裕二の言葉に二人共固まる。遠く離れた斉藤も瞠目していた。だが裕二もそこで引き下がれない。ここが二人を結びつける最後の鍵だと信じ、叫ぶ。

「なに、ふざけてんだ……」
 意表を突かれたのか、慧は言葉を詰まらせた。曽我部のほうは慧の襟首を掴んだまま硬直し、裕二の言葉を反復するようにブツブツとなにか呟いている。どうも頭の中が整理出来ていないようだ。
 彼の動揺を過敏に感じ取った慧は、そこで曽我部の腹を思い切り蹴りつけた。
「うわっ」
 蹴られたはずみで掴んでいた手が離れ、曽我部は下がる。そいつを睨んだ慧は、次に自分がどうするべきかわからなくなったのか暫くその場に立ち尽くしていた。
 唇は硬く閉じられ握り締めた拳が震える。なにに対してなのかわからない怒りを身体中に満たし、爆発寸前だ。しかしどうも鈍感に出来ているらしい曽我部にはその危険性が理解出来ないようだ。彼はのっそりと立ち上がり、ふらふらと慧の前へ歩み出た。

「本当か?」
「ぇ……?」
「本当に、お前、俺を……?」
 なにかに憑かれたように、一歩一歩、大地を踏みしめるようにして曽我部が近づく。その足取りの異様に圧されたのか、慧は半歩下がった。
「なんで、黙ってんだ、いや、なんで隠してたんだ」
「は……待てよ、勘違いするな、今のは裕二の思い込みだ」
「なんで言ってくれなかったんだ、最初から話してくれてたら、俺は……」
「聞いてるのか? 違うと言ってるだろ?」
 慧はなんども違うと否定を繰り返す。だが曽我部の耳には入らないらしい。ジリジリと慧に近づき、ついにその腕を掴んだ。

「もう隠すなよ藤宮……お前、女なんだろ?」

 慧より二周り近く大きな曽我部が、がっしりと慧の両腕を掴む。そこで裕二は自分の失敗に気づいた。

 結衣子が別れたいと言ってきたとき、曽我部は驚くほど簡単に承知したらしい。それを冷たいとか実は裏で慧の失墜を策謀しているのではないかとか周りは疑った。
 しかしそうではなかったのだ。曽我部は結衣子との別れを望んでいた。別れたがっていたのは曽我部のほうで、結衣子はただそれを察しただけか、もしくは結衣子から別れを言い出したという形にしてくれと、申し入れていたのかもしれない。
曽我部は、自分が愛しているのは慧だと気づき、結衣子と別れることを考えた。いや、もしかしたら最初から違っていたのかもしれない。曽我部は慧に傾き過ぎる自分を恐れ、近くにいた結衣子に迫った。慧への思いを打ち消すため、彼女を利用したのだ。だがやがて偽りの恋に疲れ、別れることを望んだ。その後、結衣子が慧に乗り換えたのは、彼女なりの復讐なのかもしれない。
 おそらく結衣子は、最初、慧のほうを好きだったのだろう。だが慧は自分を異性として見てはくれない。そこで言い寄ってくる曽我部に靡いて見せた。それは慧にあてつける為だ。しかし当ては外れ、慧は二人の恋を祝福した。おかげで関係はずるずると続き、やがて二人共に耐えられなくなった。
 どちらが先に言い出したのかはわからないが、二人は別れ、そこで曽我部は改めて、慧だけを見つめようとしたに違いない。
 だが結衣子も黙って引っ込んだりはしなかった。曽我部と別れたそのすぐ後、慧に近づいた。そして慧はその誘いに乗った。それはたぶん、自分が男であると証明したいがためだ。結衣子を娶り愛人とすればもしや女性ではと疑われることはない。それに彼が結衣子を好きだと思う気持ちも本当なのかもしれない。

