日下部が転校してきて1ヶ月が経った。放課後、二人で勉強をしたおかげで日下部は無事授業に追いつくことができ、美織もなんとなくでしか理解できず全体の足を引っ張っていた物理のテストで八割以上は正解できるまでになっていた。

「凄い!」

 放課後の教室、いつも通り残った美織は返ってきた美織のテスト用紙を日下部に差し出した。なぜか緊張した面持ちでそれを受け取り点数を確認すると、日下部はまるで自分のことのように喜んだ。

「日下部君のおかげだよ。ありがと」
「あーよかった」
「え?」
「俺が教えても特に成績上がらなかったら時間無駄に使わせたって落ち込むところだった」

 日下部は安心したように言うと、美織のテストを手に持ったまま自分の机に突っ伏した。どうしたのかと美織がオロオロしていると、顔を美織の方に向け、日下部はへへっと笑った。

「でもなんとか役目果たせたみたいでよかったよ」
「ホントにありがとうね」
「ううん、全然。……でも、これで放課後の勉強会も終わり、かな」
「あ……」

 言われてみれば確かにそうだ。少なくとも授業進度が追いついた日下部にとっては必要のないものになってしまった。美織だって未だに物理に不安はあるけれど、それでも日下部が教えてくれたことを元に一人でだってなんとかなるレベルではある。
 つきんと胸の奥が小さく痛んだ気がした。
 このまま日下部との接点がなくなってしまうことを寂しく思っている自分がいる。その思いも寄らない感情に、自分自身で戸惑ってしまう。

「でさ――……って、須藤?」
「え、あ、あの、その」

 突然黙り込んだ美織を不思議そうに日下部は見上げる。
 そんなふうにジッと見つめないで欲しい。
 心臓の音がどんどんと大きくなっていくのがわかる。これじゃあ、まるで日下部のことを意識しているようで、そんなことあるわけないのに、でも、こんなの。
 自分自身の感情が理解できない。いったいどうしてしまったというのだろう。

「大丈夫?」
「え、あ、うん」
「ホントに?」
「ホントホント。ところでさっき何か言いかけてなかった?」

 話をごまかしたい気持ちと、それから純粋にさっき何を言いかけてたのか気になって美織は尋ねる。少し怪訝そうな表情を浮かべたものの「ああ」と小さく呟いて、日下部は頬を掻いた。

「放課後の勉強会は終わりだと思うんだけどさ」
「……うん」

 ああ、やっぱり終わりなのだ。もう少しだけ続けたかったと、終わってしまうのは寂しいとそう思っているのはきっと美織だけなのだろう。
 だって日下部は寂しそうどころか、はにかむような表情を浮かべながら笑っているのだから。

「その、空いた時間で俺と遊ばない?」
「え?」
「や、その別に嫌だったらいいんだけどこの辺でどこか遊ぶところとかあったら教えて欲しいし。ほら、放課後ずっと須藤と一緒だったから今さら誰かを誘うのも、さ。それにえっと」

 言い訳のようなことばをつらつらと並べる日下部に、気付けば美織は笑っていた。

「なんだよ」
「なんでもないよ」
「まあ、だからさ、そういうことだから、どう、かな?」

 きっと日下部に出会う前の美織なら、用がなくなったのであればまた父親のところへ行く時間を早めるようにしていただろう。でも、今は。

「うん、私も遊びに行きたい」
「やった!」

 手を叩く日下部に美織は小さく笑う。この選択が正解なのかはわからない。でも、自分が選んだ答えに、美織は満足していた。自分の意志で、自分のしたいことを選んだのだから。


 どこに行く? という話からとりあえず駅前のゲームセンターへと向かった。そもそも学校帰りはまっすぐに父親のところへ向かい、さらに隣の市に住んでいる美織にこの辺りを紹介したり案内できるだけの情報はなかった。
 日下部と二人でシューティングゲームをしたり、レーシングゲームで対決したりした。どれも初めてだった美織は日下部に教えてもらいながらクリアしていく。

「上手いじゃん」
「教えてくれる人が上手いからだよ」

 美織の言葉に日下部は笑う。そんな日下部に美織も笑い返す。それはなんともいえない幸せな時間だった。このまま帰る時間にならなければいいのに。そう思うけれど、時間が止まる訳もない。当たり前のように日は暮れ、帰らなければいけない時間は近づいてくる。

