ごくありふれた単身者用の1DKのマンションの一室。
その部屋の隅を見つめて、加茂鈴花は絶句していた。
部屋の隅には、推し俳優・高瀬臣のブロマイドやポスター、アクリルスタンドなどのグッズが尋常ではない数並んだ一角がある。
この手のファンたちの間では通称〝祭壇〟と呼ばれる、推しのグッズを一堂に集めた飾りつけだ。
しかし、その祭壇を見つめる鈴花の表情は険しい。というよりも、困惑している。
そして、よく見れば視線は祭壇よりもやや上部の、天井付近に縫い止められている。
無理もない。そこには今、男が浮いているのだから。
「え……う、ウソ、えっ? ……臣くん……?」
部屋の宙に見知らぬ男が浮かんでいるという状況に叫びだそうか逃げ出そうか散々悩んで鈴花が発したのは、そんな間抜けな声だった。
だが、緊急事態におかしくなったとかではない。本当にそこに浮かんでいるのは、推しにそっくりの男だったのだ。
「いや、えー……ウソぉ」
入浴を済ませて寝室に戻ってきたら、祭壇近くに男が浮いていたという状況がやはり信じられず、しげしげと見てしまう。
立ったままうなだれるような姿勢で浮いているその姿は、紛れもなく高瀬臣だ。
「しかもこの髪色と衣装は、『帝都あやかし恋うた』の団三郎だよね」
白い髪をした男は、着物を崩して着流しスタイルにして身につけている。それは高瀬臣が『帝都あやかし恋うた』という演目でやった、狸のイケメン妖怪の姿だ。
鈴花の声に反応したのか、下から覗き込む視線を感じたからか、男が唐突にパッチリと目を開けた。
そして、鈴花を見下ろしてにっこりした。
「呼ばれて飛び出てここに見参! そなたの神様じゃ!」
「ぎゃーっ!!」
パチッとウインクとポーズまでつけて言われて、鈴花は叫んだ。
改めて部屋に不審者がいるという恐怖と、推し(?)から不意打ちのファンサを浴びせられての混乱による悲鳴だ。
安全な場所まで逃げなくてはという危機意識と、推しにすっぴんを見られたという羞恥心により、鈴花はズササササと後ろに下がって距離を取る。ゴキブリと対峙したときと同じくらいの俊敏さを発揮した。
「あ、あなた、だれ……?」
目の前の男がいくら推しにそっくりでも、推しではないことはわかっている。推しは浮かないし、こんな部屋にいるはずがない。いてたまるかという話だ。
となるとこの男は知らない男で、おまけに人間ですらないのかもしれない。
そう思うと、鈴花の足はまたじわりと部屋の出入り口へと向かう。
本当なら一目散に玄関へ走り、外へ出て助けを求める場面なのだろう。
だが、祭壇をはじめとした大切な推しグッズを残して逃げたくないという気持ちと、何より得体が知れなくても推しに似た男をもっと見たいという気持ちが、鈴花に逃げることをためらわせていた。
「誰って……つれないのぉ。神じゃ。そなたが先ほど手を合わせてくれた」
警戒心をあらわにする鈴花に、神を名乗る男は笑顔で言った。
「ひっ……!」
凛々しいツリ眉とその下で色気と甘さをだだ漏れにしているタレ目、スッと筋の通った鼻、口角がキュッと上がって可愛らしさを感じさせる唇――細部に至るまで高瀬臣そっくりの男を前に、鈴花は心臓がおかしな挙動をするのを感じて思わず胸を押さえた。
本物ではないとはいえ、推しの顔を近くで見続けるというのは体にあまりよくないことのようだ。
こんな近くに寄ったのは、写真集のお渡しイベントの握手のときくらいだろうか。そのときもあまりにも心臓がバクバクいいすぎて、たまらず「推しは体にいいはずなのにどうして……!」とツイッターで呟いた気がする。
「え……か、神様? 宗教の勧誘……?」
男は神と名乗ったが、当然だが神など見たことがない。だから、身近にある心配事として思い浮かんだのは宗教の勧誘だった。
