曽我部と別れた裕二は、数日間、あれこれ考えた挙句、澤田の元へは行かず、慧のいる部屋へと向かった。曽我部の言葉を聞かせたかったからだ。それに、曽我部から聞いた話が真実なのかを確かめたい。聞いたからといって慧が答えてくれるとは思えないが、聞かずにおけない。
 もしも本当に曽我部の言うとおりなのだとしたら、それはどういう意味になるのか、聞くのが少し怖かった。
 だがここまで来たら聞かないほうが気になってしまう。自分で助けになるのか、それもわからないが、少なくとも慧は自分になにか求めここへ連れて来たはずだ。ひ弱で誰かと殴り合ったこともない自分を傍におくことで彼は安らぎを得ようとしている。そう考えればそれが自分の役目だとさえ思えた。

「慧……?」

 いなければいいのに……半分そんな気持ちで慧の部屋のドアを開けた。しかしその期待に反し、慧はそこにいた。シャツを脱ぎ、半裸になっていた慧は、部屋の片隅でドアに背を向ける形で佇んでいる。曽我部の言葉のあとだからかもしれない、その腰が異様に細く華奢に見えた。
 なにをしているんだろう? ふと感じた疑問の答えはすぐに見つけられた。佇む慧の正面に鏡がある。全身が映る大きな鏡だ。慧はそれをジッと見ていた。ごくりと息を呑み、裕二もそこに映る慧を見ようとした。だがその画にピントを合わせる前に鏡は壊れた。慧がいきなり鏡を殴ったのだ。鏡は粉々に砕け、それを殴りつけた慧の拳も血に塗れていた。
「なにしてるんだ!」
 思わず怒鳴ると、慧はそこで初めて裕二が見ていたことに気づいたのだろう、一瞬びくりと震え、肩越しに振り向く。まるで鳥類のように身体はそのまま、顔だけをこちらに向けた慧の顔は半分以上見えない。見えるのは異様に光る目だけだ。それは昼間にも関わらず、ひどく冷たく恐ろしいモノに見えた。
「裕二……いつからそこにいた?」
 硝子玉のように動かない瞳で慧は訊ねた。いつも耳にしている潔く張りのある少年らしい声とはまるで違い、その声は細く高く聞こえた。
「今、来たところだよ……慧、なにしてたの?」
 震える声で訊ね返すと慧は裕二のいる入り口側に背を向けたまま、別にと無愛想に答えた。裕二もまさかと思いながら、おずおずと近づく。
「怪我、したでしょ、見せて、ね、こっち向いて」
「たいしたことはない、大丈夫だ」
「でも……」
「大丈夫だ!」
 追求すると慧は苛々した声で怒鳴った。だがやはりいつもより声が高いような気がする。
 まさか本当に女性なのかとドキドキしながら、裕二はその距離を縮める。裕二が近づくにつれ、慧はその身体を隠すように背けようとした。そうなると、確かめないわけにはいかなくなる。裕二も思い切って手を伸ばす。
「いいから、見せて!」
「やめろ……っ!」
 刹那、怒鳴りあい、揉み合いながら、慧の細い肩を引く。力任せに振り向かせた彼の胸には、曽我部が言った通り、微かだが確かな膨らみがあった。
「慧……」
 そのまま二人共、真正面から向き合い、なにも言えなくなった。驚きで見開かれた裕二の瞳と、屈辱に赤く染まった慧の目が交錯する。女性と呼ぶには希薄な胸は、それでも緩やかに優しい曲線を描き、その乳房の先からは仄かに少女の香りがする。

 女の子だ――――――。

 そう思った途端、カッと顔が火照った。大変なことをしたと気づき、慌てて後ろを向く。
「ごめん、ごめんなさいっ!」
 その場から駆けて逃げ出したい恥ずかしさに、背中を硬くしながら裕二は叫んだ。慧がなんと思ったか、それを考えるといたたまれない。だが背後にいるはずの慧はなにも言い出さない。重苦しい沈黙だけがその場を支配し、動悸は高まる。その動悸がなにからくるものなのか、それすら考えられないほど頭の中は混乱していた。