「そろそろ時間だね」
「……うん」

 これ以上遅くなれば、面会時間ギリギリになってしまうし、そうすれば春人の晩ご飯がさらに遅くなる。
 名残惜しいけれど、仕方がない。

「それじゃあ、私そろそろ帰るね」
「うん……」

 もう少しだけ一緒にいたい、そんな言葉が喉から出かかったけれど、必死に堪えて別れの挨拶を告げる。そんな言葉を言えるような関係ではないから。
 いつの間にか、美織の中で日下部の存在が随分と大きくなっていた。今まで気付かなかったのが信じられないぐらいに、日下部のことを意識している自分がいた。

「須藤? 大丈夫?」
「あ、うん。大丈夫」

 ボーッとしていた美織を心配そうに日下部が見つめるから、慌てて笑顔を浮かべた。寂しく思っていることを悟られないように、平気そうに見えるように精一杯明るく美織は言う。日下部から、ほんの少しだけ視線を外して。

「じゃあ、今日はありがとう。また明日学校でね」

 日下部に背を向けて美織は歩き出す。ゲームセンターの入り口まで来ると、まるでそこは夢と現実の狭間のようだった。自動ドアのあちらとこちらで喧噪と静寂が隔てられている。きっと美織にとっての現実はあちら側なのだ。
 美織は一歩踏み出した。自分のいるべき場所へ。

「……須藤!」
「日下部君?」

 そんな美織の手を誰かが掴んだ。その声に心臓が跳ね上がるのを感じる。誰か、なんてわかっている。だって、この声は。
 振り返った美織に、日下部は真剣な表情を向けていた。その表情に美織の胸が痛いぐらいに高鳴る。いったい何を言われるんだろう。どうして追いかけてきたんだろう。疑問がグルグルと頭を回るけれど何一つとして口に出して尋ねることはできない。

「あ、の」

 腕を振り払うこともできず、その場に立ち尽くす。センサーが反応して、何度も自動ドアが開け閉めを繰り返す。
 入ってくる客の邪魔になったらしく、向かいから来た男性は美織たちに舌打ちをしながら通り過ぎていく。

「……送る」
「え?」
「病院、行くんだろ? 送るよ」

 普段の美織なら絶対に断っていた。それ以上は踏み込まれたくない、どんなに仲のいい人にでも知られたくない領域だったから。
 けれど、掴まれた腕が熱くて。ううん、腕だけじゃない。頭もボーッとして上手く考えることができない。

「行こ?」

 結局、腕を掴んだまま言う日下部に頷くことしかできなかった。
 夕焼けが道路を赤く照らす中、美織は日下部と並んで歩く。腕を掴まれていたはずが、気付けば掴まれているのは手に変わっていた。これでは手を引かれているというより、手を繋いで歩いているようだ。
 日下部はいったい何を考えているんだろう。どうして、こんな。
 
「……ねえ、須藤」

 美織の名を呼ぶ日下部の手に力が入ったのがわかった。握り返してわからず、前を向いたまま「何?」とだけ呟いた。その声が妙に震えていたのには気付かないで欲しい。
 躊躇うような間のあと、日下部が小さく息を吸う音が聞こえた。

「――あのさ明日も放課後遊ぼうよ。……ううん、明日だけじゃなくて、明後日もしあさっても……用がなくてもさ俺、須藤と一緒に放課後の時間過ごしたいんだけど」
「日下部、君。それって……」

 もしかして、という期待とそんな都合の良いことがあるのだろうかという不安が胸の中に入り交じる。
 どういう反応をすれば良いのかわからずにいる美織の隣で、日下部が小さく笑った気がした。

