違う違わないと二人の言い争いは続いた。いや、正確には、争ってなどいない。怒鳴っているのは曽我部だけで、慧は毛筋ほども乱れはなかった。少なくとも表面上は、無風の湖面のように静かだ。
「殺したのは俺じゃないぞ、それはお前が一番よく知ってるはずだ!」
「丈一郎さんは死んで、お前は逃げた……俺が知ってるのはそれだけだ」
「それは追われたからだ、殺ったのは俺じゃない!」
「いいや、お前だ、そしてお前は今夜、自分を捉えに来た岩瀬をも殺した、そう何度も裏切られては、俺も庇えない、わかるだろ? これは苦渋の決断ってヤツさ」
「お前……岩瀬も殺したのか?」
 慧の言葉尻を捉え、曽我部が顔色を変える。だが親友の追及にも、慧は表情を変えなかった。ただ氷のような面で、同じ言葉を繰り返す。
「間違えるなよ、岩瀬を殺したのはお前だ、曽我部」
「いい加減にしろっ!」
 あくまでも、やったのはお前だと言う慧の冷淡に、曽我部は目を剥いて叫んだ。丈一郎殺しも岩瀬殺しもやったのは自分ではない。では誰がと考えれば、それは慧しかいないと思ったのだろう、その叫びと共に拳を握り締め、慧に殴りかかって行く。

「慧っ!」
 驚いて思わず叫びかけた裕二を斉藤が止める。背後からがっしりした腕で抱えられると身動きも出来ない、物凄い力だ。引き止められたことにドキリとして一瞬気が殺がれる。チラリと振り返って見た斉藤は、主の勝ちを疑っていないのか、顔色も変えていなかった。前方ではバキバキと拳のぶつかり合う音がしている。裕二は慌ててそちらを確認した。

 月明かりの下、運命の糸に魅かれあうように曽我部と慧が拳を交え殴り合う。それは覆すことの出来ない、あらかじめ決められていた儀式のようにさえ思えた。だが戦況は慧のほうが圧倒的に不利だ。
 慧の身長は一七〇あるかないか、対して曽我部は一九〇近い。澤田が曽我部のことを評して、熊の様だといったが、それもあながちではない。細身の慧が、筋肉質で大柄な曽我部の前に立つと、まるで大人と子供……レスラーと少女のようだ。勝ち目など、一ミリもないように見える。
 それでも慧は逃げていなかった。あの体格差だ、さすがに少しは押され気味だが、引く気配はない。
 以前、ほんの少しだけ垣間見た慧の力はそれこそ圧倒的で、鬼神のような強さだと思った。見ているだけなのに震えが奔るほどその力は物凄く見えた。しかし考えてみると、これまで見てきた慧の圧倒は、皆、相手が慧の迫力に臆し動けなくなっていたからのような気もする。少なくとも今回のように臆せず殴りかかってくるような奴はいなかった。慧が誰かとまとも殴り合っているのを見るのは初めてなのかもしれない。これが慧の本当の実力なのだ。裕二もつい固唾を呑んだ。
 頭に血が上っているからか、曽我部は容赦ない力で殴りかかる。あの太い腕で繰り出される拳だ、一発くらえばダメージは大きいだろう。慧もそれをよくわかっている、身体に捻りをいれ、ステップを踏みながらも、まだ一度も決定打は入れさせていない。だが慧の拳もクリーンヒットにはなっていなかった。当たればデカイ曽我部の拳を警戒し、前に出切れていないからだ。一進一退の攻防にハラハラする。裕二も思わず拳を握り、身を乗り出した。
「慧……」