駅前で金髪碧眼のイケメン外国人に声をかけられたと思ったら、宗教の勧誘だったという話を聞いたことがある。ということは、いきなり部屋に好みのイケメンが現れるなどという新手の勧誘なのかもしれない。
「勧誘せずとも、先ほどそなたが自らワシの祠に手を合わせたではないか」
「あ……」
宗教の勧誘を疑う鈴花に対して、男は乙女が恥じらうようにもじもじした。
祠という言葉を聞き、鈴花の脳裏には今日の帰り道に見つけた、小さな神社のようなもののことを思い出した。神社といっても鳥居はなく、小さなお社が残されるのみの寂れたものだ。
仕事帰りに偶然見つけて、何となく素通りするのも憚られて手を合わせたのだ。今日は、嬉しいお知らせがあって機嫌が良かったのもある。
「あんなに熱心に手を合わせられたのワシ、久しぶりで……その気になってついてきてしまったのじゃ」
「熱心にって……」
悪い男に唆された小娘のようなことを神に言われ、鈴花は言葉に詰まった。
熱心に手を合わせたのは間違いない。でもそれは今日に限ったことではない。日頃から拝めるものなら何でも拝んで、少しでも運気を上げたいと思っているから。舞台俳優を推す身としては、チケット運をはじめとした運というのはかなり重要なのだ。
とはいえ今日は、推しの出る新作舞台の情報が解禁される日だったため、いつもより熱が入っていたことは否めない。
公演に先駆けて動画サービスでドラマが配信されることも決まっていて、盛り上がることが約束された作品だ。当然チケット争奪戦は厳しいものになることが想定できるから、通りすがりに見つけた小さな神社の神様にまで祈ったというわけだ。
でもまさか、神様(?)がついてきてしまうなんて思っていなかった。
「確かに手を合わせました。熱心だったことも認めます。でも、ついてきちゃったって……? あと、何で臣くんの姿してるんですか?」
混乱しつつも状況を把握しようと、鈴花は目の前の神に尋ねた。今のところ、勝手に部屋に侵入していることと宙に浮いていること以外に神っぽい要素はないことが気になる。推しの姿をしているのは大変ありがたいが。
「この姿はな、そなたから大量に流れ込んできた念を読み取ったものじゃ。高瀬臣という男、様々な格好をしておるが、そなたはこれが一等好きなのじゃろ? ほれほれ」
「ぐっ……!」
着流し姿の神様はその場でくるっと回ってみたり、うなじや首のラインを見せつけるように後ろで一本に結った髪をつまんで振ったりしている。
推しによく似た姿でそんなことをされ、鈴花の心臓はまた暴れだした。
「ええと、じゃあ、別の姿になることも……?」
「可能じゃ」
着流しスタイルが一番好きなのだが、劇中で帝国軍人のフリをしたときの軍服も捨てがたいなどと鈴花が考えると、目の前の神はたちまち軍服姿になった。
「#$%&*¥〜!!」
「何じゃ。心臓が止まりそうか」
胸を押さえて声にならない叫びをあげる鈴花を、神は面白がるように笑った。その笑みは高瀬臣がファンに向かってやるちょっぴり不敵でセクシーな笑みによく似ていて(というより本人の顔なのだが)、鈴花は思わず手を合わせて拝んだ。
そして、自然とそんな姿勢をとらされたことにハッとする。
「あ、あなたが神さまなのは、今のでわかりました。まさに神です。……でも、どうして私のところに?」
肝心のところがまだ何もわかっておらず、鈴花は再度尋ねた。目の前の存在が神なのはもう間違いないとして、なぜ鈴花の家にいるのかということが問題になってくる。
「ついてきた」と言っていたが、理由がなければそんなことはしないだろう。その理由が気になる。
「そなたの膨大な熱量に惹かれたのじゃ」
不思議そうにする鈴花に、神様は言った。
「膨大な、熱量……?」
「そなたの、高瀬臣を想う熱量じゃ。それはそれは凄まじい量で、眠っていたワシを起こすほどじゃった」
「そんなに!?」
