三人を乗せたベンツは、その街の外れにある、さほど大きくない、四階建ての古びたビルに横付けされた。廃ビルを勝手に使っているのか、それとも慧の持ち物なのか、どうやらそこが彼の棲家らしい。
中に入るとロビーは閑散としていて、飾り気が何もない。エレベータは故障したままのようで、開口部には剥がれかけたクラフトテープがバツ印型に貼り付けてある。慧はエレベータの前を通り過ぎ、階段を上っていく。さきほど迎えに来ていた男がすぐ後に続いた。
慧が歳相応に華奢なので、後ろの男がひどく大柄に見える。性質の悪いヤクザと、攫われて来た被害少年といった風情だ。
しかし、四階まで上り詰めた慧は、裕二のそんな妄想をぶち壊すように、正面入り口のドアを足で蹴って開けた。
そのドアはたぶん、いつもそうして開けられるのだろう、元々白かったのだろう合板は泥で汚れ、所々へこんで塗装が剥げていた。
「おかえりなさいまし」
慧が部屋に入ると同時に、室内のあちこちから声がかかる。迎えに来た男はいかにも、といった大柄なヤクザ風の男だったが、部屋の中で慧を待っていたのは、どう見ても十代、いっても三十代半ばあたりと思われる若い男ばかりだった。部屋へ入るなり、あからさまにムッとした顔をした慧は、酷く不機嫌そうに、部屋の一番奥にある大きな椅子へ腰掛ける。
「澤田《さわだ》! 曽我部《そがべ》は見つけたのか?」
「いえ、すいません、それがまだ」
澤田がまだだと答えると、慧は眉尻を動かし、不愉快そうな表情で立ち上がった。慧が立ち上がった途端、澤田はビクリと震える。回りにいる男たちがそれ以上動くなという視線で澤田を睨み、無言の圧力の中、動けなくなった澤田に、慧の蹴りが入った。
蹴りは腹の真ん中へ入り、澤田は大きく体制を崩したが、倒れなかった。それが気に食わなかったのか、慧はムッとした表情になり、続けざまに蹴りつける。
何度目かの蹴りで床に倒れこんだ澤田を、慧はさらに蹴りつけた。何度蹴られても殴られても、澤田は呻き声をあげるだけで、言い訳一つもせず、やめてくれとも言わない。
蹲ったまま、逃げることをしない澤田の顔面から血が流れ出し、そのまま彼が蹴り殺されるのではないかと思えて怖くなった。だが血塗れの澤田が気を失う寸前、後ろに控えていた体格のいい男がそれをとめる。
「藤宮《ふじみや》、もうそこらにしとけよ」
「……石田《いしだ》」
石田と呼ばれた男は慧の肩を掴み、わざわざ身を屈めて話した。その仕草は癇癪を起こす子供を宥めようとする父親のようだ。
「澤田も反省してんさ、な?」
だがおそらく、その言い方が気に障ったのだろう、慧は振り向きざま、石田に膝蹴りを入れ、よろめいたところをさらに殴りつける。鈍い音がして石田も膝を折った。
「俺に指図するな!」
蹲る石田に、慧は小さく吐き捨てた。だが石田もそこで引っ込まない。殴られた頬を手の甲で拭いながら立ち上がり、再び慧に迫る。
「藤宮!」
「なんだ? 死にたいのか、猪野郎」
石田の態度はなんとなく、目上の者が目下の者を諭そうとしているようで、少し高圧的だ。だが慧のほうも引っ込まない。石田の胸座を掴み、血走った目で怒鳴り返す。
ひたいをこすり付けるように睨み合った二人は、それから暫く動かなくなった。お互いの出方を見るように、腹を探り合うように、ただ握った拳に力を込める。
見ている裕二のほうが緊張する。たぶん他の者も同じ思いなのだろう、部屋にいる誰一人、口を挟もうとはしなかった。
殴り合うのか、殺し合うのか……そう見えた緊張は、だが緩やかに解けた。慧が拳を離し、視線を下げたのだ。
