桃燕との一件から数日が経った。青藍の注意が効いたのか、相変わらず殿舎の入り口に百足などの毒虫が置かれるなどの小さな嫌がらせは続いていたけれど、表立って桃燕が何かしてくることはなくなった。水月への嫌がらせも落ち着いたようで、仕事の合間にまた春麗と茶をする時間も取れるようになった。

「今日はお招き頂き、ありがとうございました」

 その日も春麗が青藍から貰った茶を飲むために水月は槐殿を訪れていた。他国からの贈り物だというそれは普段飲んでいるものよりも香りが強く、ほのかに甘い味がした。

 飲み慣れない味に少し戸惑いはしたけれど、甘い焼き菓子と一緒に食べるととても美味しく、気付けば三杯も飲んでしまった。水月も気に入ってくれたようで嬉しそうに飲んでいた。その姿に春麗は安心した。

 そろそろ仕事に戻らなければ、という水月と共に春麗は槐殿を出た。せっかくなので少し散歩でもしようかと思った。

 久しぶりに足を踏み入れた庭園は、少し来ない間に(つぼみ)だった(りょう)(しょう)()や槐が見頃を迎えていた。

「あ、蓮の花はもう閉じてしまっている」

 庭園の中にある池には蓮が植えられていた。水月に最近蓮も開花したという話を聞き楽しみにしていたのだが、蓮は朝の早い時間に花が咲き、数刻で閉じてしまうらしい。

 すでに午の刻ということもあり、残念ながら今はもう蓮は蕾の姿へと戻ってしまった。

 まだ一日二日は咲くでしょうと言っていたので、明日もう一度来ることにしよう。できれば朝餉を食べ終えてすぐに。そう決めた春麗は槐殿に戻ろうと庭園を出ようとした。そのときだった。

「あ……」

 視界の先にいたのは、桃燕だった。侍女と共に庭園へと入ってきた桃燕は、奥にいる春麗に気付くことなく入り口近くの亭へ向かうと、花には目もくれず長椅子に腰掛けた。

 あの場所にいられると春麗が出て行く際に気付かれてしまう。
青藍は注意したと言っていたけれど、もしかしたらまた何か言われるかもしれない。何より水月にあんなことをした相手と顔を合わせる気にはどうしてもなれなかった。

 佳蓉も桃燕に気付いたようで困った表情を浮かべている。春麗は桃燕に気付かれないよう、小声で佳蓉に声を掛けた。

「あのね、しばらくここでやり過ごして黄昭儀様が戻られてから帰ろうと思うのだけれどいいかな?」
「ええ、その方がいいかと思います」

 佳蓉も桃燕が何かしてこないとは限らないと思っているのか、春麗の提案をすんなりと受け入れた。

 どれくらいこうしていればいいだろう、そう思ったけれど桃燕は意外と早く亭を出た。花を見ることもなく帰って行く桃燕に一体何をしに来たのかと疑問に思ったが、庭園をあとにしてくれるのであれば何でもよかった。

 桃燕とその侍女が庭園を出ようと歩き出し――ふいに振り返った。その瞬間、春麗の心臓は大きく音を立てた。息が止まるかと思った。そんなわけない、と自分が今見ているものが信じられず、何度も目を擦る。
それでも、それは確かにそこにあった。

「なん、で」
「春麗様?」

 振り返った桃燕の額に、黒々とした文字で『撲殺』と書かれているのを春麗の金色の目ははっきりと映していた。

 先日の水月に続いて今度は桃燕まで。

 春麗は深呼吸をすると、もう一度桃燕の顔を見た。文字の濃さからいっておそらく、殺害されるのは数日以内。後宮から出られない桃燕を殺すことができるのは、皇帝である青藍、それから他の妃嬪もしくは宦官たちだけだ。青藍が桃燕を殺すことは有り得ない。
誰が桃燕を? 考えても考えても、答えが出ることはなかった。

「春麗様!」
「あ、佳蓉。えっと、どうしたの?」
「どうしたの? では、ありません。黄昭儀様はもう戻られました。春麗様も早めに宮へと戻りましょう。このように暑くてはお身体に(さわ)ります」
「あ……うん。そうだね」