寝ても覚めても推しである高瀬臣のことを考えて過ごしているが、その想いの強さが眠っている神様を起こしてしまうほどとは自覚がなかった。
「え、じゃあ、私の念がうるさくて起きちゃって、それで文句を言いに来たんですか?」
己の推しへの想いが他者の迷惑になったのかと焦ったが、そうではないらしく神は首を振る。
「起こしてくれてよかったのじゃ。何せワシは人から忘れられ、弱りきって、休眠しておったからな。そこへそなたが来て、熱心に『神様、神様』と呼びかけてくれて助かった」
「そ、そうなんですか……」
「それでな、ワシを起こすほどのものすごい熱量を利用できぬかと、ついてきたというわけじゃ」
「え」
何だかいい話風だったのに、最後のオチに拍子抜けした。忘れられた神様が久々に人に願われて素敵なお目覚めをした、という話ではないらしい。
「それは、つまりどういう……?」
「簡単に言えばな、ワシも〝推されたい〟」
「推されたい……?」
言われていることをまだ理解できない鈴花に対し、神は神妙な顔で祭壇を指差した。そこに何があるのだろうと目を凝らすが、見慣れた高瀬臣のグッズたちがあるだけだ。
「ほれ、〝推しを推す〟とは信仰のようなものじゃろ? そなたの念から読み取るに。この祭壇がそれの何よりの証じゃろうて」
「はぁ……」
何だか突然面倒くさいオタクみたいなことを言い出したなと思ったが、神の顔を見れば真剣なのがわかる。
「そなたのこの男へ向ける熱量は、人々が神へと向ける信仰心にも匹敵する。ということは、それを受ければワシもかつての力を取り戻せるということじゃ。てなわけで、この姿」
「はい?」
「今後そなたが高瀬臣を推す熱量は、ワシの力に変換される。どうじゃ? 名案じゃろ?」
「えー!?」
ようやく話が見えてきたが、それはそれで納得いかない気分になった。高瀬臣を推すことは鈴花のライフワークだが、それが見知らぬ神様を養うことになるのは何だか嫌だ。
「あの! 信仰とか間に合ってるんで! それこそ私には臣くんがいるし! 起こしちゃったのは申し訳ないんですけど、あなたのこと推すっていうのはちょっと……」
ここははっきり断らなければと、鈴花は勢いこんで言った。だが、神の姿を視界に入れるとダメだ。推しと同じ顔が眉根を寄せて悲しそうに見つめてくると、気持ちが揺らぎそうになる。
「ダメか? ワシ、せっかくこんなにかっこいい姿しとるのに」
鈴花の心を見抜いたようで、神は唇を尖らせて可愛い顔を作って言う。推しの可愛い顔に心動かされないわけがないのだが、流されるものかと鈴花は踏ん張る。信仰の自由は、守らなければならない。
「ダメなものはダメなんですよ。かっこいいのは臣くんで間に合ってます。それにうちは一人暮らし用の部屋だし、ペットだって禁止だし」
「ワシ、そなたのほかには見えん存在じゃし、いい子にするが」
「でも! 臣くんを推してあなたの力になるっていうのが、何か嫌なの……メリットないし」
「メリットならある!」
抵抗を続ける鈴花に、神はきっぱりと言い切った。先ほどまでの可愛らしい顔から打って変わって、凛々しい表情をしている。
それを見て鈴花は「顔がいい……」と拝みかけたが、すんでのところでこらえた。
「メリットなら、あるんじゃよ。そなたが高瀬臣を推すとワシも力を得る。ワシが力を得ることで――そなたの願いを叶えてやることができる」
「願いを……!」
実に神らしい神々しさを感じさせる表情と声で言われ、鈴花は思わず唾を飲み込んだ。
願いを叶えてくれるなんて、まさに夢のようだ。そのための神頼みなのだから。
だが、うまい話には裏があるのが世の常だ。チケットの当選などが叶えられない類の願いである可能性は十分にある。
「それって、どんな願いでも叶えられますか? たとえば、今からこのコンビニの唐揚げ引換券を当ててくれって言ったら、できる?」
