合間に左右のモニターを眺めてマロンケーキを食べた。監視カメラに映る従業員たちはみな神経質に働いていた。おそらく彼ら彼女らはそこに監視カメラがあることを知っているのだろう。
 店を訪れる客たちは対照的にリラックスしていた。無駄な動きのなんと多いことか。
 衣料品店を訪れた客は気軽に商品を手に取って広げ、ろくに畳みもせずにそれを戻した。ファミリーレストランのテーブルに座った学校帰りの女子生徒たちが、(聞こえはしないが、おそらく)大きな声で話をしている。やがて鞄から鏡やポーチを取り出し、塗り絵のような化粧を始める。コーヒーショップのカウンターには、年老いた男が一人、なにをするでもなく静かに座っていた。黒い液体の注がれたコーヒーカップを、まるで毎日一杯飲み干さなければならない苦い薬であるかのようにじっと見つめている。店主はなにをしているのか分からないが、だいたいモニターの外にいる。それはどこかの駅構内にある小ぢんまりした店らしく、背景に時折せわしない足取りの人々が映り込んだ。
 いくつもある映像区画に多くの人物が映っているとどうにも落ち着かないので、肘掛けのタッチパッドを操作して駐車場の映像を適当に選ぶ。すると左右のモニターは絵画のように動かなくなった。映像が止まっているんじゃないかと思うほど、それはぴくりとも動かなかった。
 なぜ人はこんな退屈な映像を撮るのだろう。そしてなぜ僕はそれを見ているのか。
 監視カメラの映像なんて、なにか事件があったときだけ見ればいいのだ。普段からチェックする必要なんてない。ドライブレコーダーと一緒で、交通事故が起きた場面だけ見ることができればそれでいいのだ。
 ……でも、と僕は考える。「誰かが毎日その映像をチェックしている」という事実が、経営者の安心に繋がるという部分はあるのかもしれない。あるいは、なにか事件が起こったとき、この塔に責任を転嫁できるとか。つまりは、「事件の早期発見のために契約しているというのに、今の今までこの事実に気付かなかったとは。きみたちはいったいなにを見ていたんだ!」というように。案外そういった、保険に似たシステムのビジネスが成り立っているのかもしれない。