 春麗が考え込んでいる間に、桃燕たちは庭園を出て行っていたようだった。薄らとかいた汗が頬を伝い落ちた。

 桃燕が、死ぬ。このまま春麗が何もしなければ、数日以内に確実に死んでしまう。

 水月にしたことは決して許すことはできない。それなのに、死なせたくないとそう思ってしまうのはどうしてなのだろう。自分の感情が理解できなかった。

 助けたいわけではない。しかし、見殺しにもしたくない。許せなくても死んで欲しくないと思うことは、矛盾しているのだろうか。

「……ねえ、佳蓉」

 槐殿に戻った春麗は、佳蓉の入れてくれた茶を前に、ポツリと呟いた。

「どうしても許すことのできない相手を助けたいと思うのは、偽善、かな」

 ()(さい)を話すこともできず、ぼんやりとした言葉を投げかけてしまう。こんなこと言われても佳蓉だって困ることはわかっていた。それでも言わずにはいられない。自分の選択にどうしても自信が持てないから。

 佳蓉は暫く考えたあと、口を開いた。

「人によるのではないでしょうか」
「人に? どういうこと?」
「例えば私は春麗様に危害を加えたような人間を許すことなどできません。冷たいと言われようと人でなしだと言われようと、です。……でも、春麗様はきっとそうではないと思います。誰かが苦しんでいれば、手を差し伸べられる。たとえその人間がどれほど春麗様にとって憎い相手だったとしても、です」

 そうなのだろうか。佳蓉の言う春麗はまるで仏のようで、実際の春麗とはどうにも結びつかない。春麗だって誰かを恨むこともあれば憎むこともある。そう言うと、佳蓉は優しく微笑んだ。

「それでも春麗様はそんな思いを、口になさらないではありませんか」
「え?」
「私が春麗様のお世話をさせて頂くようになってから今まで、春麗様の口から誰かを(ののし)るような言葉を聞いたことなど一度もございません。口に出していない思いなどないも同然です。だいたい思うだけで駄目なら私など何度――」
「か、佳蓉?」
「失礼しました」

 何か(ぶっ)(そう)なことを言い出しそうな佳蓉を慌てて諫めると、ふふっと笑って誤魔化されてしまった。

「もう……。ふふ……」

 つられるように笑った春麗を、佳蓉は優しく見つめている。笑ったことで少しだけ気が楽になるのを感じたが、不安は残ったままだった。

「……ねえ、佳蓉。許せなくても、心配していいんだと思う?」
「それが春麗様のいいところだとそう思いますよ」

 そうなの、だろうか。けれど……。

「例えば、例えばだよ? もしも佳蓉に危害を加えた相手がいて、その相手が何かで苦しんで死にそうになっていたとして、その人を私が助けたら……佳蓉は私に、幻滅、しない?」

 春麗は掌をぎゅっと握りしめながら、水月に嫌われるのではないかという不安な気持ちを()()した。
そうだ。結局、春麗は不安なのだ。桃燕を助けたとして水月がそれを知った時、春麗のことをどう思うのか不安で仕方がない。

 そんな春麗の不安な気持ちを、佳蓉は優しい笑みで包み込んだ。

「それくらいのことで幻滅などしません。私も、それから姜宝林様も」
「どう、して」
「え?」
「どうして幻滅しないの? だって、佳蓉に嫌がらせや危害を加えようとした人間のことを私は心配しているんだよ? 有り得ないって幻滅したり、嫌いになったりしたっておかしくないのに、どうして……」

 普通に話しているつもりだったが、気付けば涙混じりの声になっている。鼻の奥がツンとして、目尻が熱くなるのを感じた。感情が次々と洪水のように押し寄せてきて、上手く制御することができなかった。

「どうして……」

 誰に問い掛けるでもなく、もう一度呟いた言葉に佳蓉は答えた。

「それは私たちが春麗様のことが大好きだからです」
「大、好き?」
「はい。私のような者がそのようなことを言うのも姜宝林様のお考えを推察するのも烏滸がましいかもしれませんが、私たちは春麗様のことが大好きなのです。いつだって他人のために一生懸命で、辛いことがあっても笑っている、それなのに人のためには涙を流してしまう。そんな春麗様のことが大好きで仕方がないのです」

