から見る庭は陽に照らされていた。春を感じさせるような温かな日差しだ。
少し庭に出てみないかと誘われ、美世は正示に手を引かれ庭に出た。

「寒椿が綺麗に咲いているね。たしか君が好きな花だったね」

(覚えていてくださったのね……)

微笑んで頷く美世の脳裏に、懐かしくて温かい幼い頃の思い出がよみがえる。

ひときわ美しく咲く寒椿を摘もうとしたら、

『お手が汚れてしまいます』

と、背の高い少年が代わりに身を乗り出した。

『お嬢様にお似合いの綺麗な花ですね』

そう言って差し出し、少年は聡明そうな奇麗な顔を優しく綻ばせた。

(この方が、あの少年だったのね)

優しい少年だった。
美世が泣いた時はすぐに駆けつけ、楽しい時は一緒に笑ってくれた。
いつも、どこにいても、守ってくれていた。
だから、今もこうして救ってくれたのだ。

「お願いがあるのですが」
「ん? なんだい?」

未だ使用人感覚が抜けず自己主張が乏しい美世だった。その彼女から「お願い」とは嬉しい、と正示が笑みをこぼして促すと、美世は真剣な顔をして切り出した。

「あなたさまおかげでもうすっかり体力がついて元気になりました。いつでも働けますので、なんなりと仕事をお命じください」

呆気にとられ、そして正示は吹き出した。
美世はおろおろする。

「私、何か変なことを申し上げましたか?」
「いやいや。『使用人として引き抜く』と言ったのは、あの場の方便だよ。君に下働きなんて一生涯させないよ」
「……では、私はどうやって生活していけば……」
「私と一緒に生きていけばいい」

正示は寒椿を摘むと美世の髪に添えた。

「ああやはりよく似合う。気高くて、そしてどこまでも可憐だ。君はやっと本来の姿に戻ったんだよ。再びこの手が傷付くような苦役にさらしては、今度は私が天罰を受ける」

そう言って、まだあかぎれが残る手に唇を寄せると、正示は跪いて美世を見つめた。

「どうか、私と結婚してくださいませんか」

美世はきょとんとし、そして次の瞬間、真っ赤になった。

「そ、そんな、そんなこと……!」
「できない? 私のような使用人上りは、貴女に相応しくない?」

熱を帯びた真剣な眼差しに貫かれ、美世の胸は痛いくらいに高鳴った。

「幼い頃からずっと、貴女を想い慕っていた。どうか、私の妻となってください」

いつもいつも、そばにいてくれた少年。
今は見る影もない。男らしく凛々しい顔立ちに、身体の芯に響くような低い声。
けれども美世を見つめるこの目だけは、あの時のまま、温かく優しい。

美世は手を握ってくれる正示の手に、そっと自らの手を重ねた。

「この上なく光栄なことです。謹んで、お受けいたします」

抱き寄せられ、口付けされた。
初めて触れた唇もまた、温かく優しかった。

再会を果たした二人に、祝福するように春陽が降り注いでいた。