「好きだよ。俺、須藤のこと好きなんだ」
「あ……」
「だから、その、またこうやって出かけたいんだけど、どう、かな」

 その「どうかな」が出かけることだけに掛かっていないことはさすがの美織でもわかる。わかるのだけれど、だからといってこんなときなんて返事をしたらいいのかわからない。

「あ、あの、えっと」

 何か言わなければ。そう思うのに上手く考えがまとまらない。どうしよう、どうしたら。

「ふっ……」

 戸惑い続ける美織をよそに、日下部はなぜか噴き出した。慌てて立ち止まるとそちらを向く美織の隣で、嬉しそうに笑う日下部の姿があった。

「え……?」
「や、ごめん。だって、さ」

 堪えきれないと言ったふうに口元を抑えくつくつと笑うと、日下部は照れくさそうに、でも口元が緩んでいるのを隠せないまま笑みを浮かべてた。

「須藤、そんなに顔赤くしてたら俺のこと好きだって言ってるようなもんだよ」
「嘘!」

 慌てて両手で顔を覆う。そんな美織の行動を日下部はまるで愛おしいものでも見るかのように顔をほころばせる。

「違った? 俺の勘違い?」
「…………」
「須藤?」

 黙ったままの美織に少しだけ不安になったのか、先程までの楽しそうな態度から一転、今度は少しだけ心配そうな表情を浮かべ美織の顔をそっと覗き込んだ。
日下部の視線が美織の目を捉える。ジッと見つめられると吸い込まれそうにクラクラする。
 そんな姿にすらも胸がキュッとなる。ああ、もう隠せない。自分の気持ちをごまかしきれない。

「……、も」
「ん?」

 聞き返す日下部の顔を見えなくて、美織はぎゅっと目を閉じるとなけなしの勇気と、それから震えそうになる声を必死に出した。

「私、も……一緒、だよ」

 その一言だけで美織には精一杯だった。伝わっただろうか。わかってもらえただろうか。不安に思いながら、恐る恐る薄目を開けて日下部の様子を窺おうとした。
 けれど、思わぬ光景に目を見開いてしまう。
 そこには、美織の腕を掴んでいた手で自分の口元を押さえる、赤い顔をした日下部の姿があった。

「日下部……君?」
「ま、ちょっ、まっ……。待って、今、俺のこと見ないで」
「えっ、見ないでって言っても……」

 目の前にいるのだから見ないというのは難しい。とはいえ、見るなと言われたのであれば見ないようにはしようと視線を逸らした。けれどすぐそばにいるのだから視界の端にはどうしても入ってしまう。
 真っ赤な顔を腕で隠すようにして日下部はその場にしゃがみ込んだ。

「ヤバイ……。嘘だろ、俺。かっこ悪ぃ」
「えっと、あの……大丈夫?」
「大丈夫じゃ、ない」

 まだ赤みの残る顔をそっと上げると、足下にしゃがみ込んだまま日下部は美織を見上げた。

「めちゃくちゃ嬉しい」
「……っ」
「ホントに嬉しい」

 そう言って笑う日下部の表情があまりにも優しくて、悲しくもないのに涙が溢れそうになった。


 手を繋いで父親の病院までの道のりを歩く。もうずっと一人で歩いてきたこの道を、こんなふうに誰かと歩く日が来るなんて思わなかった。
 隣を歩く日下部は美織に何かを尋ねることはない。ただ寄り添いながら歩き続ける。
 病院の前に着くと、日下部は繋いだ手をそっと離した。

「それじゃあ、明日また学校で」
「……うん」
「帰りは送れないけど、気をつけてね」
「ありがとう。日下部君も気をつけてね」

 そっと微笑んだ美織に日下部は少し躊躇うような表情を浮かべたあと「あのさ」と切り出した。

「俺も、美織って呼んでいい?」
「え?」
「俺のことも、忍って呼んでくれたらいいから」
「え、あ、あの」
「じゃあね、美織。また明日!」

 美織の返事なんて聞かず、日下部は手を振ると背を向けて走って行く。

「忍、君」

 呼び慣れない名を口の中で小さく何度も繰り返す。慣れない呼び方に戸惑いと、それから照れくささ。でもどこか胸の奥があたたかくなるのを感じて、ああきっとこれを幸せだっていうのだとそんなことを思いながら、病院への一歩を踏み出した。
 心が現実へと戻っていくのを感じながら。


 美織と忍が付き合い始めてあっという間に1ヶ月が経った。この1ヶ月の間、放課後や休日に時間を見つけては二人で色々なところに行った。
 遊園地や水族館、映画館。お金が掛かるから、と時間がないからと今まで諦めてきた、でも本当は行ってみたくて仕方のなかった場所に忍は連れて行ってくれる。
 遊園地は優待券をどこからかもらってきて、水族館は学生ならただ同然で入れる日を探してきてくれたりもした。映画はなんと試写会を当てたらしい。
 美織が感心するたびに、
「諦めなきゃなんでもできるんだよ」
 そう言って忍は笑っていた。


