むくりと起き上がったクリスティーナ。俺が起きていることに気がつくと、その瞳が何度もまたたいた。

「あなた……いつの間に、起きていたの?」
「つい三分ほど前でございます、お嬢様。ただいま水と薬を飲ませ終えたところです」

 すかさずクリアが説明を挟む。

「そうなの……よかったわ。あなた、七日も目が覚めなかったの。本当に心配したんだから」
「そう、ですか。その、買ってくれて、かんしゃです」
「まあ! わたくしの言葉がわかるの?」
「こちらの言葉はほぼ正確に理解しているようです。ただ、これまでの環境のせいか、別の問題があるのか、話し方には改善の余地があります。また語尾の訛りからして、以前はアドラ皇国の者だったのではないでしょうか」

 そのあとも、クリアは目覚めたクリスティーナに俺の記憶が曖昧なことについてを説明した。
 そんな俺をクリスティーナは深刻な様子で見つめてくる。

「ごめんなさい。主従契約が、あなたをあんなに苦しめてしまうとは思わなかったの。そのせいであなたの記憶が欠けてしまったのなら、わたくしのせいだわ」
「……」

 しゅんと肩を落とすクリスティーナの背後で、クリアが解せないという顔をしている。
 クリアの言いたいことは何となくわかるぞ。
 どうして俺ごときにクリスティーナが心を傷めているのか、納得ができないのだろう。

 スピンオフでもクリアはクリスティーナお嬢様を第一の考えだった。ぽっとでの俺を気に食わないと思っても仕方がない。口調はしっかりしているとはいえ、クリアだってまだ子どもだろうし。

「おじょーさまの、せい、ちがう。きにしないで、ださい」

 俺がそう言うと、クリスティーナは驚いた顔でこちらを見据えた。

「……ニア。あなたは、優しいのね」

 優しい? そんなことないと思う。
 それにクリスティーナの後ろにいるクリアの目もあるし。
 ただ、クリスティーナに名を呼ばれたことで、そういえば俺の名前は『ニア』になったのだと改めて理解した。


 ◇◇◇


「クリア……まだニアに自分の名前を教えていなかったの?」

 クリスティーナの名前はクリアから聞いていたが、クリア本人の名前はまだ教えてもらっていなかった。
 前世の記憶で知っているとはいえ、この二人にそれを打ち明けるかどうかは別である。
 そもそも言葉すら上手く話せない状況では、自分のことも詳しく説明できないだろう。

 ここは大人しく自己紹介を聞くことにした。

「ええと、クリアから聞いただろうけれど、改めてわたくしの名前を教えるわね。わたくしの名は、クリスティーナ・エムロイディーテ。そしてこの人は、わたくしの専属従者のクリア」
「クリスティーナおじょーさま、と、じゅうしゃ」

 ふんふん、と頷く。
 するとクリスティーナは微笑ましそうにくすりと笑った。

「クリアは十一歳で、わたくしとニアは十歳だから同い年ね」
「……おれ、じゅう、なんです?」
「うん。そうだという話をクリアが奴隷商の人から聞いたの。もしかして、違った……?」
「ううん。たぶんそう、です」

 正直自分の年齢も曖昧であったが、そのぐらいだとは思う。

「合っているのね、よかった。それと()()()()()()()、分からないことがあったらなんでも聞いてね、ニア」
「はい、かんしゃ、ございます。おじょーさま」
「……もしかして、ありがとうございますって言いたいの?」
「……ああ! それ! ありがとうございもす、おじょーさま」
「ふふふふっ」

 クリスティーナは再び笑う。とても可愛らしい、年相応の笑顔だと感じた。
 奴隷商人と話していたときとはまったく違う雰囲気に、こっちがクリスティーナの素だろうかと疑問に思う。

 それに……小説の中で見たクリスティーナ・エムロイディーテともかなり違うような。
 小説の世界で登場するクリスティーナは、引っ込み思案で、人に慣れていないためか言葉もボソボソと小さな声で喋っていた。
『マジカル・ハーツ』の主人公には体型を気にしている風なことを言っていたし、自信のなさから量が多く山のように盛り上がった髪で顔を覆い隠していた印象がとても強く残っている。

 しかし目の前にいるクリスティーナは、その面影がほぼない。
 あるとすれば、体型ぐらいだろうか。
 たしかに標準よりはかなりぷっくりとしているが、小説を知る者としては体型よりも性格の方に目がいってしまう。
 よく笑い、よく喋り、奴隷上がりの俺にも優しく接してくれるなんて、もうこんなの天使だ。

「……あの、おれはこれから、おじょーさまのじゅうしゃですか?」
「え……?」

 何気なく尋ねると、クリスティーナは驚いた顔をした。
 クリアは変わらずポーカーフェイスを崩そうとしないが、クリスティーナの感情の気配を察して眉をぴくりと動かしている。

「しゅじゅうけいやく、結んだ、ので」
「主従契約……そうね。わたくしはニアの、主人なんですものね」

 なぜかクリスティーナは寂しそうな顔をした。
 よく分からないが、今の俺としてはこのまま主従契約を結んだクリスティーナのそばにいることが一番いい気がする。
 そもそも主従契約を結んでいるんだから、俺がクリスティーナの従者……とか、下働きとして仕えるのが普通だ。

「……じゃあ、ニアはこれからわたくしの従者よ。よろしくね、ニア」
「よろしくおねがいしまする、おじょーさま」
「ふふ。お仕事の内容はクリアが教えてくれるわ。だけど今はまだ、ゆっくり休んでね」

 こうして俺は無事にクリスティーナもとい、クリスティーナお嬢様の従者となった。
 少々意味ありげな発言をしていたお嬢様だが、それを聞くのはもう少し言葉がマシになってからにしよう。

 クリスティーナお嬢様のことも気がかりだが、もうひとつ気がかりなのは……。

 俺の知る『マジカル・ハーツ』の世界には、『ニア』というキャラクターは一切登場していないということである。