「え……?」
 慧はほとんど反射的に顔を上げる。目の前には自分のほうへ手を伸ばす裕二と固く目を閉じて蹲ろうとする曽我部がいる。そして血を吹き上げながら倒れていく斉藤が見えた。
「斉藤っ!」
「斎藤さん!」
 驚いて駆け寄ろうとする裕二を慧が引き戻す。斉藤の後ろの草むらから二発目の銃弾が飛んでくる。驚いて慧の腕に縋りつくと、慧は裕二を背後に隠し、草陰を睨んだ。そこには、血だらけで地面に這い蹲ったままの岩瀬がいた。
「岩瀬、貴様……」
 岩瀬は片手に銃を握り締め、もう片方の手でずりずりと這いずってくる。血塗れでニタリと笑う顔には既に死相が浮かんで見えた。
「ざまあみろ……クソが、てめえも死にさらせ」
 途切れ途切れに呟きながら、岩瀬は再び引鉄を引こうとしていた。それに気づいた慧は裕二を突き飛ばすように後ろへ追いやり、走り出す。そして斉藤の落とした銃を拾い上げて、なんの躊躇いもなく、撃った。
 サイレンサーをつけていなかったので、大きな音が辺りに木霊する。至近距離だったため、岩瀬の頭には大穴が開き、頭蓋の欠片が飛び散って見えた。
「やめて慧!」
「煩い!」
 だがそこで慧は手を止めない。何発も何発も、残段がなくなるまで撃ち続け、岩瀬の頭はぐずぐずになった。それでもやめようとしない慧を今度は曽我部が止める。
「やめろ藤宮! もう死んでるだろ!」
「うるさい!」
「やめろって!」
 怒鳴り合う二人の傍で倒れた斉藤がなにか言おうとしていた。それに気づいた裕二は斉藤を抱えて身体を起こしてやりながら、慧を呼んだ。慧は握り締めていた銃を投げ捨て、飛んでくる。
「斉藤、斎藤!」
 涙を浮かべた慧が駆け寄ると裕二に支えられその場に座った斉藤は、血の出ている胸を押さえながら少し笑った。岩瀬の撃った銃弾は、斉藤の背中に当たっていた。心臓のすぐ下あたりに命中したらしい弾丸は、そのまま貫通し左肺を霞めて抜けていったようだ。呼吸がしづらく話すたびに咳き込みながらも、彼は気丈に話し続けた。
「坊ちゃんに、一つ、謝らなければならないことがあります」
「後にしろ! 今、病院に連れてってやるから!」
 涙声で怒鳴りつけながら慧はダメだと首を振った。彼にとって斉藤がどれだけ大事な人間なのかが良くわかる。怒鳴りつけられた斉藤も幸せそうに微笑んでいた。
「いえ、聞いてください、これが、最後かもしれません」
「嫌だっ、俺は聞かないぞ! このまま死ぬのは許さないからな、そんなの俺は許可してない!」
 許さないと叫んだ慧は溢れだす涙を振り払うこともせず、裕二と曽我部に救急車を呼べと怒鳴る。だがそれは不味い。曽我部は丈一郎殺しの容疑者として指名手配中だ。そのうえ斉藤の傷は弾傷だし、傍には肉塊になった岩瀬も転がっている。救急車など呼べば警察にも通報される。
 岩瀬を撃ったのは慧だ、調べられればそれもすぐに知れる。そうなれば慧も捕まってしまう。それだけはダメだと二人は首を振った。もちろん当の斉藤もそれはダメですと念を押す。しかしそれでは斉藤が死んでしまう。
 嫌だ嫌だと慧は叫び、斉藤はそれを満足そうに見つめる。彼の目は深手のせいか熱く潤み、このままでは長くもたないと感じさせた。それでも彼は大丈夫ですよと笑おうとする。その思いの深さに、裕二も切なくなった。
 斉藤はもう本当にダメかもしれない。その彼がどうしても話しておきたいというなら聞いてやるべきだと思った。だから殊更平静を装い、斉藤さんは死なないよと慧に囁く。
「大丈夫だよ、斉藤さんは死なない、でも暫く話せないかもしれないだろ、だから、聞いてやんなきゃ、ね? 慧」
「裕二……」
 裕二の言葉に慧も顔を上げる。それを見つめた斉藤も、同じく大丈夫ですよと話した。
「裕二さんの言うとおりです、これくらいで私は死にませんよ、最後まであなたの傍にいて、あなたをお護りするのが私の仕事ですからね」
「だったら、話は治ってからでもいいだろ!」
「しかし、今を逃したらお話し出来るようになるのは、ずっと後になってしまう、それでは間に合わないかもしれません、だから……」
 聞いてくださいと斉藤は話し、裕二にも促されて、慧も渋々わかったと頷いた。慧が頷くのを確認した斉藤は、ありがとうございますと呟いてから、裕二の支えを振り切って座り直した。姿勢を正した彼は、涙を溜めた瞳で慧を見つめ、懐かしそうに口元を歪める。