 その日、朝から雨が降っていた。教室に着いた美織はいつもならもう来ているはずの忍の姿がないことに気付く。
 転校してきたとき隣の席だった忍は、そのあとの席替えで廊下側一番後ろの席になった美織とは正反対の教卓の一番前の席になった。
 その席が今日は空席となっていた。
 ポケットの中からようやく買ってもらったスマートフォンを取り出す。型落ちで古くなったものらしいけれど、問題なく使えるし連絡が取れればそれでいいとさえ思っている。
 ……そういえば、スマートフォンを買ったおかげで忍の評価が月葉の中で一気に上がったことを思い出す。
 忍と付き合うことになったことを報告した日、愛乃は喜んでくれたけれど月葉は「みーちゃんのこと取られた!」と忍に対して妙な対抗心を燃やしていた。昼休みに忍がご飯を一緒に食べようと誘ってきても「私たちと食べるから駄目!」と美織に抱きついて離れなかったのは記憶に新しい。
 そんな月葉だったけれど、忍のおかげで美織がスマートフォンを買ったと知ってから態度が一変した。
 ずっと贅沢品だと思っていたし、なくても困ることはなかったのでこれからも持つ気はなかったのだけれど「今はスマホも安くなってるんだよ」と忍が教えてくれ、さらに購入から設定まで手伝ってくれた。
 おかげで美織とメッセージアプリで連絡が取れるようになったことに月葉は喜び「まあ認めてあげてもいいかな」なんて忍に対して態度が軟化したのだ。
 そんなことを思い出しながらメッセージアプリを立ち上げる。朝、月葉から『おはよ』と描かれた猫のスタンプが届いているだけで他に未読のメッセージはなかった。
 どうかしたのだろうか。一度、こちらから連絡を入れてみる? でも、今学校に向かっているところだとしたら邪魔になるかも知れない。
 グルグルと回り続ける思考にふと笑ってしまいそうになる。たった五分、忍がいつもよりも来るのが遅いだけでこんなにも心配になるなんて、今までの自分からすると有り得ない話だった。
 家族のために生きているだけだったはずの自分が、こんなふうに誰かのことを想うようになるなんて。
 どこかくすぐったくてあたたかくて、胸がいっぱいになる。こんな感情を教えてくれたのは、紛れもなく忍だった。
 やっぱり連絡を入れてみよう。なんでもなければそれでいい。
 忍の名前をタップするとメッセージの入力をしようとした。
 そのとき、教室のドアが開いたのに気付いた。
 そこには雨に濡れた忍の姿があった。男子たちが「なんで傘差さなかったんだよ」と笑いながら忍の頭を小突くのが見える。
「捨て猫に傘あげちゃってさー」
 なんて笑っているのを見て安心する。先走ってメッセージを送らなくてよかったかもしれない。ポケットの中にスマートフォンを戻そうとすると、メッセージの通知を知らせるように震えた。
 月葉からだろうか。画面を確認すると、そこには忍の名前が表示されていた。

『おはよ。遅刻ギリギリになっちゃった』

 メッセージにふっと自分の頬が緩むのを感じる。慌てて表情を戻すと、美織は画面をタップした。

『おはよ。猫に傘あげたってホント?』
『ホント。来る途中ににゃあにゃあ鳴いててさ』

 ノータイムで届くメッセージ。忍が猫に傘を差すところを想像して笑ってしまいそうになるのを必死に堪える。

『今笑ったでしょ』

 続けざまに来たメッセージにドキリとして顔を上げた。教卓の前の席から忍ぶがこっちを見ているのが見えた。

「(おはよ)」

 口パクで忍が言うのが見えて、美織はそっと手を振った。こんなふうな何気ないことがとっても幸せだと、そう思う。そう思えることが、凄く嬉しい。

『他にも理由あるんだけど、そっちは放課後話すよ』

 メッセージを見て顔を上げると、忍は何もなかったかのように他の友人たちと話していた。他にも理由があった、とはいったいなんなんだろう。何かあったのだろうか。
 不安な思いを押し込むように、美織はスマートフォンをポケットへと入れるとスカートの上からぎゅっと握りしめた。