信じるためにはまずは実証だと、鈴花はスマホを神に差し出した。その画面には、コンビニチェーンのキャンペーンツイートが表示されており、リツイートするとその場で引換券や割引券の当落が知らされるというものだ。
「たやすいことじゃ。ほれ、やってみよ」
「はい!」
自信たっぷりに神に言われ、鈴花はすかさず該当ツイートをリツイートした。するとすぐさま、返信がつく。そこには「おめでとうございます! 唐揚げ引換券プレゼントです!」とあった。
「す、すごい! じゃあ、これは?」
一度だけならまだ偶然の可能性も捨てられない。というわけで今度はカフェラテの割引券のキャンペーンを見せてみる。
それを見て神は「小さな欲じゃの」と言ってから頷き、鈴花はまたも当たりの返信をもらうことになった。
「……これは、信じるしかないかも」
その後いくつかのキャンペーンに挑戦してみたが、そのどれも当たったとなると、神の力を信じるしかなくなった。というよりも、信じてみてもいいかと思うくらいの恩恵は受けた。とりあえず、明日の昼食には困りそうにない。
それに、神は見れば見るほど高瀬臣で、推しが擬似的にでも目の前にいるのはいいものだと思わせられる。
つまり、拒む理由がなくなってしまった。
「ワシをここに置いてもいいと思ってくれるのなら、とりあえず名をくれんかの?」
鈴花の内心を察したのか、神がにっこりと甘い笑みを浮かべて言う。その顔は反則だと、鈴花はまた心臓を押さえた。
「……えっと、じゃあ、ジン様で」
いろいろ悩んで、鈴花は言った。本当はもっと神らしい名前とか難しい漢字をつけてみたかったが、そういうのはよくわからない。
だから、姿に相応しい名をつけた。
「うむ。その名、ちょうだいした。今日からワシは、そなたの神じゃ」
受け入れられたのが嬉しいのか、それとも名前をもらったのが嬉しかったのか、神は――ジン様は、満足そうに言った。
その部屋の隅を見つめて、加茂鈴花は絶句していた。
部屋の隅には、推し俳優・高瀬臣のブロマイドやポスター、アクリルスタンドなどのグッズが尋常ではない数並んだ一角がある。
この手のファンたちの間では通称〝祭壇〟と呼ばれる、推しのグッズを一堂に集めた飾りつけだ。
しかし、その祭壇を見つめる鈴花の表情は険しい。というよりも、困惑している。
そして、よく見れば視線は祭壇よりもやや上部の、天井付近に縫い止められている。
無理もない。そこには今、男が浮いているのだから。
「え……う、ウソ、えっ? ……臣くん……?」
部屋の宙に見知らぬ男が浮かんでいるという状況に叫びだそうか逃げ出そうか散々悩んで鈴花が発したのは、そんな間抜けな声だった。
だが、緊急事態におかしくなったとかではない。本当にそこに浮かんでいるのは、推しにそっくりの男だったのだ。
「いや、えー……ウソぉ」
入浴を済ませて寝室に戻ってきたら、祭壇近くに男が浮いていたという状況がやはり信じられず、しげしげと見てしまう。
立ったままうなだれるような姿勢で浮いているその姿は、紛れもなく高瀬臣だ。
「しかもこの髪色と衣装は、『帝都あやかし恋うた』の団三郎だよね」
白い髪をした男は、着物を崩して着流しスタイルにして身につけている。それは高瀬臣が『帝都あやかし恋うた』という演目でやった、狸のイケメン妖怪の姿だ。
鈴花の声に反応したのか、下から覗き込む視線を感じたからか、男が唐突にパッチリと目を開けた。
そして、鈴花を見下ろしてにっこりした。
「呼ばれて飛び出てここに見参! そなたの神様じゃ!」
「ぎゃーっ!!」
パチッとウインクとポーズまでつけて言われて、鈴花は叫んだ。
改めて部屋に不審者がいるという恐怖と、推し(?)から不意打ちのファンサを浴びせられての混乱による悲鳴だ。
