「ほら……ね?」

 いつの間にか、缶ビールを飲み干していたトウコがやんわりと言い放った。

「在季は、彼女の気持ちと、あの頃の自分の気持ちを確かめたいと思ったのでしょう? 今日の女の子が余りに自分に似ていたから……」
「……浩介?」
「あの子、相当……ピアノ上手いんじゃないかしらね?」
「トウコさん、どういう意味なんですか?」
「沙夜子先輩は、高校の美術の先生よ。在季の絵の才能を最初に見出したのは、先輩だったの」
「浩介。…………一ノ清さんに、話したのですか?」
「別にいいじゃない。美聖ちゃんだって、今回みたいに、巻き込まれたあげく、何も知らないままじゃ、かわいそうでしょう?」
「いい歳したおっさんが、子供の頃の話を持ち出してくるなんて、気味悪くないですか?」

 呆れたように、溜息を吐く。

「一ノ清さん、君のお客様に対して、申し訳ないことをしてしまいましたが、本当に、今回は、ただの僕の気まぐれなんて、あんまり気にしないで下さい。……恥ずかしいですから」

 語尾の『恥ずかしい』の一言に、美聖はどきりとする。

(この人、分かっていて、やっているんじゃ……)

 そう問いたくなるほどに、全身で悶えたくなった。

「じゃあ、僕はこれから制作モードに入るんで。一ノ清さんも、暗くなってきましたし、早めに帰って下さいね」
「えっ……でも」
「それじゃあ」

 降沢は、そそくさと、トウコと美聖の間を抜けて店を後にしてしまった。
 どことなく、突き放すような言葉に、美聖は呆然と後ろ姿を見送ってしまう。
 背後のトウコが例によって、豪快に笑っていた。

「美聖ちゃんは、本当に可愛いわよね。そんなに分かりやすいと、私……ちょっと心配になっちゃうわ」
「トウコさん……。降沢さんは、従姉さんのことを思い出していたんでしょうか?」
「でしょうね。本人は、まだ認めたくないだろうけど。大きな子供で嫌になるわ……」
「トウコさん、私」

 美聖が振り返ると、トウコが大きく頷いた。

「美聖ちゃん、一つ頼まれてくれる?」
「はい。ぜひ!」
「キッチンの適当な物を見繕って、在季に、食料届けてあげて。今日、アイツ、あまり食べてないのよ」
「それは、体に悪いです」
「それと、お札……忘れずに持って行って頂戴」
「了解です!」

 お札は、トウコの知り合いが作成した魔除けだ。
 前回、美聖が怖い思いをしたことを、トウコなりに受け止めてくれたようで、知り合いに頼み込んで、作成してもらったらしい。
 本当は、この札が出来上がるのを待ってから、美聖を離れに行かせたかったそうだが、その告白自体、後の祭りな感じがしている。

「行ってきます!」 

 威勢よく返事をすると、美聖はキッチンから果物とシフォンケーキを急いでビニール袋にまとめて、降沢を追って離れに向かった。

「降沢さん!」

 離れの鍵を開けて室内に入ろうとしている降沢に、美聖は大きな声で呼び掛ける。
 長いスカートの裾が絡まって、速く走れない。
 そんな美聖を待っているだけなのも心配になったのだろう、降沢はぶつぶつ何事か呟きながら、美聖の方まで歩み寄ってきた。

「君は一体、何をしているんですか?」
「……見て分かりませんか。降沢さんを追って来たんですよ」
「どうして、また?」
「話の途中で、降沢さんが逃げるからです」
「逃げたわけじゃありませんよ。くだらない話を続けていても、不毛だと思っただけです。君が気にする内容でもなかったはずですし……」
「私にとっては、そんなことはありません」
「それは、好奇心から?」
「すっ、すいません。もちろん、それもあると思いますけど」
「君は変なところで、素直ですよね?」

 降沢は怒りもしない。
 むしろ、感心しているようだった。
 美聖は、それから……と前置きして、真っ直ぐ降沢を見据えた。

「そのバレッタは、高価なものではありませんけど、響子ちゃんが大切にしていたものですから……。ちゃんと見届けたいのです」
「もしかして、あんなに怖がっていたのに、また離れに、入るつもりだったんですか?」
「大丈夫です。お札も作ってもらいました!」
「そういう問題ではないですよね?」
「でも、降沢さん放っておくと、どうなるか分からないから、大丈夫かどうか、見届けたかったんです」
「見届ける……ね」

 そう呟いたきり、しばらく、黙り込んだ降沢は、額を押さえながら顔を上げた。

「………………でも、あんまり、ここにいると、君の帰宅時間が遅くなってしまいます」
「降沢さん……。貴方の気にするとこは、そこ……ですか? 私はすでに、二十六歳の成人女性ですけど」
「北鎌倉は、街灯が少ない所が多いので、女性一人で歩かせるのは心配なんですよ」
「それこそ、余計なお世話です」

 美聖は胸を叩いて、平然と言い放った。

「大丈夫ですよ。普段のバイトなんて、もっと夜遅くまでしているんですから……」
「えっ? 君は他にバイトをしているんですか?」
「知らなかったんですか? トウコさんは最初から知っていますけど?」

 もちろん、トウコには『アルカナ』でバイトする前から、伝えてある。

(……それにしたって、この人はオーナーって話なんじゃ)

『アルカナ』でアルバイトを始めて、三か月。
 降沢は、美聖のことをまったく知らないようだ。
 美聖も降沢から直接聞かれない限り、答えないので、きっと仕方ないことなのだけど、少しだけ降沢が美聖のことに興味を持っていないようで寂しい。

「さすがに、こちらと電話占いだけじゃ生きていけませんからね。近所のコンビニでバイトしていますよ。今日はオフですけど……」
「そうなんですか……」

 降沢は考え事をしているのだろう。上の空で答えた。

「分かりました。少しの間だけなら離れに入っても良いですよ。ただし、本格的に暗くなる前には出て下さいね。あと、ちょっとでも危ない気配を感じたら、出て下さいよ」

 降沢は、ポケットから鍵を取り出して、扉を開ける。
 例によって、絵の具特有の香りが美聖の鼻腔を擽った。