 放課後に対して楽しみとか嬉しいという感情が美織にはなかった。学校が終われば父親のところへ行き、家に帰って晩ご飯を作る。それが当たり前で、それ以外なんて考えることもなかった。モノクロの世界に生きているかのようだった。
 けれど、そんな美織の放課後に彩りを与えたのは間違いなく忍だ。忍がいなければきっと今も美織にとっての放課後は何の楽しみもない時間のままだった。
 忍と出会って、放課後どこかに行くことの嬉しさを、誰かと時間を忘れるほどお喋りすることの楽しみを知った。
 なのにそんな放課後が、今は怖い。遅刻してきた理由とは何なんだろう。あんな言い方をするぐらいだ。猫に傘を差したのとは違う、もっとちゃんとした理由があるんだろう。
 些細なことならあのメッセージで言ってもいいはずだ。でもそうじゃない。書き方的にいい話ではないのではないか。
 早く何の話かを聞きたい気持ちと、悪い話を聞くのが怖くて逃げ出したい気持ちがせめぎ合う。せめて今日だけは時間が経つのが遅ければいいのに。そう願うけれど、いつもと同じように。ううん、意識している分いつもよりも早く放課後はやってきた。

「帰ろうか」

 帰る支度を終えた忍が美織の元へとやってくる。準備なんてとっくに終わっているのに、グズグズと机の中を確認したり机の上に落ちた消しくずをまとめたりしていた美織は、そばに立つ忍の姿にようやく諦め立ち上がった。

「うん」

 隣に並んで歩くけれど、空気はいつものように明るいものではない。まるで雨はやんだもののいつまた降り出すかわからないといった、どんよりとした重さを漂わせている窓の外の空のようだった。

「美織?」

 忍は突然立ち止まった美織を不思議そうに振り返る。

「どうかした?」
「……どうか、したの?」
「や、それを今尋ねてるんだけど」

 質問に質問で返した美織に忍は首をかしげる。そんな忍に、美織はもう一度尋ねた。

「どうか、したの?」

 美織の言葉の意図がようやくわかったのか「あー……」と呟くと頭を掻くと申し訳なさそうに眉尻を下げた。

「ごめん、もしかして朝のメッセージ気にしてた?」
「してるに、決まってるでしょ」
「そっか、そうだよね。あーごめん、ほんっとごめん」

 両手を合わせると忍は勢いよく頭を下げた。突然のことに美織は戸惑いを隠せない。

「あの……」
「えーっと、朝のはさこれのことなんだ」

 忍は額にかかった前髪を掻き上げる。するとそこには目立つ大きな傷跡があった。

「それって」
「子どもの頃にさ学校のブランコから落ちてできた傷、らしい」
「らしいって?」
「記憶がないんだ。落ちて頭を打ったショックでその日までの記憶が全部」
「そんなことって」

 ドラマか漫画の中でしか聞かないような話で、これが忍の言葉じゃなければすんなりと信じることは難しかったかもしれない。
 けれど忍がそんな嘘をつくような人じゃないことをこの2ヶ月で美織はよく知っていた。

「今はもう、大丈夫なの?」
「ほとんどね。ただ、こんな雨の日にはどうしても傷が痛んじゃって。それで今日、なかなか家を出られなかったんだ」
「そっか、それで」
「連絡しなかったから心配したよね。それに朝のメッセージも。中途半端に説明して心配かけるよりあとできちんと話した方がいいと思ったんだけど、よけいに気にさせちゃったね」

 もう一度「ごめんね」と申し訳なさそうに忍が謝るから、美織はもういいよと首を振った。たしかに頭の傷が痛んで、なんて聞いていたら余計に心配したし不安になったと思う。父親のことがあったから余計に、だ。

「でも記憶がないってちょっと怖いね」

 口に出してしまってから自分の失言に気付き慌てて口を押さえた。

「ご、ごめん。私」
「ううん、別に謝るようなことじゃないよ。うん、そうだね。怖いと言えば怖いし、怖くないと言えば怖くないかな」
「どういうこと?」
「美織はさ、小さい頃のことって何歳ぐらいまで覚えてる? 10歳? 7歳? 5歳? もっと小さな頃のことも覚えてる?」

 言われて考えてみると、断片的な記憶はあれどはっきりと何歳のとき、と覚えているのはそれこそ小学校に上がってからかもしれない。特に父親が事故に遭うよりも昔のことはふわっとしか覚えていない。

「意外とみんな小さい頃の記憶なんてあやふやで覚えてないんだよ。だから怖くない。でも、自分だけが知らないことがあると思うと少しだけ怖い」

 忍は少し黙り込むと「歩きながら話そうか」と美織に声をかけ歩き出す。その背中を慌てて追いかけると美織は隣に並んだ。
 隣を歩く忍はまっすぐ前を見ているようで、どこか遠くを見ているようにも見えた。