安全な場所まで逃げなくてはという危機意識と、推しにすっぴんを見られたという羞恥心により、鈴花はズササササと後ろに下がって距離を取る。ゴキブリと対峙したときと同じくらいの俊敏さを発揮した。
「あ、あなた、だれ……?」
目の前の男がいくら推しにそっくりでも、推しではないことはわかっている。推しは浮かないし、こんな部屋にいるはずがない。いてたまるかという話だ。
となるとこの男は知らない男で、おまけに人間ですらないのかもしれない。
そう思うと、鈴花の足はまたじわりと部屋の出入り口へと向かう。
本当なら一目散に玄関へ走り、外へ出て助けを求める場面なのだろう。
だが、祭壇をはじめとした大切な推しグッズを残して逃げたくないという気持ちと、何より得体が知れなくても推しに似た男をもっと見たいという気持ちが、鈴花に逃げることをためらわせていた。
「誰って……つれないのぉ。神じゃ。そなたが先ほど手を合わせてくれた」
警戒心をあらわにする鈴花に、神を名乗る男は笑顔で言った。
「ひっ……!」
凛々しいツリ眉とその下で色気と甘さをだだ漏れにしているタレ目、スッと筋の通った鼻、口角がキュッと上がって可愛らしさを感じさせる唇――細部に至るまで高瀬臣そっくりの男を前に、鈴花は心臓がおかしな挙動をするのを感じて思わず胸を押さえた。
本物ではないとはいえ、推しの顔を近くで見続けるというのは体にあまりよくないことのようだ。
こんな近くに寄ったのは、写真集のお渡しイベントの握手のときくらいだろうか。そのときもあまりにも心臓がバクバクいいすぎて、たまらず「推しは体にいいはずなのにどうして……!」とツイッターで呟いた気がする。
「え……か、神様? 宗教の勧誘……?」
男は神と名乗ったが、当然だが神など見たことがない。だから、身近にある心配事として思い浮かんだのは宗教の勧誘だった。
駅前で金髪碧眼のイケメン外国人に声をかけられたと思ったら、宗教の勧誘だったという話を聞いたことがある。ということは、いきなり部屋に好みのイケメンが現れるなどという新手の勧誘なのかもしれない。
「勧誘せずとも、先ほどそなたが自らワシの祠に手を合わせたではないか」
「あ……」
宗教の勧誘を疑う鈴花に対して、男は乙女が恥じらうようにもじもじした。
祠という言葉を聞き、鈴花の脳裏には今日の帰り道に見つけた、小さな神社のようなもののことを思い出した。神社といっても鳥居はなく、小さなお社が残されるのみの寂れたものだ。
仕事帰りに偶然見つけて、何となく素通りするのも憚られて手を合わせたのだ。今日は、嬉しいお知らせがあって機嫌が良かったのもある。
「あんなに熱心に手を合わせられたのワシ、久しぶりで……その気になってついてきてしまったのじゃ」
「熱心にって……」
悪い男に唆された小娘のようなことを神に言われ、鈴花は言葉に詰まった。
熱心に手を合わせたのは間違いない。でもそれは今日に限ったことではない。日頃から拝めるものなら何でも拝んで、少しでも運気を上げたいと思っているから。舞台俳優を推す身としては、チケット運をはじめとした運というのはかなり重要なのだ。
とはいえ今日は、推しの出る新作舞台の情報が解禁される日だったため、いつもより熱が入っていたことは否めない。
公演に先駆けて動画サービスでドラマが配信されることも決まっていて、盛り上がることが約束された作品だ。当然チケット争奪戦は厳しいものになることが想定できるから、通りすがりに見つけた小さな神社の神様にまで祈ったというわけだ。
でもまさか、神様(?)がついてきてしまうなんて思っていなかった。
「確かに手を合わせました。熱心だったことも認めます。でも、ついてきちゃったって……? あと、何で臣くんの姿してるんですか?」