「うおぉおおおぅっ!」
 助走をつけ威力を増した曽我部の右拳が慧のこめかみを狙い打つ。慧は身を沈め、紙一重でそれを避けると右へ回り込んだ。空振りになった拳に引き摺られるように曽我部がよろける。その隙に彼の背後まで移動した慧は、渾身の右ストレートを繰り出した。そして、それに気づいた曽我部が振り向こうとする前に、慧の拳は彼の頚椎に決まった。今度はクリーンヒットだ。
 決められた曽我部は顔を顰め、応戦しようと身構える。だが身体のバランスが上手く取れないらしい、彼の拳は慧に届かない。慧は振り向いた曽我部の反対側へと消えていた。
 そこからは慧の一方的打撃になった。まだ体勢の整わない曽我部の脇腹へ靴先をめり込ませ蹴りつける。先の尖ったエナメルの靴はそれだけで凶器だ。殆ど突き刺さる勢いで叩き込まれた蹴りに、堪らず曽我部が倒れかける。両足を踏ん張って、なんとか転倒は避けているが、立っているだけで精一杯なのだろう。彼からの反撃はない。そこへ情け容赦のない追撃が入る。
 よろめく曽我部の胸座を掴み、自分のほうへ引き寄せるようにして勢いをつけ、顔面を殴りつける。立て続けに右で四発、そして一旦手を放し、前のめりに倒れようとする彼の腹へ膝蹴りを入れた。
 ぐえっ……っと、嫌な音が聞こえ、蹴りの衝撃で押し出された胃の内容物が吐き出される。慧はその飛沫がかからないように、一歩下がり、転げまわる曽我部を見ていた。
「酷い……」
 思わず呟く裕二に馬鹿を言っちゃいけませんよと斉藤は囁いた。
「隙を突く、相手の一番弱い部分を狙う、相手が崩れたら休まず追撃する、やるときは徹底的にやる、これが喧嘩のセオリーですよ、それくらいでなければ勝てません」
「でもなにもあんなにやらなくても……」
 死んだらどうするんだと抗議すると、斉藤は厳しい目をしてそんなことを言っていたら負けますよと答えた。
「見ておわかりでしょう? 坊ちゃんは決して体格的に勝れているとは言えません、どちらかと言えば劣っているほうでしょう、手を抜けばやられてしまう、裕二さんは坊ちゃんが負けてもいいと?」
「そうは言ってないよ、ただもう少し」
「曽我部は手を抜いて勝てるような男じゃないですよ、それでなくともあの体格だ、徹底的にやらなければ倒されるのは坊ちゃんのほうになります、やるしかないんです」
 斉藤の言うことは正論だ、言っている意味はわかる。
 他人と争うのは良くないことだ、友だちと殴り合うのは止めてくれなど言っていられないのはわかる。慧に負けて欲しいわけではない。だがやって欲しくない。どうしたら良いのかわからなくなった裕二は、思い悩み顔を背けた。
 そのとき、裕二の耳に、また大きな衝撃音が聞えた。
「え……?」
 咄嗟に顔を上げると、いつの間に形勢逆転となったのか、打たれた慧が仰向けに倒れていく場面が見えた。
 曽我部の大きな拳は真正面に繰り出され、おそらくそれを避けようとしたのだろう、慧は少し身体が傾いたままだ。それを追うように拳は続けて繰り出され、一旦体勢を崩した慧は下がる一方になる。さっきと逆だ。崩れた体勢では反撃も覚束無い。
 たちまち追い詰められた慧の目前に曽我部の大きな拳が迫り、それを避けようと背後に傾いた慧は、そのままバランスを崩し、倒れた。
 それは殴られて倒れたというわけではなく、所謂スリップダウンというヤツだろうが、倒れた者が負けだ。曽我部だってその隙を捉えないほど間抜けではない。地面に転がった慧の腹の上に馬乗りになり、止めの一撃を入れようと拳を振り上げる。
 勝負は一瞬だ、アレを入れられたら慧は負ける。そのとき初めて、裕二の背後にいる斉藤の顔色が変わった。掴まれている肩に指先が食い込むほど力が入り、その動揺が窺われる。助けようにも二人のいる場所から慧までの距離は十メーター近い、走って行っても間に合わない。ただ視線だけで慧の無事を祈った。
 曽我部に圧し掛かられ、その拳が振り上げられるのを見た慧は、驚くほど静かな目をして、彼と、そのすぐ真上にある月を見つめていた。そしてゆっくりと瞼を閉じる。その美しく儚げな面をめがけ、曽我部の拳が振り下ろされる……。