 慧の中には男女両方の性が詰まっている。よくはわからないが、ホルモンバランスの関係で身体つきや体調が変わるというなら、心も変わっていくのかもしれない。
 元々生殖行動はホルモンに左右される。体内の器官が多少なりと心にも影響を及ぼすとしたら、その揺らぎも頷ける。
 つまり慧の中の女性が曽我部を求め、慧の中の男性が結衣子を求めた。そう考えれば、日頃彼に感じる矛盾も全て解消されるような気がする。
 ただ問題は、慧自身が男性でいたがっているということだ。男でいたい慧は自分の中の女性が認められない。だから曽我部を消さなければならない。そこがこの追撃を生んだ。
 今、最大限女性に近づいたこの状態で、曽我部を抹殺する。それは慧にとって自分の中にいる女性を葬り去るために必要な儀式なのだ。
 曽我部も曽我部で悩んでいたのだろう。自分か慧かどちらかが女性であれば、思いを打ち明け、そこから始まる恋もあり得たかもしれないが、現実問題として二人は同性で、それであるが故、自分の思いは報われない、遂げられないと思ってきた。
 そして悩み続けたある日、思いがけず慧の裸体を見て、彼が女性であると知った。(誤解した)
 そのとき邪魔さえ入らなければ、もしかしたら二人は結ばれたのかもしれない。多少の障害はあっても、普通の男女として、愛し合う者になれたのかもしれない。しかしそうはいかなかったのだ。その場に居た第三者が曽我部を落とし入れた。
 それは誰だ? 石田か斉藤か遠藤か……?
 いや、彼らじゃない。彼らは慧の秘密を知らないはずだ。となると考えられるのはただ一つ、慧の父親、力也か、その息のかかった者、ということになる……?

「なにを言ってる? 俺のどこが女に見える? お前、とうとう狂ったか?」
 お前は女だろと迫られ、逆切れした慧が睨む。だがあの日、裸の慧を見ている曽我部は確信を持っている。ますます力を込め、掴みかかった。
「もう誤魔化さなくていいんだ、俺は知ってる!」
「だからなにを知ってる? ふざけたことを言うと……」
「言うとなんだ? お前は女だ、違うというなら、今ここで脱いで見せろよ!」
 つかみ掛かる曽我部の勢いに怯んだのか、微妙に下がる慧を曽我部は執拗に追いたてた。脱いでみせろと言われた慧はさらに下がる。
 自分は女ではない、だが今は不味い。一番女性に近づいている時期であり、誰がどう見ても女にしか見えないだろう。裕二はいいとしてもこれを斉藤に見られるわけにはいかない。
 だが曽我部は見たといい、違うならもう一度見せろと迫る。どうするべきか迷いながら、慧は曽我部に押されるままジリジリと下がる。それを近くで見ていた裕二もなんといって彼を止めればいいのかと戸惑った。
 曽我部は答えられなくなった慧の腕を引き、自分の胸に押し付けるように抱いた。
 いかに違うと言い張っても触れ合ってしまえばわかる。柔らかなその感触に胸を高鳴らせ、曽我部が涙ぐむ。
「女だ、お前……なんで、なんで今まで隠してたんだ、どうして……俺はずっと」
 感激と混乱で泣き出す曽我部に抱かれ、慧は瞠目していた。慧の中の女性がそれを喜び、その後で男の慧がそちらへ行くなと怒鳴る。どちらにも動き出せず、硬直したままの慧を、曽我部は思う存分にと抱きしめた。
 あたりはシンと静まり返り、青白い月の光りが抱き合う二人を照らし出す。光に満ちたその世界で、二人の時間は止まろうとしていた。

