真っ白な部屋のカーテンをそっと開ける。差し込む夕日が六人部屋の隅に置かれたベッドで寝ている男性を照らした。眩しそうに目を細めるけれど、それは反射で意思があるわけではないと教えられたのは何年前のことだっただろうか。
セーラー服のスカートを翻しながら、美織はベッドの上で無表情のまま天井を見つめる父親に声をかけた。
「おはよ、お父さん。っていっても、もう夕方だけどね」
八年前、美織がまだ小学4年生の頃、父親は事故に遭い、その日からずっと植物人間状態のままこうして病院のベッドで生きている。
口さがない親戚なんかは『あれは生きているんじゃない。ただチューブから栄養を入れられて生かされているだけだ』なんて言うけれど、それでもこうやって触れればぬくもりを感じ、たまに笑ったような表情を見せる父親の姿は美織にとって――いや、美織の母である亜希子にとっては心の支えとなっていた。
美織の父親である陽一が植物人間状態となってから、亜希子は必死に働いた。陽一のために、そして美織たち子どものために。
端から見ていて身体を壊してしまうんじゃないかと思うときもあった。それでもきっと、亜希子にとってはがむしゃらに働く事でしか心を正常に保てなかったのだと今ならわかる。
そんな母親に代わって美織は五つ年下の弟である春人の面倒を見てきた。保育園のお迎えに食事作り、風呂に入れ寝かしつけまで、帰りの遅い母親の代わりに全て美織がやった。殆ど育てたといっても過言ではないかもしれない。
「じゃあ、明日また来るね」
看護師から受け取った洗濯物を手に、美織は父親の病室をあとにした。
以前であれば慌てて帰っていたけれど、弟の春人ももう小学六年生。美織が帰るまでの時間ぐらいであれば一人で留守番だってできる。
それでも夕食の準備などを考えればゆっくりもしていられない。早足で病院から家への道のりを歩く。
途中、同じ制服を着た女子生徒が何人かで楽しそうに話しながら歩いているのが見えた。手に持っているのは駅前のカフェのドリンクだろうか。そういえば、今日から新作が発売すると、昼休みに友人が言っていた気がする。
「……いいなぁ」
ポツリと呟いた自分の言葉に慌てて口を押さえる。別に羨ましいなんて思っていない。羨んだところで何かが変わるわけではない。仕方がない、仕方がないのだ。
「そう、仕方がないんだよ」
自分に言い聞かせるようにそう声に出すと、美織は立ち止まり手をぎゅっと握りしめると小さく息を吐いた。
大丈夫。まだ頑張れる。
スッと息を吸い込み、腹に力を入れて一歩歩き出す。その目に諦めの色を宿しながら。
翌朝、美織は自分の弁当とまだ寝ている母親の朝ご飯を準備すると、春人に声をかけた。
「春人、お姉ちゃんもう行くから、家を出るときにお母さんのこと起こすの忘れないようにね」
「大丈夫だよ。だからさっさと行けば。遅刻するよ」
のんびりと食卓でトーストを囓りながら、春人は早く行けとばかりに手を払う。昔は「お姉ちゃん、お姉ちゃん」と可愛かったのに、いつの間にか随分と可愛げがなくなってしまった。思春期、もしくは反抗期というやつだろうか。
春人もそんな歳になったんだなぁとどこか感慨深く思う。
とはいえ、春人は年のわりに落ち着いた雰囲気を纏っている。美織では頼りなく、精一杯大人になろうとしてくれているのだと思うと胸が痛む。
美織自身が何かを仕方がないと諦めるのは別にいい。けれど春人にはのびのびと子どもらしくいてほしい。そう思ってしまうのだ。
玄関のドアを開けると、青空が広がっている。願わくば、この晴れ渡る空のように明るい未来を春人にも、そう思わずにはいられなかった。
美織はいつものように教室の窓際、一番前の席に座る。いつも一緒にいる友人たちはまだ来ていないのか、ざわついた教室の中で美織は一人だった。
一人が寂しいという友人もいるけれど、美織はそうじゃない。普段、人一倍動き周りに気配を続けているからこうやって一人の時間を過ごすのも好きだった。
