*
大切なものは失ってから気付くものだと、誰かが言っていた。
「後悔する前に守りなさい」という意味で教えられたが、僕には「失って気付いたものが後悔」だと、後悔の在り方を示しているように思えてならない。
それはかさねも、木嶋先生も同じだ。死んで時間を止められたかさねと、時間の流れるままに進んでいく木嶋先生。二人を繋ぎとめられるものはなにもない。皮肉にも思い出の場所――待ち合わせにしていた駅のプラットホームで、後悔という絶望を味わった。
「……少し、長く話し込んでしまったね」
お茶を淹れよう、と先生は席を立った。急須にお湯を注ごうとすると、何か思い立って手を止めた。
「そういえば、君は熱いものは飲めるのかい? 猫舌を疑っているわけじゃないよ。ただ、その喉が心配なだけさ。……そうか。それなら麦茶にしよう。確か冷蔵庫にあったはずだ」
そう言って先生は冷蔵庫から未開封の麦茶のペットボトルを取り出す。紙コップに移した麦茶を僕の前に置くと、自分の分の煎茶を淹れて戻ってきた。
「さて、君が知りたかったことはこれでわかったかな?」
ええ、それはもう充分に。
僕がそう伝えると、先生は遠くを見つめて言った。
「この事故はたちまち大きなニュースになった。ホームに溢れた人の波に押し出され、まだ十代の女子高生が落されたのだと大きく掲げられた。世間は可哀想だと同情し、これをきっかけにマナー改善を呼びかける声が増えた。しかし、当時の私の耳に入ってきたのは、彼女に対するクレームばかりだ。……十八年経った今でもまだ、空耳みたいに聴こえてくるんだ。『誰かが落ちたから約束に遅れた』、『事故なんていい迷惑だ』と。終いには、自殺だったのではと噂を流す、非道な人間も出てきた」
人間という存在に失望したよ、と大きく肩を落とした。
「かさねは殺されたのも同然だ。ニュースでもそう取り上げるべきだった。何も知らない奴らが影で笑っている事実に、腸が煮えくり返るほど怒りが抑えられなかった」
当時はまだ、それほどネット環境が整っていなかった時代だ。日常化し始めている誹謗中傷は、ずっと前からこうやって続いている。今に始まった話ではない。公にならなかっただけ。
「それでも私が留まったのは、彼女の両親が止めたからだ。ここで世間に反論しても、かさねは帰ってこない。誰も得などしないのなら彼女のことを忘れて、その分生きてくれって泣きつかれたんだ。その言葉がどうしても忘れられなくて、駅で生徒を見かけると恐ろしいとすら思ってしまう」
先生は熱い煎茶にふう、と息を吹きかけてから一口飲む。一つ間を置いて続けた。
「……事故の後、駅のプラットホームにはホームドアが設置された。あんなことはもう二度と起きないだろうけど、君も気をつけるんだよ」
もう一度、湯気が立つ煎茶に息を吹きかけた。先生は猫舌だった。
大切なものは失ってから気付くものだと、誰かが言っていた。
「後悔する前に守りなさい」という意味で教えられたが、僕には「失って気付いたものが後悔」だと、後悔の在り方を示しているように思えてならない。
それはかさねも、木嶋先生も同じだ。死んで時間を止められたかさねと、時間の流れるままに進んでいく木嶋先生。二人を繋ぎとめられるものはなにもない。皮肉にも思い出の場所――待ち合わせにしていた駅のプラットホームで、後悔という絶望を味わった。
「……少し、長く話し込んでしまったね」
お茶を淹れよう、と先生は席を立った。急須にお湯を注ごうとすると、何か思い立って手を止めた。
「そういえば、君は熱いものは飲めるのかい? 猫舌を疑っているわけじゃないよ。ただ、その喉が心配なだけさ。……そうか。それなら麦茶にしよう。確か冷蔵庫にあったはずだ」
そう言って先生は冷蔵庫から未開封の麦茶のペットボトルを取り出す。紙コップに移した麦茶を僕の前に置くと、自分の分の煎茶を淹れて戻ってきた。
「さて、君が知りたかったことはこれでわかったかな?」
ええ、それはもう充分に。
僕がそう伝えると、先生は遠くを見つめて言った。
「この事故はたちまち大きなニュースになった。ホームに溢れた人の波に押し出され、まだ十代の女子高生が落されたのだと大きく掲げられた。世間は可哀想だと同情し、これをきっかけにマナー改善を呼びかける声が増えた。しかし、当時の私の耳に入ってきたのは、彼女に対するクレームばかりだ。……十八年経った今でもまだ、空耳みたいに聴こえてくるんだ。『誰かが落ちたから約束に遅れた』、『事故なんていい迷惑だ』と。終いには、自殺だったのではと噂を流す、非道な人間も出てきた」
人間という存在に失望したよ、と大きく肩を落とした。
「かさねは殺されたのも同然だ。ニュースでもそう取り上げるべきだった。何も知らない奴らが影で笑っている事実に、腸が煮えくり返るほど怒りが抑えられなかった」
当時はまだ、それほどネット環境が整っていなかった時代だ。日常化し始めている誹謗中傷は、ずっと前からこうやって続いている。今に始まった話ではない。公にならなかっただけ。
「それでも私が留まったのは、彼女の両親が止めたからだ。ここで世間に反論しても、かさねは帰ってこない。誰も得などしないのなら彼女のことを忘れて、その分生きてくれって泣きつかれたんだ。その言葉がどうしても忘れられなくて、駅で生徒を見かけると恐ろしいとすら思ってしまう」
先生は熱い煎茶にふう、と息を吹きかけてから一口飲む。一つ間を置いて続けた。
「……事故の後、駅のプラットホームにはホームドアが設置された。あんなことはもう二度と起きないだろうけど、君も気をつけるんだよ」
もう一度、湯気が立つ煎茶に息を吹きかけた。先生は猫舌だった。