紗枝を帰して一人で眠った翌朝、部屋から出ると、同じく丁度部屋から出て来た結衣子とかち合った。
 結衣子は、いい所のお嬢さんのように、キッチリとした清楚なブラウス姿で、髪も綺麗に結い上げてある。埃の舞う薄汚れた廃ビルの一角には似つかわしくない、涼しく清らかな佇まいだ。

「あ……」
 裕二と目が合った途端、彼女は気まずそうに視線を下げた。朝方に男の部屋から出てくるところを見られたくなかったのだろうと察し、裕二は何気ないふりで声をかける。
「おはよう結衣子さん、どちらかにお出かけですか?」
「あ、はい……仕事に」
「仕事? なにをなさってるんです?」
「近所のデパートで、ベーカリーショップの店員です」
「パン屋さん? じゃあ朝も早いんですね、たいへんだ」
「いえ、私は売り子ですから、そんなに早くないです」
 いちいち律儀に答えるところが娘らしくて可愛い。昨日話した紗枝とはずいぶんな違いだ。見かけや態度でその人間の全てが決まるわけではないが、やはり女性は結衣子のように清楚で可愛らしくあったほうが好ましい。慧も、結衣子のそういう部分が好きなんだろうなと、裕二は一人で納得した。
「あの……慧、は?」
「まだ寝てます、あの人、朝方までよく眠れてなかったから、起こさないでやってくださいね」
「慧、寝てないんですか?」
「はい、うつらうつらはするんですけど、すぐ魘されて、たぶんほとんど……」
 結衣子は眉を顰め、心配そうに小声で話した。だがそれを知っているということは、結衣子も寝ていなかったということになる。そこを指摘すると、結衣子は小さく微笑んだ。
「私はこれでも結構丈夫にできてるんです、それに家に帰れば眠れます、一晩や二晩、起きててもなんてことないわ」
 細くて華奢な印象の結衣子は、頑丈というイメージではないが、まあたしかに病弱には見えない。裕二は、家に帰れば眠れるという結衣子に、じゃあ帰ったらちゃんと休んでくださいねと笑いかけてから、慧の眠る部屋のドアを見つめた。
 結衣子は家に帰ればと言った。つまり彼女には、ここではないちゃんとした家があり、いつもはそこに帰っているということだ。それが当たり前だが少しホッとした。
 彼女にこんな汚い廃ビル住まいは似合わない。そう思いながら、結衣子の出てきた部屋を見た。なにが彼の眠りを妨げるのか、彼の、死をも呼び寄せる絶望とはなんなのか、それを知りたい。そして助けたい。底知れぬ絶望の淵から救いたい。
 心もとない決心を胸に、慧の部屋を見つめる。
 と、そのとき、慧の部屋で微かに携帯の鳴る音がした。その音で起きたのだろう慧が出たらしい。

──さかき!

 人の名前か、物やプロジェクトの名か、「さかき」という単語が聞こえた。それはたぶん、必要以上に大きな声だったからだろう。後の声はぼそぼそしていてよく聞き取れない。
 裕二は、もっとよく聞こえるようにと扉に近づき、耳を押し付けるようにして聞いた。どうも慧は誰かに無茶を言われて困惑しているようだ。

──そんなのこっちには関係ない、勝手なことを言うな。
──だからって! 早すぎるだろ、無茶だ!
──冗談じゃない!

 途切れ途切れに聞える声は切羽詰り、焦りに満ちていた。かなりの難題らしい。
 なんの話をしているのだろう?
 もっとよく聞きたいと、さらに聞き耳を立てようとしたときだった。背後で苛々と殺気だった声がした。

