少し冷えた風を頬に感じながら人力車で隅田川を渡り浅草に入ると、通りには船宿や料理屋が立ち並んでいる。

しかし、まだ薄暗い朝六時前では人影はない。

その間を颯爽と駆け抜けしばらく行くと、車夫がピタッと足を止めた。


「さぁ、降りなさい」


隣に座るニヤつく男に人力車から降りるように促される。

私、三谷(みつたに)郁子(いくこ)は、心臓がばくばくと大きな音を立て始めたのを知られまいと冷静を装って腰を上げた。

あまり目立たぬようにと纏ってきた柿渋染(かきしぶぞめ)の着物が薄暗い空に溶け込み、まるで私の閉ざされた未来を象徴しているかのようだ。

地に足をつけた瞬間、ゴーン、ゴーンという浅草(せんそう)寺の鐘の音が響き渡り、ビクッと震える。

大門(おおもん)の脇には女の出入りを監視する四郎兵衛(しろべえ)番所が見えるが、他は人気(ひとけ)がまったくなく静まり返っている。