後部座席に座った石田は、口を固く結び、忌々し気な表情で正面を睨んでいた。たぶん、慧と同じ車に乗せてもらえなかったのが面白くないのだろう。
「遠藤の野郎、忠義面しやがって」
「遠藤さんって、いくつなの? 石田くんより上?」
「まあな、あいつは二年留年してっから、そのぶん歳もくってるさ」
「そうなんだ、ぁ。じゃあ、慧とも長いのかな?」
裕二がおずおずと訊ねると、石田は長かねえよと短く答えた。
「前から知り合いだったっつうけど、ここに来たのは俺のが先だ」
友人としては遠藤のほうが先に慧と知り合っていたが、あの廃ビルに住むようになったのは自分のほうが早い、だから歳は上でも、自分のほうが先輩になるんだと面白くなさそうに話す。
「そうか、じゃ、もしかして、石田くんが一番付き合い長いのかな?」
「おう、そうさ、まあ曽我部には負けるが、あいつは藤宮を裏切った、もううちの人間じゃねえ、だから俺が一番みたいなもんさ」
少し煽ててみると、石田は上機嫌になった。慧と近い関係にあると思われることが嬉しいらしい。自慢げに話す様子は紗枝にも似ている。
紗枝は自分が慧の恋人だと言った。事実はそうでないと誰にだってわかるのに、おそらく自分でもわかっているだろうに、それでもそうと言い張るほど、慧を愛してる。もしかしたら、石田も紗枝と同じなのかもしれない。
「んだよ、どうした?」
急に黙り込んだ裕二に、石田は怪訝な顔を上げる。そこで裕二も思い切って聞いてみた。なぜ、それほど慧に拘るのか、彼との出会いはどんなだったのか聞いてみたい。すると石田は、再び不機嫌そうな表情になり、どうでもいいだろと横を向いた。だが本当は誰かに話して自慢したかったのだろう、裕二がぜひ聞きたいだと話すと、ふんと鼻を鳴らし、話し出した。
「三年前だ、その頃俺はどうしようもねえカスで、毎日誰かを傷つけて遊んでばかりいたんだ」
その日も、学校をサボって、川原でバカ騒ぎをしてた。些細なことでムカムカして、おとなしそうな同級生を引き摺ってきて、仲間と袋叩きにして、そいつを川原に放り込んで、なんとなく憂さを晴らして帰るところだった。
滑りやすい赤土の土手を何度か転びかけながら上り、堤防道路に出ると、女がいた。それも二人。片方は花柄のフレアースカートを履いた清楚で暖かそうな優しい感じの女、もう一人は仕立ての良さそうなパンツスーツに身を包んだ、つんとすました冷たい感じの女だ。体つきは物凄く華奢で、いいとこのお嬢さんに見えた。二人共、種類は違えど、物凄い美女だ。
ついさっき、人ひとり袋叩きにしたばかり、誰もがまだ興奮覚めやらず、そこに現れた美女だ、石田を含む全員がすぐに野獣と化した。辺りには他に目立つ人影はなく、相手は女二人。力づくで引き摺っていって、どこか物陰で強姦しようと考えた。
だが、美女だと思ったその片方は、男だったのだ。
「それが慧?」
「ああそうだ」
石田は、悪びれる様子もなく、あいつは凄かったぞと話した。
最初、片方が男だとわかっても、それほど苦ではないと思った。なにしろ女と見紛うほどの器量よしで体つきも華奢というか、貧弱だ。多少歯向かったとしても、高が知れてる。男じゃセックスの相手にはならないが、これだけ器量がよければ、甚振ってみるのも面白いかもしれない。それに、心のどこかで、興奮がエスカレートすれば、男でも性的対象に出来ると考えていたかもしれない。
男たちは血走った目で、一斉に殴りかかって行く。自分らは五人、相手は一人。自分たちのほうが負けるとは微塵も考えていなかった。
だが……。
「あいつは鬼みてえに強くてな、あっという間に全員やられちまったのさ」
それまで何度も修羅場を潜った。喧嘩や抗争は日常だった。皆、腕には自信があった。石田も、当然自分の力を疑っていなかった。しかしその固定概念は、数分で奇麗に塗り替えられた。
慧は、相手の拳や蹴りが自分に届く前に、そいつの首根っ子を掴んで顔面に膝蹴りを入れ、背骨を圧し折る勢いで殴りつけた。上下から受けた強烈な衝撃で、身体が痺れ、痛みで声も出なくなる。自分はこのまま死ぬかもしれない、そんな恐怖に駆られ、相手になった男は殆ど一撃で戦意を喪失させられた。