「離せ」
「はいよ」
憑き物が落ちたように小さな声で離せと呟く慧を見て、石田もほっとしたようにその手を離した。慧は決まり悪そうに視線を逸らし、大きな椅子の上にドッカリと腰を下ろす。
肘掛に腕を預け、落ちかかる前髪越しに澤田を睨んだ慧は、冷静になれと自分に言い聞かせるように声を抑えて話した。
「澤田」
「はい……」
「もう一度チャンスをやる、曽我部を探し出せ」
「はい」
先ほどからすれば、ずいぶん穏やかになった慧の表情を見て、澤田もホッとした表情で答える。その場にいた一同も同じように感じたのかもしれない、あたりを覆う空気は、少しだけ軽くなった。
「待って慧、探し出してどうする気?」
だが、裕二の横にいた結衣子の言葉が、再び場を凍らせる。慧は不愉快そうに眉を寄せ、指先を齧りながら、ジロリと結衣子を見た。
触ってはいけない部分に触った。そんな感じで、その場にいた男たちがざわめく。慧はその空気を敏感に感じ取り、さらに不愉快そうな顔で立ち上がった。
両手を革のズボンのポケットに突っ込んで歩く姿は、最初に屋上で見た少年のイメージとはかけ離れ、ひどく殺伐としている。
「さあ……どうするかな? どうするのが一番堪えると思う?」
結衣子の目前で身を屈め、顔を覗き込みながら訊ねる慧の目は、赤く光っていた。
「あいつがなにをしたか、わかってんだろ? そのせいで俺たちがどれだけ困ってると思う? 八つ裂きくらいじゃ済ませられない、そうだろ?」
慧の瞳は鈍く光り、白くあるべき部分は赤く染まって見える。まるで血の涙を流しているようだ。一見強い立場にいるように見える慧が、なぜだかその部屋の中で一番弱い人間に思えた。
「辰寛《たつひろ》がそんなことするわけないわ、何かの間違いよ」
慧の立場が弱いと、わかっているかのように、結衣子は強い口調で言い返した。それはもしかしたら図星なのかもしれない。慧は哀しげに眉を顰める。
だが口から出た言葉は、哀しげな表情とは裏腹に冷たい。
「あそこには俺と曽我部としかいなかった、曽我部がやったんじゃないなら、やったのは俺ってことになるな?」
嘯く慧に、結衣子は答えない。それを見てイラついたのか、慧はさらに凶暴になった瞳で結衣子を睨んだ。
「まさか俺がやったとでも? お前は俺が嘘をついてると言いたいのか?」
「そうは言ってないわ」
「言ったと同じだろ!」
慧は笑っていた。それは皮肉に塗れ、卑屈になった哀しい顔だ。結衣子よりも背が高い慧が、とても小さく哀れに見えた。
だが次の瞬間、瞳を赤く光らせた慧は、思い切り振り上げた右手で結衣子の頬を打った。バシンと物凄い音がして、結衣子は床の上に薙ぎ倒される。
打ったのは平手だし、多少は加減もしているのだろうが、打たれた結衣子の頬は赤く腫れ、唇の端が切れていた。
裕二の認識では、女性は護られて当然であり、女性を殴って平気でいる男なんて男じゃない。
もちろん人間なら、つい手が出ることもあるだろう。しかしそれでも、何かしらの罪悪感は持つはずだ。謝罪は当然だと思っていた。
だが慧に、彼女に謝ろうという意思は見えない。それどころか、震える結衣子を無理矢理立ち上がらせ、今度は反対の頬を打った。腕を掴まれているので、今度は結衣子も倒れられない。殴られ、腫れぼったくなった目で慧を見ていた。
哀れな結衣子を、慧は厳しい表情で見つめ返す。傷付けられたのは自分のほうで、悪いのは結衣子だと言っているようだ。
「まあ気持ちはわかるさ、元彼が犯罪者じゃやりきれないよな? けど今の男にも優しくして欲しいね、お前は俺の女だ、そうだろ? 結衣子」
