声が出せない僕は、極力人を避けて今日まで生きてきた。
 そんな僕にひたすら声をかけてきたのは、かさねが初めてだった。何度聞こえないフリを続けても、ひたすら喋り続ける彼女の話に、いつの間にか意識を持っていかれてしまう。家でも学校でも、満足に会話ができない僕にとって、電車に乗っている十五分間がいつしか楽しみに変わっていった。

 しばらく一緒にいて、ふと彼女の浮かべる笑みがとても辛そうに映るようになった。僕に会う直前まで目元が赤くなっているのだって、ずっと前から気付いていた。それでも彼女は何事もなかったように目にゴミが入ったとごしごしと擦り、楽しそうに話を続けた。
 僕は追及することもしなかった。すぐにでも声をかけていたら、何か変わっていたかもしれない。

 先生と研究室で話をした時も、僕は何もわかっていなかった。目の前で大切な人が亡くなった光景を今一度思い出そうなんて、死者への冒涜(ぼうとく)だと叩かれても仕方がない。にも(かか)わらず、先生は僕の喉を気遣って冷たい麦茶を用意してくれた。

 気にかけてもらってばかりの僕が二人にできることは何か、よく考えたつもりだった。

 言葉だけなら代筆でなんとかできるかもしれない。かさねはともかく、先生はすぐに信じられないだろう。

 ならば、僕が二人を繋ぐフィルターになればいいと思った。

 幼い頃に喉を患い、声帯をすべて摘出したことで声を失った。その代わりに得たのは、幽霊が取り憑くと三十秒だけその人の姿を投影するだけでなく、声を発することができるという、原因不明の霊媒体質(・・・・)

 スマホで代筆してもコミュニケーションが難しい、普通の人との距離を置かれた僕ができる唯一の手段だ。

 実行すると決めたときに迷いはなかった。――はずなのに。

<これが最善だと確信していたのに、誰も報われない>

 先生が想い人本人だと理解した途端、かさねはこの再会を地獄みたいだと言っていた。辛く、苦しいと泣いていた。先生だって苦しそうだった。

 これが最善? ――そんなの、ただの僕の自己満足にしか過ぎない。

 僕はこれ以上、後悔に押し殺されて作った笑みを見たくなかった。

 二人に我慢しないで泣いてほしかった。

<あの日からずっと考えていました>
<僕が何もしなければ、かさねは消えなかったかもしれないって>

 どうして神様は、僕を生かすためにこんな体質を与えたのだろう。たとえ短命でも、声を奪われることなく死ねたなら、どれだけよかったことか。

「……声を失った代わりに得たその体質は、諸刃の剣そのものだ」

 読み終えた先生はスマホを下げさせると、僕の目を真っ直ぐ見て言う。

「三十秒しか会えない故人との再会は、互いに涙を流すだけで終わってしまうかもしれない。沢山伝えたいことがあるのに、もう二度と会えないのだとわかっているからこそ、人は見栄を張って安心させようとする。相手にこれからも笑っていてほしいと願うからだ。だからかさねは君の体質を借りて声を出し、私に伝えてくれたのだと思う。これが本当に最後になると、わかっていたからね」

 先生はいつもそうだ。ピントが合わなくて大きな字を読むの苦労しているはずなのに、僕の目だけは真っ直ぐ見てくれる。どれだけ後ろめたくても、向き合おうとしてくれるその目を逸らすことはできなかった。

「事故が起きた十八年前、私はかさねの後を追おうとしたことがある。故人に会う方法がこの世にないからだ。自分の残りの人生を捨てても、もう一度彼女に会いたかった。……でもね、死は恐ろしい。怖くて怖くて、ずっとここで地団駄踏んで、唐突に訪れる死を十八年も待ってしまった。……そんな時だ。君の体質は唐突に彼女を引き合わせた。仮説が正しければ、かさねが望んだことだったんだろう?」

 僕の霊媒体質は、自分の意思でできるものではなく、幽霊が自ら取り憑くことで初めて成立する。僕が受け入れようとしても幽霊自身が拒めば、声を出すことはできない。

「嬉しかったよ。再会できたことで私達の荷は軽くなったかもしれない。しかし、治りかけていた傷に塩を塗られたのも事実だ」

 本当は僕を責めたてたくて仕方がないかもしれない。それでも先生は僕を否定せず、投げる言葉一つひとつを選んでいく。

「決して間違っていたと批難するつもりはない。……きっとこれでよかったんだよ。これが私達が出した答えだ」

 ――『幸せでいてほしい』。

 生きていることどころか、死んだ後のことも含めてこの先の笑顔を二人は願った。

 本当は会いたかったはずだ。
 思い切り抱きしめたかったはずだ。
 好きだと言葉にできたら、どれほど報われただろう。

 それでも別の言葉を告げたのは、隣に自分がいられないとわかっているから。

 十八年も引きずった後悔よりも、この先の未来を恨む方がよっぽど辛かったんだ。

「あんな顔で言われてしまっては、私も残りの人生を生きるしかない。この先死んだ後でも、生まれ変わった未来でも、いつかまた出会える日だってくるはずだ。それが何十年、何百年経てお互いを忘れていたとしても、幸せでいてくれたならそれでいい」
「……っ」

 ああ、もどかしい。泣きたいのは先生のはずなのに、なぜか涙は僕の頬を伝う。

 先生は僕の背中をさすった。

「だから君が気にすることはない。君はその体質と共に生きていくために、多くの人と関わることで感じた心の痛みと向き合う必要があると知れただろう。――私達は、そのきっかけに過ぎなかっただけさ」

 きっかけだなんていわないで。

 軽い言葉で終わらせるようなものじゃないって、先生が一番よくわかってるはずだから。僕に同情して、また自分の感情を押し殺そうとしないで。

 伝えたくても、溢れてくる涙のせいでスマホが見えない。指は震えて動かせない。声に出せないもどかしさ、申し訳なさが込み上げてきてその場にしゃがみこむと、先生も屈んで背中を擦ってくれた。

 鞄と腕に挟み込むようにして持っていた本がコンクリートに落ちる。
 滅多に読まない恋愛小説は、お互いの幸せを願うために、嘘をついて別れた二人の話。風に吹かれて捲られた最後のページから、挟まっていた栞が飛び出した。夕日に照らされたネリネの花びらが色鮮やかに煌めいていたのを、僕らは知らない。

 ネリネの花言葉――「また会う日を楽しみに」


【 君に、僕の声をあげる 】 完