とはいえ、時計の針はそろそろチャイムが鳴る時刻を示している。みんな揃って欠席、は考えづらい。遅刻だろうか? そんなことを考えていると、バタバタと廊下を走る音が聞こえ教室のドアが開いた。
「危なかったー!」
「間に合ったー!」
友人である尾崎月葉と宇堂愛乃は楽しそうに顔を見合わせながら教室に駆け込んできた。そして美織の姿を見つけると嬉しそうに近づいてきた。
「美織ちゃん、おはよ」
「おはよう。今日遅かったんだね」
「ううん、もうちょっと前に来てたんだけど昇降口で月葉に会って――」
「そんなのいいから! ね、みーちゃん聞いて!」
聞いて! と、力強く愛乃の話を遮ると、月葉は美織の方に身を乗り出した。その勢いで月葉のトレードマークであるポニーテールが揺れ愛乃の頬に当たっていた。
「どっ、どうしたの?」
「あのね、うちのクラスに転校生が来るんだって! しかもすっごいイケメンの!」
「転校生?」
愛乃の話をまとめると、どうやら昇降口で月葉と会い、教室に向かおうとしていた途中で見覚えのない男子が担任と話しているのが見え、こっそり話を聞いていたらその子が実は美織たちのクラスへの転校生だということがわかったらしい。
「それで遅刻ギリギリになったの?」
「だって、ほら気になるでしょー!」
気になるか気にならないか、で言われると美織は特に気にならないのだけれどそんなことを言えば愛乃と月葉がガッカリするのは目に見えている。なので「まあね」と愛想笑いだけ浮かべておく。
けれどそんな美織の態度などお見通しのように二人は口を尖らせた。
「もーなんで美織はそんなに冷めてるの!」
「そうだよ、イケメンだよ! 目の保養!」
上手くごまかそう、とする気持ちすら二人には透けて見えたらしい。「ごめんごめん」と笑う美織にしょうがないなぁと二人は笑った。
愛乃と月葉は美織とは違う中学の出身だから仲良くなったのは去年、高校に入学してからだ。幼稚園からの幼なじみだという二人と意気投合、というか気に入られそれからずっと三人で過ごしている。同じ中学から来た人がおらず、自分から進んで人付き合いをする方でもない美織にとっては、二人の存在はありがたい限りだった。
美織だって年頃の女の子だ。イケメン、に興味が全くないわけではない。けれど、二人ほど気にはならなかったし、そもそも今の自分の状態で男子に対して好きだとか嫌いだとか思うだけの余裕はない。
それよりも家のことをして母親の手助けをし、春人をきちんと育てなければ。それだけでいっぱいいっぱいだった。
だから担任が教室に連れてきた二人曰くイケメンの男子を見てもなんとも思わないし、美織の生活には何の変化もない、はずだった。
チャイムが鳴ると同時に教室のドアが開き担任が入ってくる。その後ろに、二人が言っていた通り転校生だと思われる男子が立っていた。その姿に教室の女子が色めき立つ。
日の光を浴びて薄ら茶色に見えるさらっとした髪の毛、整った目鼻立ち、170cm近くあるはずの担任よりも高い身長。たしかに二人が騒ぐのもわかる気がする。
「あー静かにしろ。気になるよな、気になるのはわかるけど――」
「ね、先生。転校生?」
「早く紹介してよ」
「ねえねえ、名前なんて言うのー?」
担任の声を遮って女子たちが口々に言う。男子たちはどこか面白くなさげだったけれど、それでも興味はあるようで「あの身長だったらバスケやんねえかな」とか「いや、サッカーを」なんて転校生がどの部活に入るのか気になるようだった。
美織はというとそんなざわめきの中、今日の夕食のことを考えていた。昨日の残りのかぼちゃの煮付けと何かメインになるようなおかずを出して。最近、春人がおかずが少ないというからもう一品ぐらい――。
そんなことを思っていると、なぜか担任と目が合った。
「じゃあ、ということで須藤。頼んだぞ」
「え?」