「普通さ、戦うときは熱量が上がるんだ、喧嘩でもリンチでも、暴力は血を滾らせる、相手の熱が自分にも伝わってきて、熱くて堪んなくなんだ……けど、あいつは違ってた」
「違う?」
「ああ、あいつは、どこまでも冷たかった、まるで硬化硝子で出来たロボットみてえに、体温も感じなかった」
怒りは伝わってきた。顔色も表情も変えない慧の中から、強烈に根深い怒りだけが伝わってくる。だがその怒りに見合う熱さがまるでない。凍りつくように冷たい目をして、何の感情もない無機物のように、ただ素早く的確に、残酷に、相手を倒して行く。いくら腕に自信があっても、こんな怪物とは戦えない。石田は戦う前から、負けを感じた。
ここから逃げなければ、今すぐ逃げ出さなければ命はない。そんな恐怖に駆られながらも、なぜか足は動かなかった。ただ呆然とやられる仲間たちを見つめ……いや、仲間たちを倒していく華のような鬼の姿に見惚れていた。
「綺麗だったよ、あいつ……天女みてえに、寒気がするほど綺麗で、可憐な鬼だった」
うっとりとそう呟いた石田は、暫くそのまま黙り込み、なにも言わなくなった。おそらく、彼の中に今だ棲みつく、その華鬼の姿を、見つめているのだろう。
それを見ることの出来た石田を、裕二は羨ましいと思った。自分も見たかった。たとえその場で殺されるとしても、その姿を見てから死ぬなら、それこそ本望とさえ思えた。
たぶん、石田も同じ気持ちだったのだろう。かなり長い沈黙のあと、少し濡れた小さな声で慧の名を呼んだ。
その思いは、すでに恋なのかもしれない。生々しく伝わってくる石田の感情に、裕二も自然と赤面した。知っている人間同士の性の話を又聞きしてしまったような気まずさで落ち着けない。
「……で?」
背中が疼くような淫靡な切なさに迫られ、裕二はわざとらしく咳払いをし、話はそれだけかと促した。すると石田は、ハッとしたように口ごもり、その後日談を話した。
それから二週間後、慧に叩きのめされ、全治一ヶ月の怪我で入院していた石田の元に、当の慧が見舞いに来た。そのとき一緒にいた女、結衣子と、もう一人、やたら体格のいい男、曽我部を連れ、病室まで来たらしい。
「悪かった、ついカッとして、やり過ぎた、すまない」
真摯に頭を下げる慧を見て、石田はさらに仰天した。あの日の鬼はどこに行ったのか、そこには可憐で可愛らしい、少女のような少年がいた。
付き添いの男は同級生という話だったが、体格が違いすぎて、ウサギと熊のようだ。隣にいる結衣子さえ、霞んで見えるほど、慧が美しく見えた。
「……それで?」
「それだけだよ、他にはなにもねえ」
無事退院後、その美貌と不遜な態度で、なにかとトラブルを起こしやすかった慧について回るようになり、慧が独立してあのビルに住まうようになってからは、自分も一緒に住むようになった。
なんとか曽我部を出し抜きたくて、誰よりも慧の近くにいたくて、慧の片腕として、今日まで生きてきた。慧が父親に束縛されていることも、それを嫌い、家を出ていることも聞きだした。
慧を護り、彼の思うように生きさせてやることが、自分の使命、望みなのだと石田は話す。
「あいつ、ちょっとおかしなとこ、あんだろ?」
「おかしなとこ?」
「ああ、妙に大人しくて優しい感じのときと、風が吹いただけでも殴りかかって来そうに殺気立ってるときと、ふり幅がデカ過ぎんだよ、つうか、顔つきまで違って見えるし」
「ああ、そうだね……」
「だからさ、誰かがついててやんなきゃなんねえんだよ」
「うん」
その誰かに、自分はなるのだと石田は話す。それが彼の行動原理なのだろうと、裕二も納得した。
慧の不安定さは、裕二もずっと感じていた。屋上で初めて会ったときの慧と、ここでの慧は別人のようだ。紗枝の話を聞いてますます混乱した。自分の中にある慧のイメージと、現実の彼が一致しない。それがなぜなのか知るためにも、これから起こることをしっかり見なければならないと思った。
