(さん)()(現在の(ろく)(じょう))ほどの狭い部屋には明かり取り用の小さな窓しかなく、ほとんど日の光の入らないこの場所は昼間でも薄暗い。室内には足の欠けた(しょう)(たく)と薄く粗末な(きん)(じょく)、まるで(ごく)のような部屋には不釣り合いな鏡が一つあるだけだった。

 鏡には十八にしては幼い顔立ちの、(すす)け頬が()けた少女が映っている。その目は(ひと)(きわ)輝きを放っていた。

「忌ま忌ましい目……。こんな鏡もなければいいのに」

 自分自身の姿に(たん)(そく)をもらす。それでも(よう)(しゅん)(れい)にとって、ここは唯一自分一人になれる空間だった。

 外が騒がしくなり、春麗は諦めたように小卓の上に置いた(あさ)(ぬの)に手を伸ばした。それで目を覆い、頭の後ろで固く結ぶ。辺りから目元が見えないことを確認して、春麗は扉を開けた。

 (くりや)へ向かい、他の使用人たちに混ざり春麗は(あさ)()()(たく)をする。誰もここに春麗がいることを不思議に思わない。それどころかここにいるのが当たり前だとさえ思っている。たとえ春麗の(しゅつ)()を知っていたとしても。

「皇帝陛下が……」
「まあ恐ろしい……」

 噂話をする()(じょ)を尻目に、春麗は用意されていた朝餉の(ぜん)を手に取った。自分が食べるためではなく、運ぶために。同じように膳を持った下女と共に厨を出て、(かい)(ろう)を進む。(おも)()へ向かうと奥にある広間の(ふすま)の前で(ひざ)をついた。

「失礼します」

 朝餉を載せた膳を持ち、頭を下げて室内に入る。そこには父と義母、そして義妹である()(りん)の姿があった。姉妹とはいえ、春麗と腹違いの妹である花琳には大きな差がある。

 ()()(まと)う春麗とは違い花琳は真っ赤な(じゅ)(くん)を身につけ、口元には(べに)を引いていた。十四歳とは思えぬ発育に、求婚の申し出が山のように届いていると嬉しそうに花琳が話していたのはつい先日のことだ。一生この屋敷で下女として働き生きていくだろう春麗とは(うん)(でい)の差だった。

 家族団らんと言わんばかりの三人から顔を背けると、春麗は用意された膳をそれぞれの前に置いていく。まるで目が見えているかのように膳を運ぶ春麗に、父である楊(しゅん)(めい)(いぶか)しげに口を開いた。

「おい、春麗」
「はい」
「本当は見えているのではないか?」

 このやりとりも何度目だろうと思ったけれど、そんなことはおくびにも出さず春麗は淡々と答える。

「いえ、私には何も見えておりません」

 そのやりとりを聞いた花琳は嬉しそうに笑った。

「ではお父様、私が確かめて差し上げますわ」

 そう言ったかと思うと、花琳は(タン)(ツァイ)(わん)を春麗へと投げつけた。

 瞬間、避けそうになるのを春麗は必死に(こら)えた。避ければやはり見えているだろうと余計疑われることを知っていたからだ。

 熱々の汁は春麗の顔にかかり、辺りにも飛び散った。空になった椀は音を立てて床を転がっていく。それを見て満足そうに頷く俊明と(あざ)(わら)う花琳の声が聞こえた。

「ああ、汚い。春麗、さっさとそれを拭きなさい」
「……はい」

 義母である白(はくろ)の言葉に、春麗は(しゅ)(きん)を取ると床を慌てて(ぬぐ)った。その間も、湯菜をかけられたところが酷く痛んだが必死に声を押し殺す。一声でも上げればさらに()(とう)されるのはわかっていた。

 やがて春麗を視界に入れるのも嫌になったのか「下がれ」と俊明は言った。その言葉に、春麗は頭を下げ広間をあとにした。

 (とが)められない程度の早さで足早に回廊を抜けていく。そのまま裏の井戸へと向かうと桶に水を汲み何度も何度も顔を洗う。ヒリヒリとしてはいるが、どうやら水ぶくれにはなっていないようだった。