 佳蓉の言葉は、今まで言われたどの言葉よりも温かくて、嬉しくて。

「春麗様……」
「あ……」

 気付けば春麗の頬を涙が伝っていた。

 そういえば、思い出した。後宮に上がって間もない頃、佳蓉が言った『綺麗な、金色の目ですね」という言葉に涙を流したことを。

 それまで涙と言えば、苦しい時や悲しい時にしか流したことはなかった。あの時初めて、春麗は嬉しくても人間は泣けるのだと知った。

「申し訳ございません。私としたことが、差し出がましいことを……」
「ううん、違うの。大丈夫、これは嬉し涙だから」

 袖で涙を拭おうとする春麗に、佳蓉が慌てて差し出した手巾で、涙を拭うと笑顔を浮かべた。

「佳蓉、ありがとう。佳蓉のおかげで、心が決まったよ」
「私で何かお力になれたのでしたらこんなに嬉しいことはございません」

 桃燕のことをきっとこれからも許すことはできないだろう。それでも、春麗は桃燕に死んで欲しくないと思ったこの気持ちを貫こうと思う。

 たとえ感謝されることはなくても、自分のために桃燕を死から守りたい。ただそれだけだ。

 小卓の上に置かれた茶に口を付けると、せっかくの茶がすっかり冷めてしまっていた。

 佳蓉が「淹れ直して参ります」と茶碗を持って下がった。一人になった春麗は考える。どうすれば桃燕を助けることができるのだろう、と。

 気をつけろと言ったところで春麗の言うことを素直に聞くような桃燕ではない。それどころか、死を宣告された、などと騒ぎ出しそうですらある。ならばどうすればいいのだろう。

 後宮のことであれば本来、内侍の者に相談するべきなのだろうが、誰が犯人かわからない状態ではできない。

 それに相談したとしても、信じてはもらえないだろう。それどころか、春麗が何かを企てようとしていると思われかねない。

「やっぱり、主上しかいない、よね」

 春麗の目のことを知っている青藍なら、春麗の言うことを信じてくれるだろうし、桃燕も青藍の言うことであれば聞くだろう。

 春麗は胸の奥に走った小さな痛みに気付かないふりをした。
桃燕を青藍に会わせたくないなんて、なんと子供染みた嫉妬だ。今はそれどころではないのをわかっているのだろう。

 自分自身に言い聞かせると、春麗は小さく頷いた。



 その日、夕餉が済んだ頃、槐殿を青藍が訪れた。珍しく黄袍に(ぼく)(とう)という正装だった。どうやら仕事を抜け出して来たらしく、後ろに控えている浩然が「あまりお時間がございませんので」と茶を出そうとした佳蓉に言っていた。

「それでどうした? お前が会いたいという文を送ってくるなど、初めてではないか?」
「も、申し訳ございません」
「謝る必要などない。お前が俺を求めたのが嬉しかったのだ。それで、どうした? ……ただ会いたかった、というわけではないのだろう」

 春麗の表情を見た青藍は真顔でそう尋ねてきた。いつの間にか佳蓉と浩然は部屋を出て、室内には長椅子に隣り合って座る春麗と青藍、二人だけになっていた。

「また何かあったのか?」
「い、いえ。おかげでその後はたいした嫌がらせもなく。相変わらず殿舎の前に虫が置かれたりすることはございますが、それくらいで……」
「虫? 何のことだ」
「え?」
「そのような報告、俺は聞いてないぞ」

 怪訝そうに目を細める青藍に、春麗は暫く前から殿舎の前に虫が置かれていたこと、おそらく桃燕の仕業だと思うが、この間の一件以降も続いていることを話した。

「どういうことだ。そんな話、一言も」
「申し訳ございません。些細なことでしたのでお伝えするほどのことでもないと勝手に判断していまして……」
「いや、お前に言ったのではない。……まあいい。その件はこちらで調べる。それで?」
「はい。……死の文字が、見えました」

 春麗の言葉に、青藍は眉をひそめた。

「誰に、だ」
「……黄昭儀様です」

 しかし青藍はその名前を聞いて「なんだ」と息を吐いた。

「お前ではないのだな。ならいい」
「よくないです。このままでは黄昭儀様はお亡くなりになります」
「お前に嫌がらせをするような女だ。(ろく)な死に方はせんだろうな」
「主上!」
「……冗談だ」

