慧はそう言って残酷に笑った。そんな言い方は彼らしくない。いや、らしいと言えばらしいのかもしれないが、彼の本質とその言葉は酷くかけ離れているような気がする。
 彼は曽我部を好いているのではないのか? 好きだからこそ会いたいと願い、探せと叫んでいたのではないのか? それがなぜそんなに冷たく切り離せるのだ?
 自分の中にある慧のイメージと、本人の言動が合致しない。違う、彼は本心を言っていない。
 心の隅でそれに気づきながら裕二は叫んだ。
「待って! 曽我部くんは、殺してないって言ってる、彼は犯人じゃないよ!」
「へえ……じゃあ誰が殺ったんだ? まさか、俺だとでも?」
 彼は違うと叫ぶと慧は眉を顰め、あからさまに不愉快そうな顔をした。そういえば以前結衣子が曽我部に人殺しが出来るとは思えないと反論したとき慧は怒った。いや、怒ったというよりは哀しんだと言うべきかもしれない。
 おそらく慧は丈一郎氏を殺したのが曽我部ではないと知っているのだ。
 では誰がと考えると、普通は慧しかありえない。だが……。
「ね、もしかして、現場には、キミと曽我部くんと丈一郎さんの他に、誰かいたんじゃないの?」
 訊ねると慧は一瞬息を呑み瞠目した。だが明確には答えない。
「は、なぜそう思う? いるわけないだろ、丈一郎さんはガキ遊びをするとき、側近もボディガードも傍におかない、一人で楽しむのが好きなんだ、だからあの日も誰もいなかった」
「でも、じゃあ誰が曽我部くんに電話を入れたの? 側近の人がするはずないし、そこに誰かいたと考えないとおかしいじゃない?」
「電話?」
「うん」
 曽我部は、慧が攫われたことを謎の電話で知らされている。その電話をかけてよこしたのは誰だ? そいつが丈一郎を殺し、その罪を曽我部に擦り付けるため、彼を呼んだのではないのか? そうと話すと慧は馬鹿なと呟き、黙り込んだ。その瞳には落ち着きがない。
「そこにはキミ達の他に誰かいた、キミはそれが誰なのか知ってるんだろ?」
「……あり得ない」
 弱々しく吐き出された声は少し震えていた。
 少女としか見えない華奢な肩でいつもよりいくぶんか高めの声でそう呟かれると心苦しくなる。彼は女の子ではないのに護ってやりたくなる。彼がそれを望むかは別にして、自分の手で護り、幸せにしてやりたくなる。
 だが実際は彼のほうが全然強いのだ。並居る猛者を一睨みで黙らせ、大男も一人で叩き伏せられる。それに引き換え自分は喧嘩一つしたことがない。
 だが腕力だけが護るという意味ではないはずだ。彼に支えが必要なとき、弱音を吐く場所が欲しいとき、傍にいてやれる。それだけでも意味はあるのかもしれない。
「心当たり、あるんだね? 誰? それは」
「榊《さかき》……」
「榊? 誰?」
 それは聞いたことのない名だ。もう一度、訊ねてみたが慧は答えなかった。だが慧の中ではなにか納得がいったのだろう、無言ながらなるほどなというような表情で頷いた。
「真犯人が誰かなんてどうでもいいんだよ、偽でもいいから、下手人を捕まえて鵜飼さんに引き渡す、そこで恩を売っておけば、楽な取引が出来る……それに、岩瀬も邪魔だしな」
「慧! それ本気? そんなことしていいと、本気で考えてるの!」
「本気? 決まってるだろ、奴らを消すんだ、岩瀬も曽我部も、全部! 俺の邪魔をする奴はみんな、叩き潰してやるのさ」
「ダメだ、そんなの! 曽我部くんは友だちなんだろ? なんでそんなこと、キミらしくないよ!」
「らしくない? なにがだ」
 裕二が止めると慧はムッとした表情で立ち上がった。羽織った上着が跳ね上がり、白い肌が現れる。まるで少女のような姿態に、不謹慎にもドキリとした。彼は裕二の動揺に気づかずか、声高に叫ぶ。
「俺は俺らしく生きたことなど生まれてこの方、一度もない! 自由になりたい、そう願ってなにが悪い? 邪魔者は蹴落としてやる、誰でも何人でも! 裕二、たとえお前でも、止める気なら容赦しないぞ」
「慧……」