「そうよ」
慧の問いに、結衣子は間髪いれずにそう答えた。それはいっそ悲壮とでもいう感じで、そう答えなければ命がなくなるスフィンクスとの禅問答のようだ。
お前は俺の女だ。
そうよ。
それは出来上がった方程式であり、そう答えなければならない。
しかし方程式に感情はない。慧はその言葉の片隅にある、別の意思を読み取り、クッと笑った。そしてスイと身を屈め、結衣子の顎をとって口づけをする。それは恋人同士の接吻というよりは、なにかの懲罰のように見えた。
口づけの瞬間、ほんの一瞬だけ逃げる素振りを見せた結衣子は、しかし逆らわなかった。さほど長くもない、どちらかというと儀礼的にさえ見えた口づけは、あっさりと終わり、慧は結衣子を投げ捨てるように離す。突き放された結衣子は、血の滲んだ唇を震わせながら俯いた。慧は苛々した目でそれを睨んでいる。
まさかまだ殴る気か? ドキリとして慧の手の先を見つめる……と、慧の手には焦げ茶色のハンカチが握られていた。慧はどこか責めるような表情で、それを差し出す。
「拭け、血だらけの女なんか誰も抱きたがらないぜ」
「はい……」
彼女に怪我をさせたのは他でもない慧なのに、まるで悪いのは結衣子のほうだと言わんばかりの態度には、裕二も呆れた。だが彼女はそれを当然と受け止め、ハンカチを受け取る。
渡されたハンカチで丁寧に血を拭い、服の埃を叩いて立ち上がる姿は凛々しく、彼女がただ護られたり虐げられたりするだけの、か弱い女性ではないというのがわかる。
静かな瞳で慧を見つめ、彼女は焦げ茶色のハンカチを返した。まるで命のバトンのように、真剣な表情で結衣子を睨んだ慧がそれを受け取る。
見詰め合う二人に、恋し合う男女といった風情はまるでない。
ではこの関係はなんだろう?
慧の右手が彼女の肩に触れる。彼女は微動だにしない。
慧の左手が彼女を抱きしめる。やはり彼女は動かない。
慧の思いは伝わらないのか? そもそも慧は、彼女が好きなのか?
その答えが見えて来ない。
だが答えが出なくとも、結果は見える。
ヒステリックな子供のように、少し甘えた声で、慧が結衣子の名を呼ぶ。彼女が返事をするまで、何度でも、泣きそうな声で呼ぶ。そして何度目かの呼びかけに、結衣子は答え、白く綺麗な手を、慧の背中へ回した。
「……慧」
「結衣子」
「けい……」
「ゆいこ」
まるで呪文のように、何度も名前を呼び合う二人は、一見、当たり前の恋人同士のようだ。だが熱く濡れた慧の声に比べると、結衣子の声は、静かで冷たく聞こえる。
慧はそれに気づいているのかいないのか、結衣子の肩を抱いたまま、隣室へと続く扉のほうへと歩き出した。
そのまま立ち去ろうとする二人を、裕二は慌てて呼び止めた。慧が来いというから自分はここへ来たのだ。置き去りは困る。
「待ってくれ、僕は……?」
声を上げたことで慧はようやく裕二の存在を思い出したようだ。ああ、いたのかというような表情で振り返り、顎をしゃくった。
「石田、そいつに部屋をやってくれ、裕二、俺が呼ぶまで適当にやってていいぞ、休んでろ」
「おい! まさかこいつをここに住ませる気なのか?」
「ああ、部屋はたくさんある、別にかまわないだろ」
「なにが! かまうだろ!」
二人のやり取りを聞いてみると、どうやら慧は、自分が拾ってきた何人もの人間を、このビルに無償で住ませているらしい。殆どボランティアだ。その連中は全員、後日、慧からの杯を受け、忠誠を誓っているとのことなので、慧がスカウトして来たとも言えるのだろうが、それでも無償で住ませるなど、酔狂が過ぎる。石田が怒るのも無理はなかった。