 春麗の口調があまりに真剣だったからだろう。青藍は困ったようにそう言うと、組んだ足の上に肘をつき、掌に顎を乗せると春麗を見た。

「何故あの者の心配をする。お前はあいつが憎くはないのか」
「……憎くないと言えば嘘になります。今も水月様にしたことは許せません」
「ならば何故だ」
「黄昭儀様の気持ちが、ほんの少しだけ、わかってしまったから、です」
「どういうことだ?」

 桃燕が春麗に向けた感情は嫉妬だ。

 青藍のことを独り占めし、寵愛を手に入れた春麗がきっと桃燕は憎かった。青藍のことが、好きだから。

 ずっと想い続けてきた青藍が、自分のいない間に他の女に入れ込んでいる、と聞けば心が穏やかではいられなかっただろう。

 だからといってその感情の矛先を水月に向けるのは間違っていた。だが、それほど青藍のことを好きなのだと思うと、春麗は酷く胸が痛んだ。

 もしも自分だったら、と考えてしまう。青藍が違う女性を想い、その人しか瞳に映さず、春麗に見向きもしなくなったとしたら。その時春麗は、その人のことを恨まずにいられる自信が、ない。

「春麗?」
「……私も、黄昭儀様も、主上のことをお慕いしている、ということです」

 春麗の言葉に、青藍は納得したような、していないような表情を浮かべていた。それでもそれ以上何も聞かなかったのは、きっと春麗の言いたいことがわかったからだろう。

「それで? 俺に、何をさせようって言うのだ?」
「……黄昭儀様をお守りください」
「それを俺に頼むのか? 俺を好きだという黄桃燕のことを守れと、お前が言うのか? それがどんなに酷なことかわかっているのか?」
「わかって、おります」

 きっとこのことを知れば桃燕は怒るだろう。だが、これ以外に方法がないのだ。相手が宦官であろうと女官であろうと、青藍であれば諫めることができる。桃燕だって青藍の言うことなら聞くだろう。

「ですが、私では、無理なのです」

 春麗は無力だった。実家の後ろ盾も何もない春麗には、縋れるのはもう青藍しかいなかった。

「……惚れた弱みだな」
「え?」
「何でもない。仕方がないからその頼み、聞いてやる」
「主上!」
「だが、条件がある」

「条件?」と首を傾げる春麗に、青藍は唇の端を上げ笑みを浮かべた。そして手を春麗の顔へと伸ばすと、その手で頬に触れた。

「ああ。助ける対価として礼を貰おうと思ってな。頼みを聞いてやるんだ。俺にも何か利点がないとな」
「私に、払えるものでしたら……」

 とは言うものの春麗の手元にあるのは僅かな給金のみだ。上級妃であればもっとたくさんの給金が貰えるらしいが、無位である春麗には皇帝である青藍に対価として支払えるほどの給金は貰えていなかった。