「ふっ……くっ……」

 頬を流れるのは水なのか涙なのかわからない。ただこれが春麗にとっての日常で、そして終わりのない地獄だった。

 無造作に顔を洗ったせいで麻布も随分と水を含んでしまっていた。湯菜がかかった麻布をきちんと洗いたいとは思うが、ここでこれを外すことは許されない。

 春麗は急いで自室へと戻った。固く結んだそれを外すと、春麗の金色の目が開く。この目を父もそして義母も恐れているのだ。

「こんな目、なければよかったのに」

 呟く春麗の耳に、誰かの足音が聞こえた。慌てて近くにあった別の麻布で目を覆った瞬間、(よう)(しゃ)なく戸が開かれた。

「お姉様」
「花琳……」
「ようやく見つけましたわ」

 そこには春麗を見下ろすようにして立つ、花琳の姿があった。

 朝餉はもう終わったのだろうか? それに見つけたということは、春麗を探していた……? まさか湯菜をかけるだけでは足りなかったとでも言うのだろうか。

 春麗はこれから何をされるのか、恐怖に身を(ちぢ)めた。そんな春麗を見て楽しげに微笑んだあと、花琳は手に持った手巾を差し出した。何かが入っているのか手巾は膨らんで見えた。

「――差し上げますわ」
「え……?」

 どういう風の吹き回しだろう。そう思いつつも手巾を受け取ると中には蒸したてだろう、湯気が立つ(パオ)()があった。春麗は唾を飲む。今日はまだ何も食べておらず、いい匂いのする包子に腹の音が鳴るのがわかった。

「いい……の?」
「ええ。私、お姉様に今までしてきたことを悔いているのです。先程だってあのようなこと私はしたくなかったのですがお母様の手前……。お姉様、私を恨んでいらっしゃいますか?」
「そんな……ことは……」
「ああ、嬉しい。さすがお姉様ですわ。さあ、召し上がってください。冷めないうちに」
「あ……あぁ……」

 春麗は花琳の言葉に涙を流しながら頷くと、包子にかぶりついた。今の春麗を見て誰が良家の令嬢だと思うだろうか。そんなことが頭を(よぎ)ったけれど、今はどうでもよかった。口の中に広がる肉の味、熱さ、そして舌が(しび)れるような感覚――。

「ぐっ……かはっ」

 強烈な吐き気に春麗は口に含んだ包子を吐き出した。噎せ返り、嘔吐する音だけが狭い部屋に響く。胃液も同時に出たようで、部屋の中には酸っぱい臭いが漂っていた。

「あら、生きていらっしゃるのですね」

 そんな春麗にまるで汚いものでも見るかのような視線を向け、花琳は吐き捨てた。

「か……り……ゲホッ」
「ああ、汚い。致死性が高いなんて言っていたけれど嘘だったのね。包子まで用意して損したわ」

 花琳のその一言に春麗は言葉を失った。

 致死性が高い? まさか毒でも入っていたというのだろうか。

 信じられなくて、信じたくなくて春麗は必死に顔を上げる。吐いた拍子に麻布がズレたのか、薄らと光が見える。そんな春麗を見下ろすと花琳は嘲笑った。

「まさか、信じられないって顔をしているわね。馬鹿ね、これで何回目だと思っているの? 私があなたなんかに(ほどこ)すわけがないでしょ。いい加減気付きなさいよ」

 鼻で笑うと花琳は部屋を出て行った。残されたのは(うずくま)る春麗一人。汚れてしまった床を片付けなければ。そう思ったけれど、上手く身体が動かない。必死にもがくうちに麻布の結び目が解け、そのまま嘔吐物の中に沈んだ。

 前にもこういうことがあった。あの時は高熱が出て三日三晩寝込んだ春麗に「まだ死んでいなかったの」と花琳が言ったことを覚えている。

 疎まれていることは知っている。それでも、もしかしたらと期待してしまう。今度こそ思い直して自分を受け入れようとしてくれているのではないか、と。そんなことあるわけがないのに。

 春麗は震える手で自分の目に触れた。呪われた金色の瞳をもつ目に。

 春麗の目は父とも母とも異なる色をしていた。唯一、母方の曾祖母に春麗と同じく金色の目をしている者がいたらしい。そうでなければ春麗の母は(かん)(つう)を疑われていただろう。いや、疑ってなどいないと口では言いながらも、腹の内ではそうは思っていなかったのだ。