中に入るとロビーは閑散としていて、飾り気が何もない。エレベータは故障したままのようで、開口部には剥がれかけたクラフトテープがバツ印型に貼り付けてある。慧はエレベータの前を通り過ぎ、階段を上っていく。さきほど迎えに来ていた男がすぐ後に続いた。
慧が歳相応に華奢なので、後ろの男がひどく大柄に見える。性質の悪いヤクザと、攫われて来た被害少年といった風情だ。
しかし、四階まで上り詰めた慧は、裕二のそんな妄想をぶち壊すように、正面入り口のドアを足で蹴って開けた。
そのドアはたぶん、いつもそうして開けられるのだろう、元々白かったのだろう合板は泥で汚れ、所々へこんで塗装が剥げていた。
「おかえりなさいまし」
慧が部屋に入ると同時に、室内のあちこちから声がかかる。迎えに来た男はいかにも、といった大柄なヤクザ風の男だったが、部屋の中で慧を待っていたのは、どう見ても十代、いっても三十代半ばあたりと思われる若い男ばかりだった。部屋へ入るなり、あからさまにムッとした顔をした慧は、酷く不機嫌そうに、部屋の一番奥にある大きな椅子へ腰掛ける。
「澤田《さわだ》! 曽我部《そがべ》は見つけたのか?」
「いえ、すいません、それがまだ」
澤田がまだだと答えると、慧は眉尻を動かし、不愉快そうな表情で立ち上がった。慧が立ち上がった途端、澤田はビクリと震える。回りにいる男たちがそれ以上動くなという視線で澤田を睨み、無言の圧力の中、動けなくなった澤田に、慧の蹴りが入った。
蹴りは腹の真ん中へ入り、澤田は大きく体制を崩したが、倒れなかった。それが気に食わなかったのか、慧はムッとした表情になり、続けざまに蹴りつける。
何度目かの蹴りで床に倒れこんだ澤田を、慧はさらに蹴りつけた。何度蹴られても殴られても、澤田は呻き声をあげるだけで、言い訳一つもせず、やめてくれとも言わない。
蹲ったまま、逃げることをしない澤田の顔面から血が流れ出し、そのまま彼が蹴り殺されるのではないかと思えて怖くなった。だが血塗れの澤田が気を失う寸前、後ろに控えていた体格のいい男がそれをとめる。
「藤宮《ふじみや》、もうそこらにしとけよ」
「……石田《いしだ》」
石田と呼ばれた男は慧の肩を掴み、わざわざ身を屈めて話した。その仕草は癇癪を起こす子供を宥めようとする父親のようだ。
「澤田も反省してんさ、な?」
だがおそらく、その言い方が気に障ったのだろう、慧は振り向きざま、石田に膝蹴りを入れ、よろめいたところをさらに殴りつける。鈍い音がして石田も膝を折った。
「俺に指図するな!」
蹲る石田に、慧は小さく吐き捨てた。だが石田もそこで引っ込まない。殴られた頬を手の甲で拭いながら立ち上がり、再び慧に迫る。
「藤宮!」
「なんだ? 死にたいのか、猪野郎」
石田の態度はなんとなく、目上の者が目下の者を諭そうとしているようで、少し高圧的だ。だが慧のほうも引っ込まない。石田の胸座を掴み、血走った目で怒鳴り返す。
ひたいをこすり付けるように睨み合った二人は、それから暫く動かなくなった。お互いの出方を見るように、腹を探り合うように、ただ握った拳に力を込める。
見ている裕二のほうが緊張する。たぶん他の者も同じ思いなのだろう、部屋にいる誰一人、口を挟もうとはしなかった。
殴り合うのか、殺し合うのか……そう見えた緊張は、だが緩やかに解けた。慧が拳を離し、視線を下げたのだ。
「離せ」
「はいよ」