 春麗の不安を感じ取ったのか、青藍はおかしそうに笑った。

「金などいらん。そんなものより俺はお前が欲しい」
「なっ」
「冗談だ。そうだな、ならこういうのはどうだ? お前からの口づけだ」

 頬に当てた手を離すことなく、青藍は親指で春麗の唇をなぞった。その手つきが妙に色っぽくて、竦んでしまう。春麗の反応に含み笑いを漏らす青藍に、戸惑い声を上げた。

「えっ……え、あ、あの、そ、それは」
「ああ、もちろん前払いだ」

 青藍の視線は春麗を射止めたまま離さない。

「ほら、どうした。黄桃燕を助けたいのだろう」

 その言葉に、春麗はぎゅっと掌を握りしめた。そして。

「っ……」

 春麗は意を決すると、青藍の――頬に口づけた。

 慌てて身体を離す春麗に、青藍は自分の頬に手を当て、それから喉を鳴らして笑った。

「頬か」
「だ、駄目で、しょうか」
「仕方がないな」

 青藍は立ち上がると、浩然を呼ぶ。どうやら政務に戻るようだ。戸惑う春麗を振り返ると、青藍は楽しげに笑った。

「助けた(あかつき)には、唇にしてもらうからな。覚えておけ」
「なっ」

 駆けつけた浩然と共に、青藍は槐殿をあとにした。残された春麗は熱を持ちきっと赤く染まっているであろう頬を両手で押さえながら、青藍の言葉を反芻し続けた。



 青藍が「片付いたぞ」とやって来たのはそれから五日後のことだった。犯人は誰かに雇われた宦官だったようだ。

「後ろにいるやつを突き止めようと思ってたのだが」
「何かあったのですか?」

 いつものように長椅子に座り、眉をひそめ苛立った様子で言った。

「牢に入れておいた犯人がいつの間にか殺された」
「そんな……」

 見張りがいるはずの牢でそのようなことが起きるなんて。青藍は考え込むような表情を浮かべていた。

 そして思い出したように、口を開く。

「黄桃燕だがな、後宮を出ることになった」
「え……?」
「表向きは静養のためということになっている。実際のところは、本人しかわからないが、後宮にいる意味を失ったと言っていたらしい」
「そう、ですか」

 桃燕にとっての後宮にいる意味とはきっと青藍の寵愛を受けること、だったのだろう。好きな人に愛されて幸せになりたい。ただその一心だったはずだ。それなのに。

「あいつに申し訳ないと思っているのか」
「……いえ。そう思うこと自体、黄昭儀様に対して失礼なことなのだと、学びました」
「そうか」

 春麗の言葉に青藍は、言葉少なに、だが満足そうに頷いた。
まだ政務が残っているからと青藍が槐殿をあとにすると春麗は桃燕のことを考えた。

 もう二度と会うことはないかもしれない。きっとお互いにその方がいい。そう思っていた。



 だが翌日、そんな春麗の思いに反して、桃燕は春麗の前に現れた。それも、槐殿に、だ。

「あ、あの」

 入り口から一歩も動くことのない桃燕にどうすればいいのか春麗は戸惑った。

「中に、入られますか?」
「結構よ」

 恐る恐る尋ねた春麗の言葉も桃燕は()ねのけてしまった。一体何のためにここに来たのだろう。春麗が困り果てていると、ようやく桃燕が口を開いた。

「……あなたが私を助けるように主上に言ったと聞いたわ」
「えっと、その」

 何というのが正解なのだろう。一瞬躊躇ったのち、春麗は頷いた。

 そんな春麗に、桃燕は――。

「あなた、馬鹿なのかしら」

 怒ったように言う桃燕に春麗は戸惑う。自分でも馬鹿ではないかと思うことはあるが、それを何故桃燕からまで言われなければならないのか。

 そのようなことを言うためにきたのか、そう言い返そうとした時、桃燕がポツリと呟いた。

「本当に、馬鹿よ」
「黄昭儀様……」
「なんで私を助けたの。私はあなたにたくさんの嫌がらせをしてきたっていうのに。姜水月を虐めたのも、あなたの殿舎に虫を置いたり、他にも嫌がらせをしたりしたのも全部私だっていうのに、どうして」
「人を助けるのに、理由などいらないです。ただ私が見過ごしたくなかった。それだけです」

 春麗の言葉に、桃燕は俯いてしまった。

「あなた……やっぱり、馬鹿よ」

 そう呟いた桃燕の足下に、小さな水滴が一つ、また一つと落ちていった。

「……子供の頃から、ずっと主上……青藍様をお慕いしてきたわ」

 頑なに宮の中に入ろうとしない桃燕のために、佳蓉はどこからか小さな長椅子を一つ持ってきて槐殿の入り口近くに置いた。それに二人並んで座ると、ぽつりぽつりと桃燕が話し始めた。

「六つ年上の青藍様を初めて拝見したのは私がまだ五つの時。翡翠色の目をしたあの方の妃にいつかなるのだとずっと努力してきたわ。できることは全てした。少しでも青藍様に近づきたかった。あの人にふさわしくなりたかった。なのに、なのにどうしてあなたなの!? あなたなんて……あなたなんて……!」
「……では、私が後宮に上がる前、どうして後宮から出て行ったのですか。どうして、ずっと主上のそばにいて差し上げなかったのですか」

 酷な問い掛けをしているのはわかっていたが、そんなに想っているのなら何故青藍の元から去ったのか、それが春麗にはわからなかった。

「……怖かった」
「…………」
「呪いが、怖かったのよ。たくさんの人が死んだわ。私が(した)っていた方もよくしてくれた女官も、何人もよ。怖くて、怖くて、そんな時に実家から帰ってこいと言われて……私は逃げ出したのよ、後宮から! そして、青藍様から!」