「10歳までの記憶がないって言ったよね。その前のこと、両親は色々話してくれるんだ。もちろん写真だって残ってるからそういうのも見せてくれる。でも、肝心なことになるとどこか歯切れが悪くて、何かを隠してるんじゃないかって思ってしまう。どこの小学校に通っていたとか、なんで転校することになったのかとかそういうの全部教えてくれない」
「それは、たしかに気になるね」
「でしょ。今回、この学校に転校するのも本当は凄く反対されたんだ。だからもしかしてこの辺りに昔住んでいたんじゃないか、何か思い出してほしくないことがあるから、だから反対したり隠したりするんじゃないかってそう思った」

 忍の言うことは正しいのかも知れない。でも。

「怖くないの? 何か、思い出したら辛くなることがあるかもしれないよ」
「それでも、思い出したい。だってそれも含めて俺なはずだから」

 きっと美織が何を言っても忍は失った過去を探すだろう。それなら。

「じゃあ、私も一緒に探す」
「ホントに? いいの?」
「うん。その代わり、何があってもちゃんと私にも教えて。それが忍くんにとってどんなことだったとしても、一人で抱え込もうとしないで。私がそばにいるから」

 美織は忍の手をぎゅっと握りしめる。忍は少し驚いたような表情を浮かべたあと微笑むと「ありがとう」と言って美織の手を優しく握り返した。
 何があったとしてもこの手を離さずにいよう。どんなことが待ち受けていたとしても自分だけは忍の味方でいよう。そう強く思いながら、美織はもう一度忍の手を握りしめた。


 忍の考え通りなら、きっとこの市のどこかに忍の通っていた小学校があるはずだ。とりあえず高校の周辺にある三校をピックアップする。これが違えば今度は隣の町の小学校に、その次はまた。そうやってしらみつぶしに探していく以外に方法はなかった。
 その日、学校から近い順に二校、小学校を回ってみた。外から見ても特に思い出すものはなく、そもそも忍の言っていたブランコもその二校にはどうやらないようだった。
 もしかすると怪我をしたのがきっかけでブランコを撤去したのかも知れない、そう思い運動場にいた用務員のおじさんに尋ねてみたけれど、昔からブランコなんて置いていなかったと言われてしまう。

「ここも違ったかー」

 二校目の帰り道、隣を歩く忍は残念そうにため息を吐いた。もう随分と日が暮れ、父親の病院へと向かわなければいけない時間が迫っていた。

「ごめんね、付き合わせたのに全然で」
「なんで? 今日始めたばかりなのにそんなすぐに見つかるわけないよ。時間はいっぱいあるんだし、また今度他の学校も回ってみよ?」
「……ありがと」

 ぎゅっと握りしめた手を忍は握り返す。忍は美織を付き合わせたのに思い出せることがなくて申し訳なく思っているようだけれど、美織はほんの少しだけホッとしていた。
 忍の両親が徹底的に隠してきた過去。それを本当に暴いてしまっていいのだろうか。何かあったときにそばにいるとは言ったけれど、なにもないに越したことはない。それならいっそ、記憶が戻らなければ。そんなふうにさえ思ってしまうのだ。

 あと少しで病院に着く。そんなタイミングで、後ろから聞き覚えのある声が聞こえた。

「あれ? 姉ちゃん?」
「……春人? なんでこんなところに」
「俺は母さんに頼まれたものがあって父さんに持ってきたんだ。姉ちゃんこそ――あ、はいはい。そういうことね」

 春人は美織と隣に立つ忍の姿を見比べ、そして繋いでいる手を見てニヤリと笑った。

「最近、妙に楽しそうだと思ったら彼氏かー。へえ、姉ちゃんもやるじゃん」
「なっ、ち、ちが……わ、ないけど。えっと、その」
「前に言ってた小学生の弟さん?」
「あ、うん。春人っていうの。春人、こちらは」
「はじめまして、日下部忍です。春人くんって呼んでもいいかな?」
「……日下部、忍……さん?」

 忍の名前を聞いた春人の表情がなぜか曇った気がした。どうかしたのだろうか。

「春人?」
「……変なこと聞いてもいいですか?」
「え?」
「春人、何を言う気なの!」
「姉ちゃんは黙ってて。……ねえ、日下部さん。もしかしてだけど、昔この辺に住んでませんでした?」