何も話を聞いていなかった美織が悪い。それはわかっているけれど、突然担任から名前を呼ばれ、教室中から視線を向けられている今の状況をできればわかりやすく説明してほしい。
「えっと、あの?」
「なんだ、聞いてなかったのか? 須藤、クラス委員だろ? 日下部のこと面倒見てやってくれ」
「くらすいいん……?」
くらすいいん、クラス委員……。そういえば、春に委員決めをするときに内申に良いからとそんなものになった気がする。大学に行く気はないけれど、それでももしも何かのきっかけで進学を選びたくなったときに、クラス委員をやっていれば内申がよくなると聞いたのだ。
美織の状況で大学に行くには奨学金が必須だ。それもできれば給付型の方が望ましい。かといって、生徒会をするほどの時間はない。そんな美織にとってクラス委員はちょうどよかったのだ。
けれど七月の今になるまで何の活動もなかったから美織自身、自分がクラス委員であることなんて今の今まで忘れていた。
「え、あ、で、でも男子なので男子の方が……」
「沼田なー。あいつタイミングの悪いことに今日から一週間、出席停止なんだ。季節外れのインフルエンザだそうだ」
「インフルエンザ……」
この季節にインフルエンザに罹る人がいるのか、という驚きとどうにも逃れられなさそうな転校生の世話係に小さくため息を吐いた。
黒板には『日下部 忍』と書かれていた。さっき担任の言った「くさかべ」とはどうやら転校生の名前のようだった。
「じゃあ、頼んだぞ」
「……わかりました」
別に断る必要はない。ただクラスの女子たちが「いいなー」とか「ずるいー」とか「私がやりたかった!」なんて声を上げている中で引き受けるのがどうにも気が進まなかっただけで。
美織が世話を引き受ける、ということで日下部の席は美織の隣に用意された。一番前の席だった男子はラッキーとばかりに一席後ろに下がる。
隣の席に座った日下部は美織に笑みを向けた。そんな日下部に、美織も精一杯の笑顔を浮かべると心の中で小さくため息を吐いた。
面倒を見る、なんて言われたけれど移動教室は男子たちが日下部を連れて行ってくれたし教科書もすでに全て揃っているようで見せる必要もない。転校生といったって高校二年生だ。小学生のように手取り足取り面倒を見なければいけないなんてことはないだろう。
そう思うと少しだけ気持ちが軽くなるのを感じた。
結局、その日の放課後までに美織が日下部にしたことと言えば、各教科の先生の名前を教えるぐらいだった。
次の日も、そのまた次の日も特に美織が日下部に何かをするというようなことはなく、結局面倒を見ると言っても形だけだったなと少し安心していた。
日下部が転校してきて数日が経った。まるで以前から教室にいるかのように馴染み、さっそく日下部に告白した女子までいるという話を月葉たちから聞いた。出会ってまだ数日で告白できるほど好きになれるなんて凄いな、なんて美織が言うと「みーちゃんってそういうところ凄くドライだよね」と月葉は肩をすくめていた。
その日の放課後、美織は珍しくゆっくりと帰る準備をしていた。今日は母親が夕方までのシフトのため、父親のところへは行く必要がない。たまには月葉たちと一緒にどこかへ行くのもいいかもしれない。そう思い声をかけようと席を立とうとする。
そんな美織の視界に、数学の教科書をジッと見つめる日下部の姿が見えた。
手元には今日の授業のノート。覗くつもりはなかった。けれど目に入ったノートは板書を写した箇所以外は白紙だった。
「あ……」
「わっ、見ちゃった?」
美織の口から漏れた声に気付いたのか、日下部は顔を上げるとノートを隠す。そして困ったように笑った。
「えっと、それ今日のノートだよね。もしかして授業わからなかった?」
「わからなかったというか、えっと。前の学校と進みがちょっと違うみたいで」
「あ、そっか」