 襦裙を握りしめながら泣き叫ぶように言う桃燕に対して、春麗は何も言えなかった。「私なら逃げ出さなかった」そう言うことは簡単だったが、それは春麗が死を映す目を持っていて、青藍のせいで人が死んでいるのではないとわかっているから言えることで。

 ――本当に、そうだろうか。この目がなかったとして、青藍のせいで人が死んでいるかもしれないと不安に思ったとして、それで逃げ出していただろうか。

 不安だと思う気持ちよりも、きっと……。

「本当に怖かったのは、きっと主上だと思います」
「どういう……」
「周りの人が自分のせいで死んでしまう。それがどれほど怖くて苦しいことか、少し考えれば桃燕様にもおわかりになるのではないでしょうか」
「それ、は」

 そんな思いを抱えている青藍を、一人になどできない。したくない。春麗にできることなど何もないかもしれない。それでもそばにいることはできる。寄り添うことはできる。

「主上を本当に想ってらっしゃるなら、あなたはここを出るべきではなかったのです」
「そん、なの、あなたに言われなくてもわかっているわ。後悔したわよ、後宮を出たこと。明日戻ろう、明後日戻ろう。そう思ううちにどんどん月日だけが過ぎて……。そんな時、後宮に皇后となる女が入ったと聞いたわ。どうせそのうち逃げ出すって思っていたのに、いつの間にか主上に気に入られたって聞いて悔しかった。本当ならその場所は、私のものだったはずなのに!」

 だから戻ってきたのか。春麗の心を読んだかのように桃燕は「そうよ!」と声を張り上げた。

「あなたなんかに取られたくなかった。取られるぐらいなら呪いで死んだ方がマシだってそう思ったのよ! なのに……! なのに……っ!」

 感情のままに泣き続ける桃燕に侍女が「戻りましょう」と声を掛けた。桃燕は素直に頷くと長椅子から立ち上がった。

 見送ろうと思い春麗も立ち上がり、そっと桃燕の後ろを歩いた。
槐殿を出るため扉を開けたその時、桃燕は振り返り春麗にそっと耳打ちをした。

「皇太后様には気をつけて」
「え?」

 聞き返した春麗に、それ以上何か言うこともなく桃燕は去って行く。

「皇太后、様?」

 貰ったまま使っていない金色の茶器を思い出した。後宮に上がったばかりの頃、不安で仕方なかった春麗に優しく微笑みかけてくれた珠蘭。その珠蘭の何に気をつけろと言うのか。

 桃燕の言葉に、胸のざわめきを感じた。



 数日後、桃燕は後宮を出た。見送りはいらないと言われていたので、結局春麗が桃燕の姿を見たのは、あの日が最後となった。
たった一人いなくなっただけだ。なのに何故だろう。後宮の中が随分と静かになったように感じるのは。

 桃燕が後宮を去った日の夜、槐殿を青藍が訪れた。いつものように珍しい果物や焼き菓子を春麗に与える青藍だったが、気付くと心配そうに春麗を見つめていた。

「あ、あの」
「何故そんな顔をしている」
「そんな、とは」
「……寂しくて仕方がない、といった顔をしているように見える」

 春麗は曖昧に微笑んだが、そんな態度を青藍が許すはずもなかった。言えとばかりに促され、春麗はおずおずと口を開いた。

「私にも、わからないのです」
「わからない?」
「はい。……黄昭儀様――桃燕様のしたことは許せません。水月様にしたことについては今も腹立たしく思っております。けれど、……何故か私は、あの方のことが嫌いにはなれないのです」

 十四歳の桃燕は、春麗にとってもしかすると手のかかる我が儘な妹のように映っていたのかもしれない。自分の感情に素直で、思うままに生きる彼女のことを、羨ましかったのかもしれない。