 自分らしく生きたことなど一度もない。やや高い声でそう叫ぶ慧に息を呑んだ。死を夢見たくなる絶望。それが彼を追い詰めている。そう思うとなにも言えなくなる。
 慧はとにかくまずは曽我部だと言って羽織っていた上着を脱ぎ捨てた。緩やかなカーブを描く姿態に目を奪われそうになり、裕二は思わず視線を下げる。クスッと鼻で笑うような声が聞こえた。
 彼からしてみれば、自分の裸にいちいち反応する裕二が面白いのだろう。からかわれていると思ったが、顔は上げられなかった。
「なにしてる、行くぞ」
「え……?」
 暫く俯いたままでいると、慧はその間に着替えを済ませたらしい、派手なダブルのスーツを着込み、ついて来いと目線で裕二を呼んでいた。
「どこ行くの?」
 慌てて追いかける。慧は決まってるだろと小さく答え、部屋を出る。

「斉藤! 出かけるぞ、ついて来い」
 部屋から出るなり、彼は斉藤を呼びつけ、一緒に来いと言った。向かいにある事務所から出てきた斉藤は、どちらへと小声で尋ねる。山梨だと答える声が聞こえた。
 慧は曽我部に会いに行く気なのだ。だが彼は慧に一人で来いと行った。斉藤を連れて行くのは約束違反だ。責める目をする裕二に、慧はチラリと振り返る。
「一人で来いと言われて、本当に一人で行く馬鹿はいないぜ」
 冷たくそう話しながら慧は斉藤になにか耳打ちをする。斉藤はそれに頷き、チラリと胸の内ポケットを確認した。一瞬だが小型の銃らしきモノが見えた。慧は曽我部を殺す気だ……そんな予感に戦慄が奔る。

 裕二は困惑した。これまで自分が思ってきた慧のイメージと今の慧ではまるで感じが違う。まるっきり別人のようだ。あの日、屋上から飛んだ慧と今ここにいる慧は本当に同じ人間なのか? もしそうならなにが慧を変えたのだ? いくら考えても答えは出ない。
 だが以前、なぜそんなことをするんだと問う裕二に、知りたいならついて来いと慧は言った。だから今も、知りたいならついて行くしかない。そう決心し、裕二はその後に続いた。曽我部の居場所は澤田と裕二しか知らないということで道案内役だ。そのまま三人で出かけようと階段を下りて行く。
 だがその途中で事務所の電話が鳴る音がし、なにかあったかと一同は立ち止まった。電話にはそのとき事務所番をしていた遠藤がでたようだ。暫く様子を見ていると、数十秒後、事務所の戸が開き、遠藤が顔を出す。
「藤宮さん、御邸《おやしき》からです」
 その途端、慧の顔色が変わる。まるで死刑宣告を聞いた囚人のように戦慄き、唇は色を失くしていた。握り締められ過ぎた拳も震えている。
「藤宮さん?」
 慧の様子がおかしいことに気づいた遠藤は、顔色を変え背後へ振り返る。

 その電話を切れ──────!

 遠藤より早くそれに気づいた斉藤も、慧を背後に隠して遠藤を睨んだ。だが手遅れだ、電話は既にかかってきているし、遠藤はそれをとった。相手が藤宮慧はそこにいるかと確認し、遠藤はいると答えている。出ないわけにはいかない。慧もそれをわかっているのだろう、息を呑み、覚悟を決めたように顔を上げた。
「いい、斉藤、どけ」
 立ち塞がる斉藤を下がらせ、慧は前へ進む。そして事務所入り口に立つ遠藤に下がってろと告げた。
「遠藤、ここは斉藤だけで充分だ、お前は(自分の)部屋へ戻れ」
「しかし……」
「いいから戻れ!」
「……はい」
 慧の迫力に巨漢の遠藤も黙る。そして慧が心配なのだろう、何度も振り向き、その意思を確認してから渋々と下がった。
 遠藤の姿が見えなくなるまでそこに立ち尽くしていた慧は、おもむろに踵を返し、事務所内へ入って行く。だが斉藤が後に続こうとすると、彼はそれを制した。そこで待っていろ……目線でそう告げ、事務所のドアは閉じられた。
 斉藤と一緒に締め出された形になる裕二は、不安に駆られながらおずおずと隣にいる斉藤を見上げる。
「あの……御邸、というのは?」
「ぼっちゃんのご実家ですよ、お父上の藤宮力也氏がお住まいになっています」
「慧の実家……」
 家から電話がかかってきただけなのに慧はなぜあんなに震えていたのだろう? 仲の良くない親子であることはわかっているが、それだからと言って、あれほど怯えなくともいいではないか。なにか他に事情でもあるのか?
 疑問を高まらせた裕二は、その理由を斉藤が知っているのかどうかを訊ねようとした……だがそのとき、部屋の中で慧の怒鳴り声が聞えた。

────話が違うっ!