全部の学校が全く同じ速度で進んでいるわけではない。美織の通っている学校は県内でも進学校と呼ばれる学校で二年生の後半は三年生の単元をし、三年生の後半は授業よりも受験対策に費やす。そのため、今の時点でも他の学校よりは進んでいるのだ。
「ご、ごめんね。気付かなくて」
「ううん、大丈夫だよ。って言いたいところなんだけど、全くついていけないのも困っちゃって。もし須藤さんさえよければ教えてもらえる、かな?」
日下部は申し訳なさそうに美織に言う。その表情に、美織の方が申し訳なくなる。
面倒を見る、と担任が言ったのはきっと本来そういうことも含めてのはずだ。それなのに上辺だけの困りごとにしか気づけなかった自分が恥ずかしい。
「ごめんね! えっと、じゃあ今からやろっか」
今日が病院に行かなくていい日で助かった。月葉たちと遊びに行くことはできなかったけれど、それは別にまたの機会にいけばいい。
美織は自分の席に座り直すと日下部の机と自分の机を向かい合わせるようにくっつけた。
日下部の元々通っていた学校もそこそこは進んでいたようで、ちょうど今やっている単元の一つ前のところまでは終わっていた。幸い、美織たちのクラスは新しい単元に入ったところだったので軽く説明をすると「ふんふん」と理解したようで、今日の授業でやったところまではすんなりと解けるようになっていた。
「やー、ありがと。助かったよ」
「ううん、こちらこそ気付くのが遅くなっちゃってごめんね。ちなみに数学以外は大丈夫?」
「化学と物理がちょっと……。他は大丈夫だと思うんだけど」
「化学と物理、かぁ」
鞄の中からノートを取り出しパラパラとめくる。化学は教えられるのだけれど。
「物理は私もあんまり自信ないんだよね」
「須藤さん、物理苦手なの?」
「ちょっとだけね。数学と似たようなもんじゃんって言われたらそれまでなんだけど、どうにも上手く理解できなくて」
理系にいる以上、物理ができないのは困るのだけれどいつもなんとか平均ギリギリで他の教科の足を引っ張っているのは事実だ。塾にでも通えれば、と思うけれどそんな余裕は家にはない。余裕があったとしても夜は家を空けることができないから現実的ではない。
結局『まあ仕方ないよね』で諦めてきた。そのうちどうにかしなければとは思っているけれど。
「じゃあさ、俺が物理教えるってのはどう?」
「え?」
授業についていけない、と言っていたではないか。そんな美織の疑問がわかったのか日下部は優しく笑う。その表情に、ああ女子たちが騒ぐのもわかる気がするな、と美織は思う。こんなふうに優しく微笑みかけられれば、きっとその笑みを自分だけに向けて欲しいとそう思ってしまうのも無理ないと。
そこまで考えたところで、いったい何を考えてるんだと慌てて首を振る。今のは一般論なだけで決して美織がそう思ったわけではない。断じて違う。
けれど。
「どうかした?」
「えっ、あっ、ううん。なんでも……」
「なんてね、あれでしょ。俺が物理教えてって言ったくせに何言ってるんだって思ってるでしょ?」
「あーえっと、まあ、うん」
それはそれで間違っているわけではないので美織は肯定する。全てが本当なわけではないけれど嘘をついているわけでもない。
少し感じ悪く捉えられてしまったかもしれないけれど、変なことを言って気まずい空気が流れるぐらいなら、きっとそう思ってもらっていた方が良い。
「ちょっとだけ、ね。ごめん」
「なんで謝るの。俺だって逆の立場だったら『こいつ何言ってるんだ』って思うから」
「や、そこまでは思ってないけど」
「そうなの?」
屈託なく日下部は笑う。その笑顔に見惚れそうになるのを必死に堪えようとそっと視線を外した。そんな美織の態度など気にもとめていないように日下部は話を続ける。
「進度が合わなくて困ってるだけで物理が苦手なわけじゃないんだよ」
「あ、そういうこと?」
「そうそう。だから今までのところなら教えてあげるには問題ないし、授業にさえ追いつけば今の単元を教えるのも多分大丈夫だと思うよ」
日下部の申し出はありがたかったし魅力的だった。