憑き物が落ちたように小さな声で離せと呟く慧を見て、石田もほっとしたようにその手を離した。慧は決まり悪そうに視線を逸らし、大きな椅子の上にドッカリと腰を下ろす。
肘掛に腕を預け、落ちかかる前髪越しに澤田を睨んだ慧は、冷静になれと自分に言い聞かせるように声を抑えて話した。
「澤田」
「はい……」
「もう一度チャンスをやる、曽我部を探し出せ」
「はい」
先ほどからすれば、ずいぶん穏やかになった慧の表情を見て、澤田もホッとした表情で答える。その場にいた一同も同じように感じたのかもしれない、あたりを覆う空気は、少しだけ軽くなった。
「待って慧、探し出してどうする気?」
だが、裕二の横にいた結衣子の言葉が、再び場を凍らせる。慧は不愉快そうに眉を寄せ、指先を齧りながら、ジロリと結衣子を見た。
触ってはいけない部分に触った。そんな感じで、その場にいた男たちがざわめく。慧はその空気を敏感に感じ取り、さらに不愉快そうな顔で立ち上がった。
両手を革のズボンのポケットに突っ込んで歩く姿は、最初に屋上で見た少年のイメージとはかけ離れ、ひどく殺伐としている。
「さあ……どうするかな? どうするのが一番堪えると思う?」
結衣子の目前で身を屈め、顔を覗き込みながら訊ねる慧の目は、赤く光っていた。
「あいつがなにをしたか、わかってんだろ? そのせいで俺たちがどれだけ困ってると思う? 八つ裂きくらいじゃ済ませられない、そうだろ?」
慧の瞳は鈍く光り、白くあるべき部分は赤く染まって見える。まるで血の涙を流しているようだ。一見強い立場にいるように見える慧が、なぜだかその部屋の中で一番弱い人間に思えた。
「辰寛《たつひろ》がそんなことするわけないわ、何かの間違いよ」
慧の立場が弱いと、わかっているかのように、結衣子は強い口調で言い返した。それはもしかしたら図星なのかもしれない。慧は哀しげに眉を顰める。
だが口から出た言葉は、哀しげな表情とは裏腹に冷たい。
「あそこには俺と曽我部としかいなかった、曽我部がやったんじゃないなら、やったのは俺ってことになるな?」
嘯く慧に、結衣子は答えない。それを見てイラついたのか、慧はさらに凶暴になった瞳で結衣子を睨んだ。
「まさか俺がやったとでも? お前は俺が嘘をついてると言いたいのか?」
「そうは言ってないわ」
「言ったと同じだろ!」
慧は笑っていた。それは皮肉に塗れ、卑屈になった哀しい顔だ。結衣子よりも背が高い慧が、とても小さく哀れに見えた。
だが次の瞬間、瞳を赤く光らせた慧は、思い切り振り上げた右手で結衣子の頬を打った。バシンと物凄い音がして、結衣子は床の上に薙ぎ倒される。
打ったのは平手だし、多少は加減もしているのだろうが、打たれた結衣子の頬は赤く腫れ、唇の端が切れていた。
裕二の認識では、女性は護られて当然であり、女性を殴って平気でいる男なんて男じゃない。
もちろん人間なら、つい手が出ることもあるだろう。しかしそれでも、何かしらの罪悪感は持つはずだ。謝罪は当然だと思っていた。
だが慧に、彼女に謝ろうという意思は見えない。それどころか、震える結衣子を無理矢理立ち上がらせ、今度は反対の頬を打った。腕を掴まれているので、今度は結衣子も倒れられない。殴られ、腫れぼったくなった目で慧を見ていた。
哀れな結衣子を、慧は厳しい表情で見つめ返す。傷付けられたのは自分のほうで、悪いのは結衣子だと言っているようだ。
「まあ気持ちはわかるさ、元彼が犯罪者じゃやりきれないよな? けど今の男にも優しくして欲しいね、お前は俺の女だ、そうだろ? 結衣子」
「そうよ」