 だが、その拳は、慧に当たる寸前、軌道を変え、地面を殴っていた。
 曽我部が殴ったのが、自分ではなく地面だと気づいた慧は、ゆっくり閉じた瞼を、今度はパッと開いた。目の前にある曽我部の顔は苦渋に満ち、切なく歪められていて、泣き出しそうにさえ見えた。
「どうした、やらないのか?」
 殴らなかった曽我部を責めるような目をして、慧は訊ねる。曽我部は返事をしない。
「なぜ手を止める? こんなチャンスはもう来ないぞ」
 曽我部を睨む慧の目は憎しみに満ち、静かな怒りが彼の内側からふつふつと湧き上がって来るのが見えるような気がした。だがやはり曽我部は答えない。
「舐めてるのか? 今やらなけりゃお前に生き残る道はないぞ」
「藤宮……けい」
 問い続ける慧の顔を潤んだ瞳で見つめ、曽我部は嗚咽した。
「もうやめよう、なんで俺たちが争わなきゃなんねえんだ、そんな必要ねえだろ!」
「なにを言ってる」
「お前がなにか隠してんのはわかってるんだ、それを全部俺に話せ! なにも心配しなくていい、俺が、必ずお前を護ってやる!」
 思い余ったように曽我部が叫ぶ。その言葉に嘘はないのだろうが、慧には歪められて聞えたのだろう。酷く不愉快そうな顔をした。
「護る? お前が? 俺を? ……は、なにふざけてるんだ? お前に護れるモノなんてなにもないだろ、人を殺す度胸もないくせに」
「そうさ、俺には人を殺すような度胸はない、だから俺は丈一郎さんも岩瀬も殺ってない! だけどな、藤宮、お前のためなら、やってもいい、いや、必ずやれる!」
 だからお前の抱えている問題を全部俺に話してくれと迫る曽我部を、慧は突き飛ばした。勢い立ち上がる彼の背に、チリチリと燃え上がる煉獄の炎が見える。
「俺を護りたいだと? ふざけるな!」
「ふざけてなんかない!」
「本気か? じゃあなお更だ、俺を護りたいと言うなら俺のために死ねよ!」
 真剣な表情の曽我部に、慧も真剣に応える。潤んだ目をした彼と同じく濡れた瞳で、慧は死ねと叫んだ。

──死んでくれ! (助けてくれっ)

 慧の叫びは魂の叫びだ。耳を澄ませば、彼の声が聞こえる。助けて、助けてと叫んでいる。
 だが曽我部には表面どおりにしか受け止められないのか、死ねと叫んだ慧の襟首を掴み、怒鳴った。
「やめろって言ってんだろ! そんな言葉、聞きたくねえよ、俺はお前が……っ!」
「俺が? なんだって……?」
 その言葉尻を捉え、慧が睨む。その冷たい瞳に曽我部は固まった。全てを受け止める度胸もないくせに偉そうにほざくなと慧は叫び、その言葉で事態はさらに硬直する。

 曽我部は本気だ。本当に慧を護りたい、救いたいと考えている。だが慧がなぜこんなことを言い、あんな行動をとったのか、それが理解出来ないで苦しんでいるのだ。
 無理もない。大柄で落ち着いて見えても、曽我部だってまだ十八になったばかりの未成年なのだ。覚悟が足らないといえばそれきりだろうが、それも仕方がないではないか。
 裕二はそう思ったが、慧は我慢出来ないらしい、うろたえる曽我部に再び殴りかかろうとした。そうはさせられない。
 せっかく曽我部が軟化したのだ、ここでまた拗らせたくないと考えた裕二は、斉藤の手を振り払い、彼らの前へ走る。

「やめるんだ、慧! キミは曽我部くんを愛してるんだろ!」

「は……?」
「え?」