塾に行く時間がない美織にとってわからないところは休み時間に教科担任を捕まえて質問する以外に方法がなかった。けれど、休み時間は次の時間の移動のために先生が捕まらないことが多く、昼休みになんとか教えてもらっていた。
それでも先生は先生でしなければいけないことがある。『放課後に聞きに来てくれれば』そんなふうに言われるたびに申し訳なく思っていたのだ。
けれど……。
「ありがとう。でも、たぶん無理だと思う」
「なんで? 俺じゃ教えられない?」
「そうじゃなくて、えっと」
なんと説明すれば良いか、美織は言葉に詰まる。放課後は予定が合って、今日はたまたま予定がなくて、そんな言葉を並べたらきっと日下部は美織が断りたくてそういう言い回しをしていると思うだろう。
……いや、別にそう思われても関係ない。関係ないはずだ。こんなことを考えているなんて逆にそう思っているみたいだ。
「私、放課後は忙しくて。今日はたまたま用がなかったからこうやって残れてるけど普段は無理なんだ。だからせっかく言ってくれたけど教えてもらうのは難しいと思う」
嘘じゃない。全てホントのことだ。なのにどうして早口になってしまうのだろう。ぎゅっと握りしめた手のひらに薄らと汗をかくのだろう。
どうせ信じてもらえないという気持ちと、それから。
「そっか、それじゃあ放課後は厳しいね」
「え……?」
「ん? どうかした?」
信じて欲しい、という気持ちが透けて見えたのかと思うぐらい、日下部が考え込んだような表情で言うから美織は思わず拍子抜けしたような声を出してしまった。
「信じるの? こんな、断るための言い訳みたいな話」
「え、断るための言い訳だったの?」
「ちっ、違うけど」
全て本当のことなのだけれど、まさかこんなにすんなりと信じてもらえるとも思わなかったので戸惑ってしまう。
開けっぱなしにしていた窓から風が舞い込むと、ふわりとカーテンが揺れる。差し込む光が眩しくて思わず美織は目を細めた。そんな美織に日下部は微笑みかける。
「だって、須藤さんそんな嘘つくタイプじゃないでしょ」
「え?」
「それに、そんな申し訳なさそうな顔して言い訳する人なんていないよ」
その言葉が妙に優しくて、どうしてかわからないけれど泣きたくなる。けれど、なぜ泣いているのかと尋ねられてもきっと答えられないから、美織は必死に涙を堪えた。
日下部は暫く考えるような表情を浮かべたあと、美織に尋ねる。
「放課後、忙しいって話だけどすぐに帰らなきゃいけないぐらい忙しいの? それとも何時までにどこかに行かなきゃいけないとかそんな感じ?」
「何時、まで?」
そんなこと考えもしたことがなかった。学校が終われば機械的に父親の病院へと向かい、見舞いついでに汚れ物を受け取り自宅へと帰る。そのあとは夕食を作り春人と一緒に食べる。それが美織の放課後の全てだった。それ以外の選択肢なんてないと思っていたし、考えちゃいけないと思っていた。
美織はいつだって家族のために、母親の、そして春人のために――。
「ね、誰かじゃなくてさ須藤さんはどうしたい?」
「私?」
「そう。須藤さんの気持ちを俺は知りたい」
「私の、気持ち」
自分の気持ちとはいったい何だろう。今までずっと無理だと仕方がないと自分の気持ちを全て置き去りにしてきた。そうするもんだと思ってきた。
「でも、そのうち弟が小さくて」
「弟さん? 何歳?」
「えっと、小学六年生」
「小六かー」
改めて春人の年齢を言いながらドキリとした。小さい小さいと思っていたけれど、春人もいつの間にか小学六年生。父親が植物人間状態となり、幼かった春人の面倒を、家のことをしなければいけなくなった美織の年齢を超えていた。
日下部はノートから視線を上げ、頬杖をつきながら口を開く。
「微妙な歳だよね。もう一人でも留守番できるって子もいればそうじゃない子もいるだろうし」
「そう、かな」