「遠藤の野郎、忠義面しやがって」
「遠藤さんって、いくつなの? 石田くんより上?」
「まあな、あいつは二年留年してっから、そのぶん歳もくってるさ」
「そうなんだ、ぁ。じゃあ、慧とも長いのかな?」
裕二がおずおずと訊ねると、石田は長かねえよと短く答えた。
「前から知り合いだったっつうけど、ここに来たのは俺のが先だ」
友人としては遠藤のほうが先に慧と知り合っていたが、あの廃ビルに住むようになったのは自分のほうが早い、だから歳は上でも、自分のほうが先輩になるんだと面白くなさそうに話す。
「そうか、じゃ、もしかして、石田くんが一番付き合い長いのかな?」
「おう、そうさ、まあ曽我部には負けるが、あいつは藤宮を裏切った、もううちの人間じゃねえ、だから俺が一番みたいなもんさ」
少し煽ててみると、石田は上機嫌になった。慧と近い関係にあると思われることが嬉しいらしい。自慢げに話す様子は紗枝にも似ている。
紗枝は自分が慧の恋人だと言った。事実はそうでないと誰にだってわかるのに、おそらく自分でもわかっているだろうに、それでもそうと言い張るほど、慧を愛してる。もしかしたら、石田も紗枝と同じなのかもしれない。
「んだよ、どうした?」
急に黙り込んだ裕二に、石田は怪訝な顔を上げる。そこで裕二も思い切って聞いてみた。なぜ、それほど慧に拘るのか、彼との出会いはどんなだったのか聞いてみたい。すると石田は、再び不機嫌そうな表情になり、どうでもいいだろと横を向いた。だが本当は誰かに話して自慢したかったのだろう、裕二がぜひ聞きたいだと話すと、ふんと鼻を鳴らし、話し出した。
「三年前だ、その頃俺はどうしようもねえカスで、毎日誰かを傷つけて遊んでばかりいたんだ」
その日も、学校をサボって、川原でバカ騒ぎをしてた。些細なことでムカムカして、おとなしそうな同級生を引き摺ってきて、仲間と袋叩きにして、そいつを川原に放り込んで、なんとなく憂さを晴らして帰るところだった。
滑りやすい赤土の土手を何度か転びかけながら上り、堤防道路に出ると、女がいた。それも二人。片方は花柄のフレアースカートを履いた清楚で暖かそうな優しい感じの女、もう一人は仕立ての良さそうなパンツスーツに身を包んだ、つんとすました冷たい感じの女だ。体つきは物凄く華奢で、いいとこのお嬢さんに見えた。二人共、種類は違えど、物凄い美女だ。
ついさっき、人ひとり袋叩きにしたばかり、誰もがまだ興奮覚めやらず、そこに現れた美女だ、石田を含む全員がすぐに野獣と化した。辺りには他に目立つ人影はなく、相手は女二人。力づくで引き摺っていって、どこか物陰で強姦しようと考えた。
だが、美女だと思ったその片方は、男だったのだ。
「それが慧?」
「ああそうだ」
石田は、悪びれる様子もなく、あいつは凄かったぞと話した。
最初、片方が男だとわかっても、それほど苦ではないと思った。なにしろ女と見紛うほどの器量よしで体つきも華奢というか、貧弱だ。多少歯向かったとしても、高が知れてる。男じゃセックスの相手にはならないが、これだけ器量がよければ、甚振ってみるのも面白いかもしれない。それに、心のどこかで、興奮がエスカレートすれば、男でも性的対象に出来ると考えていたかもしれない。
男たちは血走った目で、一斉に殴りかかって行く。自分らは五人、相手は一人。自分たちのほうが負けるとは微塵も考えていなかった。
だが……。
「あいつは鬼みてえに強くてな、あっという間に全員やられちまったのさ」
それまで何度も修羅場を潜った。喧嘩や抗争は日常だった。皆、腕には自信があった。石田も、当然自分の力を疑っていなかった。しかしその固定概念は、数分で奇麗に塗り替えられた。
慧は、相手の拳や蹴りが自分に届く前に、そいつの首根っ子を掴んで顔面に膝蹴りを入れ、背骨を圧し折る勢いで殴りつけた。上下から受けた強烈な衝撃で、身体が痺れ、痛みで声も出なくなる。自分はこのまま死ぬかもしれない、そんな恐怖に駆られ、相手になった男は殆ど一撃で戦意を喪失させられた。