 春麗の父である俊明は自分とは似ても似つかぬ顔立ち、そして違う国の血でも混じっているかのような目を持つ春麗を疎んだ。また、不義の子を産んだと思い込み、春麗の母であり、自らの妻である(りん)(ぎょく)を事故に見せかけて殺した。そして後妻として入った白露は義妹、花琳を産んだ。

 俊明は、自分によく似た花琳を可愛がり、春麗をますます疎むようになった。それならいっそ殺してくれれば、そう思うこともあったが俊明たちは決して春麗を殺さなかった。いや、殺せなかった。それもまた春麗が持つ金色の目のせいであった。

「どうしてこんな目が……」

 いっそのこと自分の手で(えぐ)り取ってしまいたかった。この呪われた金色の目を。

 この目が呪われていることに最初に気付いたのは、今は亡き春麗の母、鈴玉だった。

 春麗が使用人の男を指差してこう言うのを聞いたそうだ。

「あの人、もうすぐ病気で死んじゃうわ」

 それまで目の色は違うが、それでも楊家の一人娘ということで可愛がられてきた。俊明も周りの手前、自分の娘だという扱いをしていた。しかし、その使用人が死に、その後も似たようなことが続くと、誰かが言った。「呪われた目を持つ呪われた子だ」「その目に映された者は死の宣告を受ける」と。

 実際、春麗の目には死が見えていた。ただそれは周りの言うようなものではなく、その人の顔に書かれていたのだ。『病死』と。
幼い春麗はただそれを読み上げただけだった。それがどんなことになるとも知らず。

 呪われた子を殺せばどんなことがあるかわからない。かといって、これ以上死の宣告をされるのはたまったものではない。そこで俊明は屋敷の離れに春麗を押し込んだ。誰の目にも触れさせぬよう、そして誰もその目に映させぬよう。春麗から母を奪い、綺麗な襦裙を取り上げ、目を開けることを禁止した。許されたのは襤褸を纏うこと、そして目を隠し下女として生きることのみ。そんな生活を十年以上続けていた。

 以来、周りの者も春麗を恐れていたが、春麗もまた怖かった。また誰かの死を見てしまうことが。

「いっそ殺してくれればいいのに」

 義妹である花琳は春麗のことを壊れてもいい(がん)()か何かだと思っているのか、時折ああやって食べ物を持ってやってくる。そして春麗の苦しむ姿を見て嘲笑うのだ。

 ならば食べなければいいと他人が聞けば思うかもしれないが、食べなければ食べないで口を無理矢理開かされ、そして呼吸ができなくなるほど持ってきた食べ物を押し込まれる。

 ただ、そうだとわかっていても春麗は(すが)ってしまう。もしかしたら今度こそ自分を受け入れてくれたのではないか、と。

「そんなことあるわけないのに」

 人を怖がるくせに心の奥底では人を求めてしまう。そんな自分が情けなくてみっともなくて、空しい。苦しくて切なくて悔しくて仕方がない。

 思考が上手く回らないのは花琳に盛られた毒のせいだろうか。荒いまま落ち着かない呼吸に額からは脂汗が流れ落ちる。楽になりたい一心で、春麗は目を閉じた。

 こんな生活はもう嫌だ。逃げ出してしまいたい。けれど、逃げ出す場所なんてどこにもない。死ぬまでこの場所で生き地獄のような日々を送るだけ。そんな自分の惨めな人生に一筋の涙を流しながら、春麗は意識を失った。



 春麗が目覚めたのは、とっくに日が落ちた頃だった。舌の痺れが治まっているところをみると大事には至らなかったようだ。春麗は小さく息を吐いた。

 最初の頃は酷かった。花琳を信じ、喜びそして食べきってしまったものだから、身体の中から毒が抜けきるまで生死をさまよった。あの時は本当に死ぬかと思った。と、言えば嘘になる。

 衾褥のそばの小卓に置いた鏡を見て自分が死ぬことはないと春麗は気付いていた。こんなに苦しくても死ねないのだと。

 暗闇の中、春麗は床の嘔吐物を片付けると戸を開けた。下女の誰かが置いてくれたのだろうか。そこには冷えた、(ゆう)()というには粗末な(まん)(とう)が一つあった。

 一瞬、朝の包子が頭を過ったがこれは花琳からではない。花琳であれば自分の目の前で春麗が苦しむ姿を見て嘲笑うだろう。少なくとも、こんなふうに無造作に置いておくことはない。
手に取った饅頭を部屋の中に入れると、春麗は中庭――ではなく屋敷の裏庭へと向かった。