 生きる時代が、生まれる場所が異なれば、もしかしたら今とは違った関係になれたのではないか。そんなことを考えてしまう。

 春麗の言葉を青藍は肯定も否定もしない。ただ「そうか」とだけ呟くと春麗の肩をそっと抱いた。

 隣に寄り添う青藍の顔を春麗はそっと見上げる。切れ長の瞳、長いまつげ、形のいい眉、通った鼻筋、薄い唇。綺麗な顔をしている。青藍は父親似なのだろうか、それとも母親似なのだろうか。
情けないことに何も学ばずに育ってきてしまった春麗は先帝の顔も知らない。こういう時に自分の育ちを思い出して嫌になる。同じ家に生まれていても花琳なら、きっと春麗の知らないことも知っているだろうに。

 そこまで考えて、春麗はふと思い出す。青藍は以前、自分の母親は死んだと言っていたが、皇太后である珠蘭は健在だ。

「主上、聞いてもよろしいですか?」
「どうした?」

 春麗の言葉に、青藍は優しい瞳をこちらに向けた。

「あの、皇太后様とはどういう方なのでしょうか」
「何故そのようなことを聞く」

 先程までの優しい視線が嘘のように、青藍の瞳は冷たく、声は固かった。春麗は慌てて口を開く。

「あ、あの。以前主上が母后はお亡くなりになられたとおっしゃっていたので。で、あれば皇太后様というのはどなたなのかと思いまして」

 必死に言葉を紡ぐ春麗に「そういうことか」と呟くと、青藍は口を開いた。

「……皇太后陛下は、先帝の正妻だ。俺の母上は五年前、(りっ)(こう)を目前にして、殺された」
「え……」

 それはあまりにも衝撃的な話だった。

 青藍曰く、実家の身分が低かった青藍の母が皇后になることを反対されていたそうだ。そのため、青藍の(りっ)(たい)()を機に立后する手はずとなっていた。皇太子の母であれば皇后の地位についたとしても反対できる者はいなくなるからだ。

 しかし、その日を目前に控えたある日、何者かによって毒を盛られて亡くなったそうだ。

「……今の皇太后には息子が一人いることを知っているか」
「いえ……」
「俺に子がいない今、もし俺の身に何かが起これば、もしくは俺が廃されるようなことがあれば、帝位を継ぐのはその息子だ」
「まさか、そんな」

 青藍が言いたいことがわかってしまったが、そんな恐ろしいことがあってもいいのだろうか。

 春麗の知っている珠蘭は、優しくまるで母のような眼差しで春麗を見つめてくれた。そんな珠蘭と青藍の言う珠蘭が春麗の中では結びつかなかった。

 戸惑う春麗を知ってか知らずか、青藍は話を続ける。

「俺に死の呪いなどかけられてはいないとお前は言う。であれば、俺が死の皇帝だという噂をばら撒いた人間がいるはずだ。俺はそれが皇太后ではないかと疑っている」
「まさか、後宮で亡くなられた妃嬪たちを……?」
「…………」

 青藍は何も言わない。しかしその無言が、逆に肯定に聞こえてしまうのは何故だろう。

 黙り込んでしまった春麗に、青藍は微笑みかけた。

「そんな顔をするな。お前は俺が守ってやるから大丈夫だ」
「は、い……」

 青藍は珠蘭のことを疑っている。だが春麗は珠蘭はあの日、金色の茶器をくれた優しい笑みを浮かべる珠蘭の姿しか知らない。
春麗は思わず視線を茶器へと向けた。青藍は春麗の視線を追いかけるようにして茶器を見た。

「あれは?」
「……茶器、です」
「何? 私が用意させたものではないな」
「主上が用意してくださった……もの、ですか?」

 不思議そうに尋ねる春麗に、険しい表情を崩すことなく青藍は答える。

「ああ。銀の茶器を用意させておいただろう。万が一、毒を盛られてもわかるように、と。だがあれはなんだ? あれでは、毒が混ざっていてもわからないであろう」

 青藍の言葉に、春麗の背筋に冷たいものが走った。

 まさか、そんなことあるはずがない。

 上手くかみ合わせることができず、カチカチと上下の歯が音を立て鳴らす。春麗の態度を不審に思った青藍は眉をひそめ、そして尋ねた。

「あれはどうした」
「あれ、は」

 震える声で、春麗は言った。

「皇太后様から、頂いた、茶器です」
「くそっ。そこの侍女!」
「はっ、はい」
「水を持ってこい」
「承知致しました」

 青藍に命じられ、佳蓉は慌てて水瓶を持ち水を汲みに走る。持ってこさせた水を使って、青藍は金色の茶器で佳蓉に茶を淹れさせた。

「今までこの茶器を使ったことは?」
「あ、ありません。私には分不相応だと思いましたので、そちらに飾っておりました」
「一見、茶器には見えないそれで俺を欺いていたのか。おい、その淹れた茶をこれに」