混乱しつつも状況を把握しようと、鈴花は目の前の神に尋ねた。今のところ、勝手に部屋に侵入していることと宙に浮いていること以外に神っぽい要素はないことが気になる。推しの姿をしているのは大変ありがたいが。
「この姿はな、そなたから大量に流れ込んできた念を読み取ったものじゃ。高瀬臣という男、様々な格好をしておるが、そなたはこれが一等好きなのじゃろ? ほれほれ」
「ぐっ……!」
着流し姿の神様はその場でくるっと回ってみたり、うなじや首のラインを見せつけるように後ろで一本に結った髪をつまんで振ったりしている。
推しによく似た姿でそんなことをされ、鈴花の心臓はまた暴れだした。
「ええと、じゃあ、別の姿になることも……?」
「可能じゃ」
着流しスタイルが一番好きなのだが、劇中で帝国軍人のフリをしたときの軍服も捨てがたいなどと鈴花が考えると、目の前の神はたちまち軍服姿になった。
「#$%&*¥〜!!」
「何じゃ。心臓が止まりそうか」
胸を押さえて声にならない叫びをあげる鈴花を、神は面白がるように笑った。その笑みは高瀬臣がファンに向かってやるちょっぴり不敵でセクシーな笑みによく似ていて(というより本人の顔なのだが)、鈴花は思わず手を合わせて拝んだ。
そして、自然とそんな姿勢をとらされたことにハッとする。
「あ、あなたが神さまなのは、今のでわかりました。まさに神です。……でも、どうして私のところに?」
肝心のところがまだ何もわかっておらず、鈴花は再度尋ねた。目の前の存在が神なのはもう間違いないとして、なぜ鈴花の家にいるのかということが問題になってくる。
「ついてきた」と言っていたが、理由がなければそんなことはしないだろう。その理由が気になる。
「そなたの膨大な熱量に惹かれたのじゃ」
不思議そうにする鈴花に、神様は言った。
「膨大な、熱量……?」
「そなたの、高瀬臣を想う熱量じゃ。それはそれは凄まじい量で、眠っていたワシを起こすほどじゃった」
「そんなに!?」
寝ても覚めても推しである高瀬臣のことを考えて過ごしているが、その想いの強さが眠っている神様を起こしてしまうほどとは自覚がなかった。
「え、じゃあ、私の念がうるさくて起きちゃって、それで文句を言いに来たんですか?」
己の推しへの想いが他者の迷惑になったのかと焦ったが、そうではないらしく神は首を振る。
「起こしてくれてよかったのじゃ。何せワシは人から忘れられ、弱りきって、休眠しておったからな。そこへそなたが来て、熱心に『神様、神様』と呼びかけてくれて助かった」
「そ、そうなんですか……」
「それでな、ワシを起こすほどのものすごい熱量を利用できぬかと、ついてきたというわけじゃ」
「え」
何だかいい話風だったのに、最後のオチに拍子抜けした。忘れられた神様が久々に人に願われて素敵なお目覚めをした、という話ではないらしい。
「それは、つまりどういう……?」
「簡単に言えばな、ワシも〝推されたい〟」
「推されたい……?」
言われていることをまだ理解できない鈴花に対し、神は神妙な顔で祭壇を指差した。そこに何があるのだろうと目を凝らすが、見慣れた高瀬臣のグッズたちがあるだけだ。
「ほれ、〝推しを推す〟とは信仰のようなものじゃろ? そなたの念から読み取るに。この祭壇がそれの何よりの証じゃろうて」
「はぁ……」
何だか突然面倒くさいオタクみたいなことを言い出したなと思ったが、神の顔を見れば真剣なのがわかる。
「そなたのこの男へ向ける熱量は、人々が神へと向ける信仰心にも匹敵する。ということは、それを受ければワシもかつての力を取り戻せるということじゃ。てなわけで、この姿」
「はい?」
「今後そなたが高瀬臣を推す熱量は、ワシの力に変換される。どうじゃ? 名案じゃろ?」
「えー!?」
ようやく話が見えてきたが、それはそれで納得いかない気分になった。高瀬臣を推すことは鈴花のライフワークだが、それが見知らぬ神様を養うことになるのは何だか嫌だ。