 隅にある井戸で水を汲み、髪を、そして身体を洗う。風呂になんて入らせてもらえるわけがない。ここを使っているのだって見つかれば咎められる。そのため、普段は家人が寝静まったあとに身体を洗っているが今日ばかりはそうもいかなかった。

 自分の嘔吐物で汚れてしまった身体を、春麗は必死に洗う。暖かい季節には程遠く、指先が凍りそうな程冷たい水で身体を洗うのは、惨めで哀れだった。

 臭いは気になるもののようやく身体の汚れを落とし終わり、春麗は誰にも気付かれないように自室へと急いだ。

 回廊の向こうにある母屋では楽しそうな声が聞こえてくる。

 しかし春麗には関係のないことだった。誰も呼びに来ないということはもう今日の仕事は終わりなのだろう。

 冷めてしまった饅頭をかじり、そして再び眠りについた。明日は今日よりもいい日であることを願って。



 包子の一件から数日が()った。この数日は花琳が何か仕掛けてくることもなく、春麗は平和に過ごしていた。このまま何事もなく日々が過ぎ去って欲しい。そう願う春麗の想いも空しく、騒がしい声と共に部屋の戸が開かれた。

「春麗様」
「……なに、か」

 そこにいたのは芙(ふよう)という古くからこの屋敷に仕える()(じょ)だ。(さげす)むような視線に春麗は(うつむ)いた。この芙蓉は春麗の母である鈴玉を嫌っていた。そしてその子である春麗のことも。

 休んでいることを咎められるのか。けれど今は特に仕事もないはずだ。そんなことを考えていると芙蓉は冷たい声で告げた。

「旦那様がお呼びです」
「お父、様が?」

 何かの聞き違いだろうかと春麗は思わず確認する。しかし芙蓉はそれ以上何も言わず真新しい麻布を差し出した。

「これを目に」
「すでに巻いているのがありますが……」
「もう一枚、とのお達しです」
「わかり、ました」

 手渡された麻布を今巻いているものの上から巻く。元々見えることはなかったけれど、闇が一層深くなったような気がした。

 芙蓉は無言で春麗の背後に回ると、力を込め固く麻布を縛り直した。(まぶた)に食い込む麻布があまりに痛くて思わず声が漏れそうになるのを必死に堪えた。

 ズレないことを確認すると芙蓉はついて来いとばかりに先を歩く。春麗は芙蓉に連れられるままに母屋へと向かった。

 仕事以外で母屋に足を踏み入れるのは何年ぶりだろうか。そんなことを考えていると芙蓉は奥の部屋の前で立ち止まった。確かにそこは春麗の父、俊明の部屋だった。

「連れてきました」
「入れ」

 俊明の声に春麗は背筋が凍る思いだった。

 部屋に入ると父の前に座り春麗は頭を下げた。決して父の顔を見てはいけない。それは幼い頃から言われ続けたことだった。今は麻布で隠れているとはいえ人の死を映す金色の目。万が一にも俊明の死を宣告するようなことがあってはいけない、と。

 頭を下げたままでいる春麗に俊明は冷たい声で言った。

「お前の輿(こし)()れが決まった」
「え……?」

 思わず顔を上げそうになるのを必死に堪えた。俊明の言葉の意味が、春麗には理解できなかった。今、輿入れと言った? 誰の? まさか、春麗のだとでもいうのか。

 呆然とする春麗に、俊明は淡々と告げる。

「三日後、迎えの者が来る。その日までにその汚い身体をなんとかしておけ」
「お、お父様!」
「話はそれだけだ。連れて行け」
「あっ」

 芙蓉は春麗の腕を掴み、引きずるように部屋をあとにした。春麗は何が何だかわからず、俊明の言葉を(はん)(すう)する。

 輿入れ、ということは結婚である。どこの誰に(とつ)がされるのかもわからないが、春麗のこの目のことを知っていて結婚するというのだろうか。そんなことがあるのだろうか。