慧の問いに、結衣子は間髪いれずにそう答えた。それはいっそ悲壮とでもいう感じで、そう答えなければ命がなくなるスフィンクスとの禅問答のようだ。
お前は俺の女だ。
そうよ。
それは出来上がった方程式であり、そう答えなければならない。
しかし方程式に感情はない。慧はその言葉の片隅にある、別の意思を読み取り、クッと笑った。そしてスイと身を屈め、結衣子の顎をとって口づけをする。それは恋人同士の接吻というよりは、なにかの懲罰のように見えた。
口づけの瞬間、ほんの一瞬だけ逃げる素振りを見せた結衣子は、しかし逆らわなかった。さほど長くもない、どちらかというと儀礼的にさえ見えた口づけは、あっさりと終わり、慧は結衣子を投げ捨てるように離す。突き放された結衣子は、血の滲んだ唇を震わせながら俯いた。慧は苛々した目でそれを睨んでいる。
まさかまだ殴る気か? ドキリとして慧の手の先を見つめる……と、慧の手には焦げ茶色のハンカチが握られていた。慧はどこか責めるような表情で、それを差し出す。
「拭け、血だらけの女なんか誰も抱きたがらないぜ」
「はい……」
彼女に怪我をさせたのは他でもない慧なのに、まるで悪いのは結衣子のほうだと言わんばかりの態度には、裕二も呆れた。だが彼女はそれを当然と受け止め、ハンカチを受け取る。
渡されたハンカチで丁寧に血を拭い、服の埃を叩いて立ち上がる姿は凛々しく、彼女がただ護られたり虐げられたりするだけの、か弱い女性ではないというのがわかる。
静かな瞳で慧を見つめ、彼女は焦げ茶色のハンカチを返した。まるで命のバトンのように、真剣な表情で結衣子を睨んだ慧がそれを受け取る。
見詰め合う二人に、恋し合う男女といった風情はまるでない。
ではこの関係はなんだろう?
慧の右手が彼女の肩に触れる。彼女は微動だにしない。
慧の左手が彼女を抱きしめる。やはり彼女は動かない。
慧の思いは伝わらないのか? そもそも慧は、彼女が好きなのか?
その答えが見えて来ない。
だが答えが出なくとも、結果は見える。
ヒステリックな子供のように、少し甘えた声で、慧が結衣子の名を呼ぶ。彼女が返事をするまで、何度でも、泣きそうな声で呼ぶ。そして何度目かの呼びかけに、結衣子は答え、白く綺麗な手を、慧の背中へ回した。
「……慧」
「結衣子」
「けい……」
「ゆいこ」
まるで呪文のように、何度も名前を呼び合う二人は、一見、当たり前の恋人同士のようだ。だが熱く濡れた慧の声に比べると、結衣子の声は、静かで冷たく聞こえる。
慧はそれに気づいているのかいないのか、結衣子の肩を抱いたまま、隣室へと続く扉のほうへと歩き出した。
そのまま立ち去ろうとする二人を、裕二は慌てて呼び止めた。慧が来いというから自分はここへ来たのだ。置き去りは困る。
「待ってくれ、僕は……?」
声を上げたことで慧はようやく裕二の存在を思い出したようだ。ああ、いたのかというような表情で振り返り、顎をしゃくった。
「石田、そいつに部屋をやってくれ、裕二、俺が呼ぶまで適当にやってていいぞ、休んでろ」
「おい! まさかこいつをここに住ませる気なのか?」
「ああ、部屋はたくさんある、別にかまわないだろ」
「なにが! かまうだろ!」
二人のやり取りを聞いてみると、どうやら慧は、自分が拾ってきた何人もの人間を、このビルに無償で住ませているらしい。殆どボランティアだ。その連中は全員、後日、慧からの杯を受け、忠誠を誓っているとのことなので、慧がスカウトして来たとも言えるのだろうが、それでも無償で住ませるなど、酔狂が過ぎる。石田が怒るのも無理はなかった。