「普通さ、戦うときは熱量が上がるんだ、喧嘩でもリンチでも、暴力は血を滾らせる、相手の熱が自分にも伝わってきて、熱くて堪んなくなんだ……けど、あいつは違ってた」
「違う?」
「ああ、あいつは、どこまでも冷たかった、まるで硬化硝子で出来たロボットみてえに、体温も感じなかった」
怒りは伝わってきた。顔色も表情も変えない慧の中から、強烈に根深い怒りだけが伝わってくる。だがその怒りに見合う熱さがまるでない。凍りつくように冷たい目をして、何の感情もない無機物のように、ただ素早く的確に、残酷に、相手を倒して行く。いくら腕に自信があっても、こんな怪物とは戦えない。石田は戦う前から、負けを感じた。
ここから逃げなければ、今すぐ逃げ出さなければ命はない。そんな恐怖に駆られながらも、なぜか足は動かなかった。ただ呆然とやられる仲間たちを見つめ……いや、仲間たちを倒していく華のような鬼の姿に見惚れていた。
「綺麗だったよ、あいつ……天女みてえに、寒気がするほど綺麗で、可憐な鬼だった」
うっとりとそう呟いた石田は、暫くそのまま黙り込み、なにも言わなくなった。おそらく、彼の中に今だ棲みつく、その華鬼の姿を、見つめているのだろう。
それを見ることの出来た石田を、裕二は羨ましいと思った。自分も見たかった。たとえその場で殺されるとしても、その姿を見てから死ぬなら、それこそ本望とさえ思えた。
たぶん、石田も同じ気持ちだったのだろう。かなり長い沈黙のあと、少し濡れた小さな声で慧の名を呼んだ。
その思いは、すでに恋なのかもしれない。生々しく伝わってくる石田の感情に、裕二も自然と赤面した。知っている人間同士の性の話を又聞きしてしまったような気まずさで落ち着けない。
「……で?」
背中が疼くような淫靡な切なさに迫られ、裕二はわざとらしく咳払いをし、話はそれだけかと促した。すると石田は、ハッとしたように口ごもり、その後日談を話した。
それから二週間後、慧に叩きのめされ、全治一ヶ月の怪我で入院していた石田の元に、当の慧が見舞いに来た。そのとき一緒にいた女、結衣子と、もう一人、やたら体格のいい男、曽我部を連れ、病室まで来たらしい。
「悪かった、ついカッとして、やり過ぎた、すまない」
真摯に頭を下げる慧を見て、石田はさらに仰天した。あの日の鬼はどこに行ったのか、そこには可憐で可愛らしい、少女のような少年がいた。
付き添いの男は同級生という話だったが、体格が違いすぎて、ウサギと熊のようだ。隣にいる結衣子さえ、霞んで見えるほど、慧が美しく見えた。
「……それで?」
「それだけだよ、他にはなにもねえ」
無事退院後、その美貌と不遜な態度で、なにかとトラブルを起こしやすかった慧について回るようになり、慧が独立してあのビルに住まうようになってからは、自分も一緒に住むようになった。
なんとか曽我部を出し抜きたくて、誰よりも慧の近くにいたくて、慧の片腕として、今日まで生きてきた。慧が父親に束縛されていることも、それを嫌い、家を出ていることも聞きだした。
慧を護り、彼の思うように生きさせてやることが、自分の使命、望みなのだと石田は話す。
「あいつ、ちょっとおかしなとこ、あんだろ?」
「おかしなとこ?」
「ああ、妙に大人しくて優しい感じのときと、風が吹いただけでも殴りかかって来そうに殺気立ってるときと、ふり幅がデカ過ぎんだよ、つうか、顔つきまで違って見えるし」
「ああ、そうだね……」
「だからさ、誰かがついててやんなきゃなんねえんだよ」
「うん」
その誰かに、自分はなるのだと石田は話す。それが彼の行動原理なのだろうと、裕二も納得した。
慧の不安定さは、裕二もずっと感じていた。屋上で初めて会ったときの慧と、ここでの慧は別人のようだ。紗枝の話を聞いてますます混乱した。自分の中にある慧のイメージと、現実の彼が一致しない。それがなぜなのか知るためにも、これから起こることをしっかり見なければならないと思った。