 答えのない問いが春麗の頭の中で次々と浮かび上がる。

 それでも、もしかしたら、もしかしたら、と(わず)かな希望に縋ってしまう。そんな希望など、すぐに打ち砕かれるというのに。

 芙蓉に連れられるまま風呂に行き、身体を流す。風呂に入るのなんていつぶりだろうか、井戸の水で洗っただけでは落ちきれなかった汚れが、黒い水となって流れていった。

 風呂を出るといつもの襤褸ではなく真新しい襦裙が用意されていた。本当にこれを着てもいいのかと躊(ためら)ったが、今まで着ていた襤褸はいつの間にか片付けられていた。春麗はそれに恐る恐る袖を通した。
幼い頃着ていた襦裙を思い出させるような肌触りに、酷く胸が痛む。そんな春麗を花琳は鼻で笑った。

「あら、綺麗になりましたね」
「……花琳」
「まるでどこかいいところの娘のようよ。ああ、(ばい)()の娘だけれどお父様のおかげで出自だけはよかったわね」
「お母様を悪く言わないで!」
「おお、怖い。輿入りが決まったからって偉そうな口きくじゃない。その分じゃあ、自分がどこに嫁入りするか知らないようね」

 花琳は形のいい唇を意地悪く(ゆが)めた。

「花琳は何か知っているっていうの……?」
「ええ。知りたい?」
「知り、たい」
「それが人に()う態度?」

 花琳が春麗のためになることを言うはずがない。そうわかってはいても、花琳の他に教えてくれる人もいない。春麗は縋る思いで(ひざまず)き花琳に頭を下げた。

「教えて、ください」
「うふふ、惨めですわね。誰にも相手にされない女って。でも、いいですわ。教えてさしあげるわ。お姉様が嫁ぐのは死の皇太子、いいえ。(せん)(てい)()(まか)られたから今は死の皇帝陛下ね。(きん)(じょう)(てい)(りゅう)(せい)(らん)様よ」
「皇帝、陛下……? 嘘……」
「ふふ、その様子じゃあお姉様も知ってらっしゃるみたいね。どうして死の皇帝陛下と呼ばれているか」

 その噂は下女として働いている春麗にも届いていた。しかし噂というのは尾ひれがつく。これもその(たぐ)いのものだと思っていたのだけれど。

「せっかくだから教えてあげる。今上帝の周りの人間はみんな死ぬの。()(こう)()(じゅう)、そして今度は先帝も……。あのお方は呪われているのよ。ああ、死の目を持つあんたと似ているわね。あんたが(きさき)となれば我が家には皇帝陛下との繋がりができる。皇帝陛下の呪いで死んでくれれば厄介払いもできる。ね、完璧でしょう?」

 花琳の恐ろしい言葉に、春麗の手は震えていた。そんな春麗の姿に気分をよくしたのか花琳は楽しそうに笑った。

「まさか自分がどこかの旦那様に()()められたとでも思っていたの? そんな物好きいるはずがないでしょう? 代替わり直後とはいえ後宮に(そろ)えられた妃嬪が相次いで亡くなり、そんな状況に自分の娘を置いておけないと残っていた妃嬪の大半が実家へ連れ戻されてしまったって話よ」
「それじゃあ後宮は……」
「行き場のない下働きの(にょ)(かん)(きゅう)()ばかりね。そんなの(がい)(ぶん)が悪いからどこかの家から娘を出せってなった時にお父様が真っ先にお姉様を推したのよ。呪いなんて気にしないってお父様は言っていたけれど、みんなわかっているわ。お父様が『うちの娘なら死んでも構わないから』って思っているってね。お姉様なんて所詮、生け贄に過ぎないわ。死の皇帝の贄に贈られる生贄妃よ」
「生贄妃……。そん……な……」
「お姉様が死ぬところを見られないのは残念ですが、さっさと死んで我が家にいい知らせを届けてくださいね。うふふ、楽しみだわ」

 高笑いと共に花琳は春麗の部屋を出て行く。残された春麗は知らされた事実に(がく)(ぜん)とした。

 しかし春麗は(あらが)(すべ)を持たない。それに、このままこの部屋で一生を終えるのも、後宮に入り皇帝の呪いで死ぬのも大差ないのかもしれない。

「生贄、妃……か」

 どこであろうと春麗が望まれぬ子であることに変わりはないのだから。



 俊明の話から三日後、春麗は今まで着たことのないような豪華な襦裙を身に纏い、後宮へと向かった。ただ見送りには誰も来ず、荷物も小さな風呂敷が一つあるのみ。これには迎えに来た侍従も驚いていたが春麗は気にならなかった。