 春人の質問の意図がわからない。どうしたらいいかと焦る美織とは対象的に、忍は春人の言葉に引っかかるものを感じたのか、しゃがむようにして視線を合わせると口を開いた。

「たしかに、俺は昔この街に住んでいたよ。でも、どうしてそう思ったの?」
「……やっぱり」

 けれど、春人は忍の問いには答えず「行こう」と美織の手を引っ張った。

「ちょっと、春人!」
「早くしないと面会時間終わっちゃうよ。これさっさと持って行くようにって言われてるんだ」
「春人! ああ、もう! ごめんね、忍くん。また明日!」
「……うん、また明日」

 何か言いたげな表情を浮かべていたけれど、そう言うと忍は美織に手を振りその場を後にする。

「ねえ、春人! どういうつもりなの?」
「…………」
「春人ってば!」

 問いただそうとするけれど、美織がどれだけ尋ねても春人が何かを言うことはなかった。
 いったいさっきの質問で春人は忍の何を確認したかったのだろう。
 その答えは結局わからないままだった。


 翌日、美織は朝から行方不明になったスマートフォンを探し遅刻ギリギリだった。結局、見つからず家の中にあることは確かだから帰ってから探そうと諦めて学校に来た。

「おはよう」
「おはよ」

 昨日のことを謝りたいと、教室に着いた美織は自分の席に座る忍の元へと向かった。

「昨日は弟が失礼なことを言っちゃってごめんなさい」
「ううん、大丈夫だよ」
「ホントごめんね。今日も小学校回る? 昨日行けなかった一校と――」
「それなんだけど」

 美織の言葉を遮ると、忍は申し訳なさそうに両手を合わせた。

「今日の放課後、ちょっと用事が入っちゃって行けなくなったんだ。だから明日以降でもいいかな?」
「そうなの? うん、わかった」

 放課後、忍が用事があるというのは珍しく意外に思ったけれどそんな日もあるだろう。それじゃあ今日はまっすぐに父親のところに向かって、それからたまには早く家に帰ろう。
 そういえば最近ずいぶんと春人の宿題を見ていない。久しぶりに見るのもいいかもしれない。
 そんなことを考える美織の隣で、忍がどこか浮かない表情を浮かべているのが気になった。

「何かあったの?」
「え? どうして?」
「なんか、暗い顔してるから」
「そうかな? あ、そろそろ先生来るよ」

 忍がそう言うと同時に教室のドアが開き、担任が姿を現した。
 上手くごまかされてしまったような気がする。いったいどうしたんだろう。
 美織は胸の奥のざわつきをどうしても抑えられずにいた。


 結局、一日中忍は浮かない表情をしていた。「どうしたの?」と尋ねても「なんでもないよ」としか言ってくれない忍に少しだけ不安になった。

「それじゃあ、また明日」
「あ、うん。また明日」

 ホームルームが終わると、忍は用事とやらのためにどこかへと向かう。美織は美織でこのあと父親の病院へと向かうだけ、なのだけれど。

「……ごめんね」

 どうしても気になって、美織は忍のあとを着いていった。どこに行くのだろう。誰と会うのだろう。いったい何があったのだろう。

「あれ? この道って」

 見覚えがある、どころか通い慣れた道のりを忍は歩く。これは美織の帰宅ルートだ。まさか、そんなことがあるわけない。たまたまこっち方面に用事があっただけだ。
 そう思うのに、どんどんと近づいてくる自分の家に、美織の心臓は痛いぐらいに鳴り響く。
 忍は一軒の家の前で立ち止まる。そこは紛れもなく、美織の自宅だった。
 チャイムを押した忍を出迎えたのは――春人だった。

「迷いませんでした?」
「大丈夫だよ」
「……姉ちゃんは」
「お父さんのところに行くって言ってたから」
「そうですか。……上がってください」

 春人は玄関の外を確認し、そして忍を家の中に招き入れた。
 二階にある春人の部屋のカーテンが閉まるのを確認すると、美織はそっと裏口へと向かった。美織の持っている鍵で裏口のドアを開けると、そっと家の中へと入った。
 心臓の音がうるさい。どうしてこんなふうにコソコソしなければいけないのか。
 何やってるの? と明るく声をかければよかったのではないか。そんなことを思うけれど、二人の先程の空気を思い出すと決していい話じゃないことはわかる。
 足音を立てないようにそっと二階へと上がった。自分の部屋を通り過ぎ、春人の部屋の前に立つ。
 中からは二人の声が聞こえてきた。