日下部の言葉にどこかホッとしている美織がいた。全てを否定せず、美織の言葉を肯定してくれるところに優しさを感じる。
「それで放課後は難しいんだ?」
「えっと、それからその……父親が――入院してて。そのお見舞いに行かなきゃいけないの」
自分のこの全て正直に言っているわけじゃないけれど、嘘をついている訳でもない言い回しがズルくて嫌になる。嘘つきにはなりたくない、でも本当のことを話せるほど誰かに心を開くこともできない。本当のことを知って可哀想な子だと気の毒な子だと思われたくない。
市外のこの高校に来たのだってそうだ。中学の時、誰かの親からの話で美織の父親のことがクラスの人に知られてしまった。その日から美織は『家族のために頑張っている可哀想な子』になってしまった。何をしても何を言っても色眼鏡で見られ気の毒がられ憐れまれる。そんな空気が嫌で嫌でしょうがなくて、市外の誰も行かないこの高校を選んだ。
日下部は今の言葉にどんな反応をするだろうか。やっぱり可哀想だと思われるのだろうか。それとも憐れまれ――。
「あーそれはたしかに大変だね。面会時間短いの?」
「え?」
「や、ほら病院によって面会時間が違うからさ、そういうのもあってすぐ帰らなきゃいけないってのもあるのかなって」
日下部の言葉に、美織は声に出さずもう一度「面会時間」と呟いた。
今まで面会時間なんて気にしたことなかった。放課後になればすぐに行かなければいけないと、そうしなければいけないと思い込んでいた。
でも言われてみればたしかにそうだ。病院には面会時間が決められているはずで、それはきっと美織が見舞いに行く時間よりもずっと遅くに設定されているはずだ。夕食だって、もう春人だって小さな子どもじゃない。いつまでも五時に帰って夕食を食べなくても六時だって七時だっていいはずだ。
「そっか……。そう、だよね」
今まで気付かなかっただけで、考えなかっただけで、考えようとしなかっただけで、もしかすると本当は思っているよりも美織の自由な時間は存在するのかもしれない。
――それが許されるかどうかは別として。
「自由な時間、作ってもいいのかな」
ポツリと呟いた言葉に日下部は少し驚いたような表情を浮かべたあと、柔らかい笑みを浮かべた。
「いいに決まってるよ」
日下部の言葉はなぜかストンと胸の中に入り込む。出会ったばかりだというのに不思議だ。日下部がそういうとどうしてかすんなりと受け入れられてしまう。
美織は少し考えたあと、おずおずと口を開いた。
「えっと、まだわからないけどもしかすると放課後一時間ぐらいなら大丈夫かもしれない」
「ホント? じゃあさ、その時間に俺が須藤さんに物理を教えて、須藤さんが俺に各教科の追いついてないところを教えてくれるっていうのはどうかな?」
「いいの?」
「いいの、というか完全に俺の方が助けてもらう立場なんだけどね。そのお礼、ってわけじゃないけど俺にも返せることがあるなら申し訳なくて済むし。どうだろ?」
そう言って笑う日下部に美織ははにかみながら頷く。少しだけ胸が高鳴っているのは、今までとは違う日々が始まるかも知れないことへの高揚感、だと思いたかった。
その日、美織が帰宅するとちょうど父親の病院から帰ってきたらしい母親と玄関のところで会った。洗濯物を持った母は疲れているはずなのにどこか嬉しそうで、きっと久しぶりに父親に会えたからだろうと思うと微笑ましくさえ思える。
美織にとってどこか義務感を覚える見舞いも、母親にとってはきっと今もなお大切な人に出会える唯一の場なのだ。そう思うと、自分が冷たい人間に思えて仕方がない。
しかも今から尋ねようとしているのは、さらに酷いことなのではないのか。父親の病院へ行くのは何時までなら大丈夫か、なんてまるで少しでも行かなくていい時間を長くしようとしているように受け取られないだろうか。そんな不安と心配が頭の中をグルグルと回る。