 目を隠すための麻布は屋敷を出る時に外すよう俊明から命じられていた。その目が何を映すのかを知らなければ、異国の血が混じっているぐらいにしか思われないからと、冷笑を浮かべながら言う俊明の姿を思い出す。そこにどんな意図があるかなど春麗に推し量ることはできない。

 屋敷の門を出る寸前に不安を抱えながらも麻布を外し、そして俯いたまま牛車へと乗り込み後宮へと上がることとなった。春麗はせめてもと、前髪をなるべく前に下ろした。金色の呪われた目が隠れるように。誰の死もその目に映さないように、と。



 春麗に与えられたのは後宮の奥にある(えんじゅ)殿(でん)という殿(でん)(しゃ)だった。(ずい)(ぶん)と長く使われていないらしく、(ごう)()(けん)(らん)、とは言いがたい。

 けれど、殿舎の中は春麗がいた物置のような部屋とは比べることが失礼なほど広く、粗末な衾褥の代わりに(てん)(がい)付きの()(しょう)も用意されていた。春麗付きの侍女もいるとのことで、あまりの環境の違いに春麗は戸惑ってしまう。

「何かございましたら後程参ります侍女に申しつけください」
「あ、は、はい。ありがとうございます」

 思わず頭を下げる春麗を()(げん)そうな目で見ると、案内してくれた(かん)(がん)は槐殿をあとにした。残された春麗はどうしたらいいかわからず、とりあえず長椅子に腰を下ろした。着慣れない襦裙、落ち着かない部屋。

 ここでは食事もきちんと出る。春麗の一挙手一投足を咎める者もいない。まるで夢のようだ。もう一度、部屋内を見回してから目を閉じる。部屋には(こう)()かれているのか、いい香りが漂っていた。

 こういう時、花琳であれば「この香りは――」と自信たっぷりに話すのだけれど、(あい)(にく)と春麗にはこれが何の香りなのかわからなかった。

 香と言えば義母や花琳が襦裙に甘ったるい匂いがつくほど焚いていた記憶しかない。そのせいで春麗の中で香に対していい印象はなかった。ただ、今焚かれている香は、何故だかわからないが、不思議と嫌な気持ちにはならなかった。

 静かな殿舎に、庭園で鳴いているのだろうか、小鳥のさえずりが聞こえてくる。生まれて初めて、春麗は穏やかな時間を過ごした。しかしそれがつかの間の平和でしかないことを春麗は知っていた。いつ皇帝陛下から呼び出されるか、そればかりが気がかりだった。

 花琳や屋敷の侍女たちの言うことがどこまで本当かはわからない。けれど、ここに来るまでの道のりを思い出してみても後宮だというのに人気がなく、寒々とした空気が流れていることからも、何かあると言われても仕方ないのかもしれない。

 その日が来るまで、つかの間の幸せを噛みしめていよう。呪われた目を持つ自分だけれど、それくらいの幸せは許されてもいいと、そう思いたかった。



 春麗が後宮に上がってから数日が経った。未だ皇帝陛下へのお目通りはない。後宮にいるという皇太后陛下へも挨拶は必要ないと言われていた。結局のところ春麗は、生け贄として、ただ与えられた槐殿の中で過ごすだけだった。

 そんな中、春麗には一つの疑問が浮かんでいた。噂とは異なり、後宮内にいる人の中で誰も死にそうな人がいないのだ。

 春麗は侍女や案内してくれた宦官の姿を思い出す。
見ようと思ったわけではないのだけれど、必要に迫られ顔を上げた際に見たその顔には、誰一人として死の文字は出ていなかった。

 花琳は妃嬪が次々と死んだと言っていたし、周りの人間も同様だと言っていたからもっと死の文字が溢れているのかと思っていた。

 もしかすると皇帝陛下に近づかなければ大丈夫ということなのだろうか。それとも、やはりうわさは噂でしかなかった? もしくは、春麗の知らない場所に、死の文字が浮かんだ者がいるのだろうか。

 疑問に思うことはあれど、その答えを春麗に教えてくれる人間は残念ながら一人もいなかった。



 春麗に与えられた槐殿は数ある殿舎の中でも後宮の(さい)(おう)にある。もちろん皇帝陛下の()(おう)(きゅう)からは随分と遠い場所だ。皇后となるのであれば本来、(げつ)(おう)(きゅう)が用意されるはずだ。それなのに、何故こんな離れた場所なのか。答えは簡単だ。誰も春麗が本当の皇后となるとは思っていない。
ただそこに皇后となる妃嬪がいるという形を(たも)てるだけでいいのだ。