「あの! 信仰とか間に合ってるんで! それこそ私には臣くんがいるし! 起こしちゃったのは申し訳ないんですけど、あなたのこと推すっていうのはちょっと……」
ここははっきり断らなければと、鈴花は勢いこんで言った。だが、神の姿を視界に入れるとダメだ。推しと同じ顔が眉根を寄せて悲しそうに見つめてくると、気持ちが揺らぎそうになる。
「ダメか? ワシ、せっかくこんなにかっこいい姿しとるのに」
鈴花の心を見抜いたようで、神は唇を尖らせて可愛い顔を作って言う。推しの可愛い顔に心動かされないわけがないのだが、流されるものかと鈴花は踏ん張る。信仰の自由は、守らなければならない。
「ダメなものはダメなんですよ。かっこいいのは臣くんで間に合ってます。それにうちは一人暮らし用の部屋だし、ペットだって禁止だし」
「ワシ、そなたのほかには見えん存在じゃし、いい子にするが」
「でも! 臣くんを推してあなたの力になるっていうのが、何か嫌なの……メリットないし」
「メリットならある!」
抵抗を続ける鈴花に、神はきっぱりと言い切った。先ほどまでの可愛らしい顔から打って変わって、凛々しい表情をしている。
それを見て鈴花は「顔がいい……」と拝みかけたが、すんでのところでこらえた。
「メリットなら、あるんじゃよ。そなたが高瀬臣を推すとワシも力を得る。ワシが力を得ることで――そなたの願いを叶えてやることができる」
「願いを……!」
実に神らしい神々しさを感じさせる表情と声で言われ、鈴花は思わず唾を飲み込んだ。
願いを叶えてくれるなんて、まさに夢のようだ。そのための神頼みなのだから。
だが、うまい話には裏があるのが世の常だ。チケットの当選などが叶えられない類の願いである可能性は十分にある。
「それって、どんな願いでも叶えられますか? たとえば、今からこのコンビニの唐揚げ引換券を当ててくれって言ったら、できる?」
信じるためにはまずは実証だと、鈴花はスマホを神に差し出した。その画面には、コンビニチェーンのキャンペーンツイートが表示されており、リツイートするとその場で引換券や割引券の当落が知らされるというものだ。
「たやすいことじゃ。ほれ、やってみよ」
「はい!」
自信たっぷりに神に言われ、鈴花はすかさず該当ツイートをリツイートした。するとすぐさま、返信がつく。そこには「おめでとうございます! 唐揚げ引換券プレゼントです!」とあった。
「す、すごい! じゃあ、これは?」
一度だけならまだ偶然の可能性も捨てられない。というわけで今度はカフェラテの割引券のキャンペーンを見せてみる。
それを見て神は「小さな欲じゃの」と言ってから頷き、鈴花はまたも当たりの返信をもらうことになった。
「……これは、信じるしかないかも」
その後いくつかのキャンペーンに挑戦してみたが、そのどれも当たったとなると、神の力を信じるしかなくなった。というよりも、信じてみてもいいかと思うくらいの恩恵は受けた。とりあえず、明日の昼食には困りそうにない。
それに、神は見れば見るほど高瀬臣で、推しが擬似的にでも目の前にいるのはいいものだと思わせられる。
つまり、拒む理由がなくなってしまった。
「ワシをここに置いてもいいと思ってくれるのなら、とりあえず名をくれんかの?」
鈴花の内心を察したのか、神がにっこりと甘い笑みを浮かべて言う。その顔は反則だと、鈴花はまた心臓を押さえた。
「……えっと、じゃあ、ジン様で」
いろいろ悩んで、鈴花は言った。本当はもっと神らしい名前とか難しい漢字をつけてみたかったが、そういうのはよくわからない。
だから、姿に相応しい名をつけた。
「うむ。その名、ちょうだいした。今日からワシは、そなたの神じゃ」
受け入れられたのが嬉しいのか、それとも名前をもらったのが嬉しかったのか、神は――ジン様は、満足そうに言った。