こんなことを尋ねずに今まで通りでいいのではないか。仕方がないじゃないか。しょうがないんだよ。無理なものは無理なんだ。
今まで何度も言い聞かせてきた言葉。でも――。
「あの、ね。お母さん、聞きたいことがあるんだけど」
「どうしたの?」
玄関の鍵を開けながら振り返る母親に、美織は何と切り出すべきか悩む。そんな美織に「何神妙な顔をしてるの」なんて笑いながら、母親はドアを開けた。
「ただいまー。春君いるー?」
「いるよー」
リビングから春人の間の抜けた声が聞こえてくる。あの調子じゃあ、また宿題をしていないのではないか。美織が少し遅くなるとこれだ。やっぱり美織がちゃんと見てないといけない。そうだ、自分のことよりも家族のことをちゃんと考えなければ。
先に入った母親に続き、美織もリビングへと向かう。テレビの前のソファーで漫画を読んでいた春人が美織に気付き顔を上げた。
「あ、姉ちゃんもおかえり」
「春人、宿題した? どうせ――」
「したよ」
「え?」
身体を起こしながらニッと笑うと、春人はローテーブルに置いたノートを指さした。
「ホントに?」
「ホントだって。俺だっていつまでも『宿題やりなさい』って言われる小さな子どもじゃないんだよ」
「そっ……か。そう、だよね」
いつまでも春人だって小さな子どもじゃない。美織が高校生になったように春人だって大きくなるんだ。
「あの、ね。お姉ちゃん、来週から放課後ちょっと学校で勉強をしたくて。だからお父さんのところに寄って帰ってくるとなると今よりも帰ってくるのが一時間ぐらい遅くなっちゃうんだけど、大丈夫……?」
「大丈夫って何が?」
「や、ほら晩ご飯の時間が遅くなるからお腹が空かないかなとか、一人で心細くないかなとか」
美織が話すにつれ春人の眉間にあからさまに皺が入っていくのが見えた。どうしてそんな表情をするのかと思いながらも、美織の言葉がそうさせていることがわかってどんどんと声は小さくなっていく。
美織が話し終え口を閉じると、春人はため息を吐いた。
「あのさ、お腹が空いたら冷蔵庫にあるものを適当に食べるよ。心細くないかっていったって今よりも1時間遅くなったところで6時でしょ? 周りの友達、その時間なら普通に塾に行ってたり夏場ならそこの公園で遊んでるよ」
「そう、なの?」
「そうだよ。姉ちゃんは心配しすぎ。俺のことよりさ、自分のこと心配した方がいいんじゃないの?」
「うっ」と言葉に詰まる。たしかに春人の言うとおりだ。でも。
「でも、心配だし」
「ったく、姉ちゃんは心配性なんだから」
「生意気言い過ぎよ」
ソファーに寝転がりながら言う春人の頭を母親が持っていた新聞紙を丸めて叩いた。そして美織の方を向くと、困ったように微笑んだ。
「でもね、お母さんも春人の言うとおりだと思うの。今まで甘えておいて今さら都合の良いことを、と思うかもしれないけど、春人も大きくなったし美織は美織で少し自分の時間を作ってもいいのよ」
「お母さん……本当に、いいの?」
「いいに決まってるでしょ」
そう言って微笑んだ母親の姿が、放課後の教室で笑った日下部の姿と重なった。
無理だよと諦めて来た。仕方ないよと飲み込んできた。けれど、その中には手を伸ばせば、美織が欲しいと望めば叶ったものもあったのかもしれない。
きっと日下部と出会わなければこんなふうに何かを望むことなんて、今を変えることなんて考えもつかなかった。
不思議だ。まだ出会ってたったの数日しか経っていないのに、美織の十何年を全て塗り替えてしまった。
「変なの」
「何か言った?」
「なんでもないよ」
思わず呟いた言葉に、春人が不思議そうに首をかしげたけれど美織は笑って誤魔化す。
週明け、学校で会ったら日下部になんて言おう。とりあえず「ありがとう」だろうか。お礼を言うのは変だから「これからよろしく」? でも、それもなんだかおかしい気がする。
須藤家のリビングでは、いろんなパターンを考えながら「ふふっ」と笑う美織の姿を、春人が怪訝そうに見つめていた。