 どうせそのうち死んでしまうであろう生贄妃の春麗を、皇后の部屋に入れることを嫌った。大切な皇后の部屋に(けが)れがつかないよう、今は使われていないこの槐殿を与えたのではないか。

 その証拠に、未だ春麗は後宮における()(かい)すら与えられていなかった。

 とはいえ、今の春麗に死の文字はない。今までいたたくさんの妃嬪は死んだというのに。真相はわからないが、死ぬというのなら、それはそれでよかった。こんな目を持って生きていても、そこに幸せなどありはしないのだから。

 そんなことを思いながら、春麗が後宮で過ごして早十日。どれだけ待っても皇帝陛下のお目通りはないままだった。

 さすがに挨拶だけでもするべきではないだろうかと思ったが、侍女に尋ねてみても「槐殿にてお過ごしください」と言われるだけだった。

 そんな生活をしばらく続けていた春麗だったが、ある日侍女の(しゅう)()(よう)に声を掛けられた。

 本来であれば屋敷から侍女を連れてくることもできたが、誰も春麗に付き従いたくなかったこと。
何より春麗へ何か与えることを嫌った白露の意向で、後宮に残っていた下級貴族の娘である佳蓉を侍女とすることになったのだった。

 しかしこれは春麗にとって居心地の悪いものだった。佳蓉は春麗を一人の妃として扱う。まるでどこかの令嬢のように扱われることに春麗は未だ慣れず、そして戸惑うばかりだった。

「春麗様、少し外に出てみませんか?」
「いいの、ですか?」
「ええ。ようやく許可が下りました。それから何度もお伝えしましたが、私に敬語はおやめください」
「あ、えっと……わかった、わ」

 躊躇いながらも春麗は頷く。そもそもこんなふうに誰かと長時間一緒にいる、ということが春麗にとっては十数年ぶりのことなのだ。屋敷では下女たちと一緒に働いてはいたが、少しでも手を抜けば花琳の息がかかった下女が言いつけ、そして花琳や白露に(せっ)(かん)されていた。

 さらに下女たちはあの屋敷の娘でありながら、自分たちと同じように働く春麗のことを疎み蔑んでいた。そんな中で、春麗と(こん)()にする者などいなかった。
そんな生活を長い間送ってきた春麗に、緊張するなと言うほうが無理な話だ。

 佳蓉は春麗の身支度を整えると、槐殿の扉を開けた。中庭を抜け外へと出ると、少し歩いたところに庭園が広がっていた。そこに咲く色とりどりの花に、春麗は思わず顔を上げた。

 後宮に上がった日もそうだったけれど、庭園にはたくさんの花が咲き誇っていた。春麗の生まれ育った屋敷にも、春になれば手入れされた花がたくさんあったはずだ。春麗が見たことがあるのは井戸の周りや屋敷の花々を遠くから眺めるだけだったが、それでも数え切れないほどの花があった。しかし、今の時期はどこか殺風景だった。それなのにここは。

「綺麗……。あれはなんという花ですか? ……ではなくて、えっと、花、なの?」
(ろう)(ばい)でございます」

 教えられた花の名を口の中で何度か呟くと春麗は微笑んだ。花を見て綺麗だと思うことも、その花の名を知りたいと思うことも初めてだった。

 それと同時に自分自身がこんなことを思っていいのかという不安に襲われる。

「呪われた目を持つお前がそんな風に思うだって?」
「あら、お姉様。お姉様に見られたら花が気の毒よ」

 ここにはいないはずの白露と花琳の嘲笑う声が聞こえるようだった。

 そうだ、自分なんかがこんな風に何かに心を動かされることがあっていいわけがない。春麗は唇をぎゅっと噛みしめると俯き、足下に視線を向けた。

「春麗様?」
「……やっぱり宮に戻るわね」
「かしこまりました」

 佳蓉に告げると春麗は槐殿の中へと戻った。

 自分には似つかわしくないとわかっている。それなのに、どうしてあんなにもあの花に惹かれるのだろう。理由はわからなかったが、その日から春麗は数日に一度は庭園に足を運び蝋梅を見上げるようになった。寒い中でも咲き誇るその花から、春麗は何故か目が離せなかった。