「そうか」と、父はやや上体を崩しながらうなずいた。「おまえの気持ちは分かった」
「では……」
「焦るでない。相手のあることゆえ、先走ってはいかん」
「はい、心得ております」と、新久郎はうつむいた。
 二人の気持ちだけではどうにも乗り越えられない壁がある。
 それを何より分かっているのは新久郎自身であった。
 父はそんな息子に厳しい言葉を投げかけた。
「今はお役目が大事である。算術講義をしくじることは許されん。良いな」
「はい、精進いたします」
「うむ。下がって良いぞ」
 新久郎と入れ替わりに妻が茶を持ってやってきた。
「いよいよでございますか」と、妻がため息をつきながら茶碗を差し出す。
「小田崎の宿命だ。仕方あるまい。うまくやってくれるだろう」と、茶を一口すすった規武がむせる。「うほっ」
「まあ、あなた、大丈夫ですか」
「ああ、いや、すまぬ。わしの方が緊張しておるようだ」
「まあ」と、妻が口元に手をやって笑う。「あなたが?」
 息を整えてもう一口茶をすすった規武は正面に見える坪庭を見つめながらため息をついた。
「なにしろ、わしは経験したことがないからのう」
 父規武は小田崎家に生まれた嫡男ではなく、同じ家老格の遠縁から迎えられた婿養子なのだ。
「嫡男ではないから御前講義のお役目は免除されたとはいえ、わしも算術では悩まされたからな。さすがに小田崎の家に来て何も知らぬでは済まぬから、それなりに教えを請い、書物を読んだが、なにしろ幼き頃からの修養は足りず、苦労ばかりであった。新久郎にはそのような苦労をさせたくないとの思いから厳しく当たってきたのだが、あいつにとってはうるさい父であったことだろうな」
「そうですわね」と、妻も相槌を打つ。「でも、新久郎はああ見えて大器晩成なのかもしれませんよ。近頃はむしろ算術ばかりで剣術がおろそかになっております」
「うむ、まあ、二兎を追う者は一兎をも得ずかもしれん。それはそれで良かろう。わしもそなたとの縁談が持ち上がった時は、とんだところに婿に来たと嘆いたものよ。算術はからっきしだったからのう」
「それはご迷惑をおかけいたしました」と、妻がわざと拗ねてみせる。
「そのような顔をするな。嘆きはしたが、それも一時のこと。なにしろわしはそなたに一目惚れであったからな。この世には天女がおるかと思ったものじゃ」
「まあ、本当かしら」
「わしはそなた一筋じゃ。だから城内では『さすが算術の小田崎、定規のような堅物』と笑われておる」
「調子の良いことを」と、妻が母の顔になる。「千紗さんとの縁談、なんとかならないものかしら。あの子があれほど夢中になるのですから」
「わしに任せておけ」と、父がしっかりとした口調で妻を見つめた。「わしとて息子を思う気持ちは巌のごとく固く重いのだ」
「まあ」と、朗らかに妻が笑う。「いつからそんな親馬鹿に」
「隠しておっただけじゃ」と、規武は茶碗で顔を隠しながら茶を飲み干した。