「それで、俺の過去を知ってるってどういうこと? 美織の、お姉さんのスマホを使ってまで連絡してきて」

 忍の言葉で、美織は自分の行方不明だったスマートフォンを春人が持っていること知った。でも、なんで。どうして春人がそんなことを? そもそも、忍の過去を知っているってどうして?
 疑問ばかりが頭の中に浮かんでくる。
 忍の、そして美織の疑問に答えるように春人は話し始めた。

「うちの父親のこと、どこまで知っていますか?」
「……いつも美織が見舞いに行っている病院に入院している、としか」
「ホントにそれだけですか?」
「……それ以上のことは美織からは聞いていない。でも療養病院に長期で入院しているってことだから、ある程度の想像は、ついているよ」
「……そうですか。うちの父親はいわゆる植物人間です。意識もなく、あそこで生かされているだけ。どうしてかわかります? あなたのせいです」
「俺、の?」

 思わず声を上げそうになるのを必死に堪えた。どういう意味? そんなわけないでしょ。何を言っているの。そう言って部屋に飛び込みそうになるのを必死に堪えた。
 春人は話を続ける。

「8年前、父親は事故に遭いました。不幸な事故です。横断歩道を歩いていた子どもに、赤信号を無視った車が突っ込んできた。咄嗟にその子を庇い、父親はその日から植物人間になりました」
「まさ、か」
「噂好きの親戚の言葉を頼りに図書館で当時の新聞記事を探したから確かです。そこには庇われたけれど怪我をした子どもの名前も載っていましたよ。当時10歳の日下部忍くん。……あなたですよね
「嘘だろ……」

 ガタン、と何かが倒れた音が聞こえた。けれど、自分が嗚咽を漏らさないようにするのに必死で美織は中のことまで考える余裕はなかった。袖口を噛みしめていないと今にも泣き声で聞き耳を立てていることがバレてしまいそうだった。

「あなたが悪いわけじゃないってわかってる。でも、あのとき父さんがあんたのことを助けなければ、父さんは今もこの家で笑ってて母さんだって姉ちゃんだって何の苦労もしなくてよかったって思うと、どうしても俺はあんたのことが許せないんだ」
「…………」
「頼むから、俺たちの前から……姉ちゃんの前から、消えてください」

 絞り出すように春人は言う。その返事を忍がなんてしたのかはわからない。ただ、その場から動けずにいた美織のそばで春人の部屋のドアが開き、忍が出てきた。

「あ……」

 一瞬、傷ついたような表情を浮かべた忍は、美織から顔を背けると、何か言うことなくその場を立ち去った。
 残された美織は、部屋の中で春人が泣く声を聞きながら、自身も声を押し殺して泣き続けた。


 翌日、学校に行くと忍の姿はなかった。担任曰く、家庭の事情で再度転校することになったらしい。
 けれど、美織は知っている。忍が美織のために姿を消したのだと。
 空っぽになった席を見ながら、美織は春人から返してもらったスマートフォンを操作する。
 今はもう消されてしまった連絡先から届いた最後のメッセージ。

『大好きだった』

 その一言に美織はもう一度涙を流す。
 諦めずに手を伸ばすことを教えてくれた。望めば叶うかも知れないと気付かせてくれた。
 初めてだった。こんなふうに誰かのことを好きになって、そばにいたいと思った。
 なのに、忍はもういない。こんなにも好きにさせて、現れたときと同じように突然いなくなった。
 忍の過去に何かあったのなら、手を離さないでそばにいようとそう思っていたのに、こんなにもあっけなく、手を離されてしまうなんて。
 それが忍なりのけじめの付け方だったのだとしても、あまりにも勝手で、あまりにも辛い。


 どれだけ望んでも、もう二度と会うことはないし、会ってはいけない人だ。
 そうわかっているのに。

「消せないよ」

 削除のボタンを何度押そうとしても押すことはできない。
 削除しますか? と書かれた文字の上に、美織の涙が一つぽたりと落ちた。
 それは消せない美織の想いを表しているかのようで、切なくそして空しく滲んで見えた。