 青藍は自身のために用意された茶を飲み干すと、金の茶器と揃いの金の茶碗、ではなく銀の茶碗に茶を淹れるよう佳蓉に命じた。震える手で銀の茶碗を受け取った佳蓉は、青藍の言う通り茶を淹れた。

――すると、銀色の茶碗の内側が一瞬で黒く染まった。

「なっ……」
「やはり、毒か」
「そんな、まさか」

 否定したい。何かの間違いだと言いたい。だが、目の前で黒く変色した茶碗がそれを許さない。

「わた、しを、殺そうと、したのでしょうか……」
「そうだろうな。あわよくばお前に全てを擦り付け俺のことも始末できればと思ったのだろう」
「そ、んな……。でも、そう、で、すか」

 悲しかった。苦しかった。辛かった。しかし、心のどこかで『ああ、やっぱり』と思っている自分がいることに春麗は気付いていた。

 呪われた目を持つ自分など、誰かから優しい笑みを向けられることなどないのだ。

 優しくして信用させて、そして殺すつもりだった。犯人に仕立て上げるつもりだった。おそらく、今までの妃嬪たちと同じように。

 結局、誰も春麗を愛したりなど――。

「そんな顔をするな」
「あ……」

 隣に座る青藍が、春麗の頭を自分の肩にそっと引き寄せた。大きな掌から、ぬくもりが、優しさが伝わってくる。

「お前が辛い顔をしているのを見るのが、俺は一番嫌だ」
「主上……」

 誰にも愛されていないわけではないのかもしれない。こんなにも愛情を注いでくれる人がすぐそばにいる。

 恐る恐る青藍の肩に頭をもたれ掛けた。こんなふうに誰かに寄りかかれるようになるとは思ってもみなかった。

 でも……。

 目を閉じて青藍のぬくもりを感じながら春麗は思う。春麗のことは青藍が守ってくれるという。では、青藍は? 青藍のことは誰が守るのだろうか。
周りにいる人間は本当に青藍の味方なのだろうか。皇太后の手が回ってはいないのだろうか。

 考えれば考えるほど不安で仕方がない。

 無言のまま俯く春麗の耳元で(ささや)くように青藍は言った。

「ところで」

 突然、耳元に息がかかり慌てて手で押さえる春麗をおかしそうに笑うと、青藍は言った。

「礼をまだ貰い終わっていないのだがな」

 一瞬、言葉の意味がわからなかったが『助けた暁には、唇にしてもらうからな。覚えておけ』そう言った青藍の言葉を思い出した。

「あ、あの」
「ああ、この前のように頬では駄目だぞ。俺は約束を守ったんだ。お前も、勿論守るだろう?」

 楽しそうに言う青藍に、春麗は覚悟を決めた。青藍は確かに約束を守り、桃燕を助けてくれた。今度は春麗が約束を守る番だ。

 春麗は青藍の頬に手を伸ばした。

「目を……」
「ん?」
「目を、閉じてください」
「……仕方ないな」
 くくっと喉を鳴らすと、青藍は目を閉じた。そっと顔を近
づける。青藍の長いまつげに今にも触れてしまいそうだ。
 ああ、心臓が壊れそうに、痛い。
「んっ……」
 ふわりと柔らかい感触がして、春麗の唇と青藍のそれが、触れた。
 ――その瞬間、春麗は意識を失った。



 目覚めると、春麗は臥牀の中にいた。どうやら緊張と恥ずかしさから気を失い、そのまま眠ってしまっていたらしい。春麗が目覚めたことに気付いた佳蓉がそう教えてくれた。

 つい先程まで青藍はいたらしいが、もう少し寝かせておくようにと佳蓉に言ったあと戻っていったとのことだった。

「臥牀で眠る春麗様のすぐそばに腰掛けて、ずっと見つめておいででしたよ」
「え……」

 春麗は自分が眠っていた場所のすぐそばの褥に触れる。ほんの少しだけ残るぬくもりが、どうしようもなく愛おしかった。