「申し訳、ありません、力也様に……あなたの母上と高木の不義を、密告したのは、私です」

「え……?」
 瞠目する慧に、再び申し訳ありませんと頭を下げ、斉藤はその話を告げた。

 それは慧が生まれる二年前に遡る。斉藤は二十三歳、その友人であり、ライバルでもあった高木は二十五歳、そして後に力也の妻となった春子は、まだ十八だった。
 元々春子は極道とはなんの関係もなく、ちょっと風変わりなだけのショーガールだった。彼女が斉藤と高木が仕切っていた店で働き始めたのが出会いだ。
 界隈では知らぬ者のいない若衆として名を売っていた二人は、顔も良く人当たりもいいことから、極道でありながらも周りの信頼も厚かった。春子もそんな二人に魅かれ近づいてきた。最初相手にしていなかった二人も春子の美貌と気風のよさに惚れ、いつしか心憎く思い始める。
 だが二人には女よりも大事なことがあった。組の中で成り上がり、どこまで上にいけるか、それだけに情熱を注いでいたのだ。そのため春子のことが疎かになった。そして二人を追って組事務所に現れることが多かった春子は組長、力也の目に留まり、彼女はいつの間にか力也の妻となっていた。
 それだけで済めば良かったのだが、春子はやがて年老いた力也の相手を嫌がり、当時世話係りとして二人の近くに侍っていた高木と関係を持つようになった。
 そのとき斉藤はそれまで感じたことのない憤りを覚えた。力也に隠れて睦み合う高木と春子を見るにつけ憤りは増し、自分がどれだけ春子を愛していたのかを思い知った。
 許せない。
 高木は、今は女より仕事、一刻も早く出世して、組長のお役に立てるようになるのが俺たちのすることだと言いながら春子を手に入れていた。そう思うと裏切られた憤りと春子を手に入れたことへの嫉妬で腹わたも煮えくり返る。
 そして、その感情のまま、力也へ投げ文をしたのだ。

──奥様は、若頭の高木と密通しています
   本日午後三時、蔵の中をご覧ください。

 力也の屋敷にある大きな蔵、そこが二人の密会所だと知っていた斉藤は、二人が会うと話していたその日時を、力也に告げ口した。その結果、春子は殺され、高木も地獄を見ることになったのだ……。

「申し訳ありませんでした」
 斉藤は三度、頭を下げた。自分が告げ口したばかりに、慧の両親は地獄に落とされた。そして慧は、自分を裏切った妻、春子の身がわりとして、力也に縛り付けられることになった。申し訳ないと、傷付いた身体で何度も何度もひれ伏すように頭を下げ続ける。それを見つめた慧は烈火のごとく激昂した。
「申し訳ないだと? ふざけるな! そんな一言で済ます気か!」
「申し訳ありません……」
 血塗れで、今にもこと切れそうな斉藤の胸座を掴んだ慧は、許さないぞと叫んだ。その叫びに斉藤も目を伏せる。慧は俯く斉藤の顔を上向かせるように持ち上げながら、ダメだ許さないと怒鳴る。
「冗談じゃない! そんな言葉だけの謝罪で許されると思うなよ? 一生かけて謝罪させてやる! だからお前は生きるんだ、生きて、これから先、一生、俺の傍で、俺のために生きろ! いいな斉藤! 死ぬことは許さん!」
 慧は泣き腫らした赤い目をしてそう怒鳴った。その泣き顔を呆然と見つめ、斉藤も涙した。ありがとうございますと呟く斉藤に、慧は礼はいらん、傷が治ったらぶん殴ってやると答えてゆっくり立ち上がる。
「帰るぞ、裕二」
「え、ぁ……うん」
「曽我部、斉藤を運べ、下に車を持って来てる、とにかく医者だ」
「ぇ、あ、わかった」

「坊ちゃん、もう一つだけ……」
「なんだ?」
 曽我部に担がれた斉藤は落ちそうな瞼を抉じ開けながら、まだ話があるのだと続けた。この怪我だ、生きているほうがおかしい。本当ならもう喋らせたくないが、斉藤はこれだけはと話し続けた。
「お父上は、あなたを手放す気などありません、たとえ金を用意出来たとしても、今度お屋敷に出向いたら最後、おそらくもう帰れないでしょう」
「閉じ込める気だと?」
「はい、ですから、自由になりたいのなら、出向いてはいけません、どこか遠くへ、お父上の手の届かない場所へ、お逃げください」
 最初の計画では、力也に返す金を用意して慧と共に何食わぬ顔で屋敷に出向くつもりだった。そして力也に会い、そこで刺し違えてでも彼を殺す気でいた。だがこの傷ではもうそれは不可能だ。となれば後はもう逃げるしかないと言う。
「お逃げください、もし捕まれば、あなたに自由はなくなる、お父上は……藤宮力也は、あなたに手術を受けさせる気です」
「手術……」
 その言葉に慧も顔色を変える。
 畜生めと呟いて真っ直ぐ前を睨んだ慧はその背に憎しみの炎を滾らせ、怒りに震えていた。

「手術って、お前、どこか悪いのか?」
 事情を知らない曽我部が訊ねる。慧は宙を睨んだまま答えない。ことの仔細を承知していた裕二は、それを話してもいいのかと慧の表情を追った。だが慧はそれどころではないようだ、裕二の視線にも答えず麓へと歩き続ける。

 そういえば、慧の秘密を斉藤は知っていたんだろうか? ふと感じた疑問に裕二は曽我部の背後を覗き見た。だが彼は蒼白の顔で既に意識がないようだ。これはまずいぞと気が焦る。
「慧、急いだほうがいい、斎藤さんが」
「わかってる!」
 急かす言葉が最後まで出ないうちに慧は苛々と言い返した。その表情から彼がどんなに斉藤を頼りにしているのかがわかる。
 当然だ。考えてみれば斉藤は、名前のないあの集団の中にいる唯一の大人なのだ。他は皆二十代か、いってても三十そこそこ、まだまだ若造の部類であり、少しくらい年上でも、所詮は少々歳をくっただけのガキだ。とてもじゃないが頼るには足りない。
 慧にとって斉藤は本当の父親以上の父親、兄であり父であり、唯一甘えられる相手だったのだろう。その斉藤が死ぬかもしれない。そう考えれば他になにも考えられなるのも仕方がない。
 そう判断した裕二は、斉藤が目覚め再び彼の傍に戻るまで、自分が彼を支えようと決めた。慧には冷静にその先を示してくれる者が必要なのだ。