「おい、貴様、なにやってやがる!」
「え?」
 ドキリとして振り向くと、いきなり胸座を掴まれ殴られた。殴りかかって来た相手が誰なのか、確かめることも出来ないほどしたたか殴られ、床に投げ捨てられた裕二は、ぼんやりした意識で視線だけを相手に向ける。
 殴りかかって来たのは石田だ。石田は裕二が自分を見ていることに気づいて、さらにその腹を蹴った。
「こそこそ嗅ぎ回ってんじゃねえよ、この犬が!」
 石田は、何度も蹴りを入れ、それでも気が済まないのか、さらに蹴りつけようとした。だがそこで背後のドアが開き、動きを止める。出て来たのは慧だ。
 慧は床に倒れている裕二と、その傍に立つ石田を交互に見てから、裕二の足元へしゃがみこむ。
「どうした? 床で寝るのが趣味か?」
「違……」
 慌てて答えかけたとき、その背後にいる石田の顔が見えた。なにかに怯えたように、喋るなと睨んでいた。裕二も思わず口を噤む。
 その視線に気づいた慧は、ゆっくりと背後の石田へ振り返った。目が合った瞬間、石田は悪事を見抜かれた子供のように固く口を結び、決まり悪く横を向く。慧はその視線の先へ回り込んだ。
「石田、お前はそこでなにしてたんだ?」
「別に、通りかかっただけだろ」
「通りかかった……へえ? どこへ行く気だと、ここに通りかかれるんだ?」
 慧の部屋は、フロアの一番奥にあり、そこから先へはどこにも通じていない。つまりそこにいるということは、その部屋に用か、その部屋から出てきたかの二つしかない。裕二の場合は、慧が気になって、自分からこのフロアに足を運んだ。そこでたまたま部屋から出て来た結衣子と顔を合わせてしまい、話し込んだわけだ。
 だがでは、石田はどうだったのだろう?
 このフロアには、慧の部屋と、事務所らしき部屋があるだけだ。そこに用だったとか、そこにいたとかいうわけでもなければ、そう都合よく同じフロアに現れない。もしくは見張っていた……ということになる。それを察してか、慧は睨みを利かせて問い詰める。
 途端に、石田は視線を逸らした。
「事務所にいたんだよ」
「ふぅん……ずいぶん仕事熱心だな、石田?」
「別に……寝てただけだって」
「事務所で?」
「どうでもいいだろ!」
「どうでもいい?」
 石田の苦し紛れの揚げ足を取るように、慧は胸座をつかみあげ、睨んだ。気迫負けした石田は視線を下げる。そこへすかさず慧の右拳が飛んだ。それほど力の入った一撃ではないが、拳は重そうだ。殴られた石田も半歩下がる。
「舐めてんのか?」
 赤く光る目をして、慧が凄む。
「別に……」
 石田は視線を逸らせたまま、誤魔化そうとしていた。だが慧はそれを許さない。勝手なことをするなと怒鳴った。
「お前は俺の命令に従ってればいんだ、裕二に手を出すな」
 怒鳴られた石田はさすがに頭にきたらしい、負けずに睨み返し、怒鳴り返す。
「舐められてんのはどっちだよ! こいつはさっき結衣子となんか話してやがったんだ、その上、こそこそ聞き耳立ててドアに張り付いて、なにか探りに来てんに決まってんだろ!」
 怒鳴り返す石田の目は真剣そのもので、本気で慧の身を案じているようだ。その声に負けたのか、慧も勢いを落として黙り込む。

 二人の関係はとても奇妙だ。一見、慧が全権を握る支配者のようだが、石田はそれを恐れていない。どちらかと言えば、石田が恐れているのは慧が堪えられるのかどうかのように思えた。
 なにに堪えられるかと心配しているのかは、わからないが、慧にもその思いは通じるのだろう、暫く黙り込んだあと、石田を離した。そして裕二に振り返る。
「結衣子が気になるか?」
「そうじゃなくて、僕はキミのことが……」
 慧が訊ねるので、裕二は慌ててそうではないと答えた。結衣子のことも気にはなるが、それより気になっているのは慧のことだ。慧をもっと知りたいと話す。すると慧は真顔で裕二を見返し、顎をしゃくった。
「知りたいならついて来いよ、見せてやる……そのかわり、口出しは無用だぜ」
「え……?」
「おい! こいつを連れて行く気か、藤宮!」
 そのままフロアを出て行く慧を、裕二は小走り追いかけた。石田も慌ててその後を追う。

 ちょっと待ってろと言って着替えを済ませた慧は、安っぽく派手なシングルのスーツを着て、ビルの外へ出た。その後にはいつの間に従ってきたのか、人相の悪い男たちが数名いる。その先頭にいた遠藤がベンツのドアを開け、慧はそれに乗り込んだ。運転は遠藤のようだ。
 石田がそれに続こうとすると、慧はそれを制し、お前は後ろに乗れともう一台のセダンを指さす。一瞬不満そうな顔をした石田は、唇を噛みしめながら後方へ向かった。裕二も石田と共に後続の車へ乗り込み、出発する。