「そこまでです、曽我部さま、手を離してください」

……そのとき、冷たく凍るような低い声がその神聖を破る。さっきまで裕二と共に背後へ控えていた斉藤だ。
 完全に気配を消していた斉藤は、誰に気付かれることなく二人に近づき、一瞬で形勢を逆転させた。曽我部の後頭部には銃口が押し当てられている。
「斉藤……?」
 ギクリとした表情で曽我部が視線だけを向ける。斉藤は怖いくらいに無表情で、ただ静かに離れろとだけ話した。
「手を離して、坊ちゃんから離れてください、早くしないとこのまま撃ちますよ」
「は、撃てるのかよ?」
「犯人は死体でもいいんですよ、いや、むしろ死体のほうがいい、死体は余計なことを喋りませんからね」
 自分を撃てば丈一郎殺しの容疑者がいなくなるぞと嘯く曽我部に、斉藤は冷たく答え、後頭部に当てた銃口をギリギリと押し付ける。
「こちらとしても、出来るなら、頭ではなく、別の場所を撃たれていてほしいのです、いきなり頭では不自然でしょう? 岩瀬はそれほど射撃の名手でもないですからね」
「なら、やめようぜ、な?」
「とにかく、離れてください」
「……わかったよ」
 暫しの押し問答のあと、曽我部は観念したように両手を挙げ、慧から離れた。
「慧……っ」
 自由になった慧に裕二が走り寄る。すると慧ははっとしたように顔を上げた。斉藤は曽我部に銃口を突きつけたままだ。無表情に突きつけられた冷たい鉄の塊はすぐそこにある死を暗示させ、裕二は怯える。このまま彼が殺されても本当にいいのかと慧を見上げると、彼も燃えるような目をして斉藤を見ていた。
 慧が睨んでも斉藤は曽我部を離さない。そこが気に食わなかったのだろう、慧は少し低くなった声でその手を離せと口を開いた。
「斉藤、お前、なにをしてる」
「これから曽我部さまを撃ちます」
「誰がそうしろと言った? 俺は命じてないぞ」
「私の独断です、坊ちゃんに曽我部さまは撃たせません」
「なんだと?」
 撃てないではなく、撃たせないと斉藤は言った。その意味がつかめず、慧が聞き返すと、彼は小さく首を振る。
「あなたが手を汚す必要はない、裏切り者の始末は私の仕事です」
「俺は、自分一人綺麗でいようなんて思ってない!」
「これは私の仕事です、坊ちゃんには他にすることがあるでしょう? お互い、得意分野を行きましょうや」
 お互い得意分野をと斉藤は言う。それも一理だろう。だがたぶんこれはそんな意味ではない。斉藤は慧の思いを察し、自分がやると言い出したのだ。
 本来優しい慧は曽我部を殺した自分を許せなくなるだろう。そしていつか命を絶ってしまうかもしれない。それでは意味がない。それくらいなら自分が手を下し、慧の憎しみを一身に集めたい。その憎しみを糧にしても、慧には生きて欲しい。そう考えての行動だ。だがそこには誤算がある。慧にとっては斉藤も失くせない一人なのだ。
「ダメだ、斎藤さん!」
 斉藤の考えに気づいた裕二は再び彼に走り、銃を持つ右首を握った。こんなやり方は間違っている。他に方法があるはずだと信じ斉藤の腕を引く。
「もうやめよう! 斎藤さんも曽我部くんも、慧を助けたいんでしょ、争うことないじゃないか」
 みんなでより良い方法を考えようと裕二は主張し、曽我部もそれには同意した。だが斉藤はダメですと首を振る。そうなると最終判断は慧に任せるしかなくなる。
「慧っ、キミは? キミはどうしたい?」
「俺、は……」
 いきなり詰め寄られ慧は首を振った。天使と悪魔、男と女、冷徹と情熱が鬩ぎ合い、咄嗟に判断がつかなくなったらしい。顔を歪ませて背後へ下がった慧は、迫る裕二と、曽我部、そして曽我部に銃を突きつける斉藤を見回し、頭を抱える。彼の中の混乱と混沌は凄まじく、殆どパニック状態に陥っていた。
「慧!」
「藤宮っ!」
「坊ちゃん」
 裕二、曽我部、斉藤、三人の声が夜風に乗って木霊する。慧はその声に顔を背け、耳を塞ぐように頭を抱え込む。そして抱えきれずにしゃがみ込みそうになったそのとき、耳を塞いでいた掌を通し、鈍く重い銃声が聞えた。