 慧が女性だった。女性……女の子、少女、女……。

 今見たばかりの幼い乳房と、悔しそうな慧の顔が頭の中でぐるぐると回る。動悸と眩暈で目を開けているのに目の前が暗くなり、思わず固く目を瞑る。するとそのまま動けなくなった裕二の横を柔らかく甘い匂いを振りまきながら慧が通り過ぎて行く。その気配を感じてまた慌てて目を開けた。
 慧は静かに部屋の入り口まで歩き、まだ少し開きかけていた扉を閉めた。そしてカチャリと鍵をかけ、再びゆっくりとした足取りで裕二のほうへ戻って来る。開かれた胸を隠すこともしない慧を見つめ、裕二のほうが赤面した。
 どうしよう、どうしよう、どうしよう……頭の中は混乱し過ぎて真っ白で、顔は赤くなり、身体は火照る。慧は容赦なく近づいてくる。ごめんなさいと叫び、その場で土下座したくなった。だがその前、慧の手が裕二の肩にかかる。
「見たな?」
「う……」
「見たな?」
「……見、ました」
 裕二は満員電車の中でつるし上げられた痴漢のような気分で、おずおずと答える。慧になんと言われるか、それを考えると、大声で叫びながら、部屋中、走り回りたくなる。しかし慧は気を取り直したのか、いつもと同じ調子でふんと小さく鼻を鳴らした。
「見たもんはしょうがないな、誰にも言うんじゃないぞ」
「え……? いや、でも」
 嫌がる女の子の裸を無理矢理見たというのに、そんな軽く許されて良いのか? それに、それは重大な秘密なんじゃないのかと言いかけて、その口は止まる。慧は面白そうな表情で、微かに口角を上げていた。
「俺一人じゃなにかと無理がある、そろそろもう一人くらいは、全てを知る人間を作るべきだと思ってたんだ、お前の予定じゃなかったんだが、まあいい、見られたからには仕方がない、お前にしとく」
「え、それ、どういう……」
 その言葉尻が引っかかった。それはつまり、結衣子は慧が女だと知らないということになり、尚且つ、その秘密を知らせ、味方に引き込むつもりで予定していた人間が他にいたことになる。
「誰かに話す気だったの? 誰に? 石田さん? それとも斉藤さんとか?」
「奴らじゃないさ、味方にしとくのはもう少しバカがいいんだ、俺の言うことを疑わずに聞いてくれるような」
「……って、澤田さん?」
「正解」
 バカと言われて澤田を連想したことを後ろめたく感じながら、裕二はニヤつく慧を見返した。見られたことで開き直ったのか、彼は柔らかな乳房を見せ付けたまま、実はなと、話を始めようとする。だが正直不味い、気が散ってしょうがないし、目のやり場に困る。
「慧……と、とりあえず、なんか着て」
「なんだ、こんな貧相な胸が気になるのか? お前童貞だろ?」
「どう……って! やめろよ、お、女の子がそんな……」
 男女差別をするつもりではないが、やはり女の子にはそんな口を利いて欲しくない。ついそう口ごもると、慧は面白くなさそうに裕二を睨み、少し離れた。そしてソファの背もたれに脱ぎ捨ててあったジャケットを羽織ってその場に腰掛ける。なにを考えているのか、顔の前で両手を組んでじっと裕二を見据えていた。
「これでいいだろ、とりあえず、座れ」
「よくないよ、もっとちゃんと着て、せめてボタン留めて」
 羽織っただけの上着では素肌が丸見えだ。動くたび全て露になりそうで気が気ではない。そう訴えると慧は面倒な奴だなと呟き、ジャケットのボタンを閉じた。
「もういいだろ、座れ」
「わかったよ」

 そこが限界らしい、早く座れと促され、裕二も観念して腰掛ける。すると慧はなにか値踏みするように、裕二の全身をジロジロと見つめ、浅い溜息をついた。なんとなく、失望されている気になる。
 いや、おそらく、それは正解なのだろう。考えてみれば、澤田なら護衛としても役立つが、自分では何も出来ない、逆に足手纏いだ。慧もそう思っているのだろうなと思うと申しわけなくなる。
 だが自分は慧に選ばれていたはずだ。彼は自分になにかを求め、ここに留まるようにと言ってくれたはずで、そう思えばなにかの力にはなれる。そう思いなおし、顔を上げた。
「キミは、女の子だったんだね、慧」
 いきなり最初から思っていた疑問を突きつけると、慧は少し困ったような顔をした。だが意外なほどあっさりとそれを否定する。
「それは違うよ、裕二」
「え?」
 なにが違うのかわからない。彼の身体はどう見ても女性だ。顔もボディラインも少し細身で美しいだけの男に見えるが、女性だ。声だって男の声というよりは、女性のそれに聞える……そこまで考えて、裕二もふと疑問が浮かんだ。そういえば日頃の慧はこんな高い声ではなかった。いくら綺麗でも男だと確信できる声とボディラインを持っていたような気がする。それに気づいたことに気づいたのか、慧はニヤリと笑った。
「俺は女じゃない、わかるだろ?」
「それは……でも、それじゃあ」
「戸籍上の性別は男だ、俺自身もそうだと思っている」
「え、じゃあ、あの……」
 性同一性障害……頭にはその単語が浮かんだ。だが慧は、それも否定した。そんな問題ではないのだ。
「IS(インターセックス)ってのを知ってるか?」
「IS?」
「ああ、昔は半陰陽とか両性体とか言われて、見世物小屋なんかで働かされてたって例もある、今じゃISって呼び方も気に食わないっていうヤツが増えてきて、違う名称にしようともめてるらしいが、そんなことどうだっていい、一般人から見れば一緒だ、ようするに、男とも女とも言い切れない、判別出来ないってヤツさ……医学的にはな」

 ISの定義は未だ曖昧だ。本人が男女どちらかの性を自覚している場合もあれば、本人も自分がどちらなのかわからないという場合もある。外性器も、両性分を備えている者もいれば、見た目は男性か女性、どちらかの性に見える者もいる。その場合は、内性器や身体内にもう一つの性に対応する性器官を持っている。または生殖器官が欠損していることもある。どちらにしても生まれたとき顕著に現れている性を戸籍上の性別とする例が多く、慧の場合、生まれたとき男性器があったことから性別は男と登録された。
 だがここが複雑で、見た目男性であっても、内側に女性に対応する器官があれば女性としての発達もする。思春期になれば乳腺が発達し始め、胸は膨らんでくるし、子宮や卵巣が機能していれば、初潮も見られる。未熟ながら排卵もする。だが身体の構造上、たいていのISは、早期に女性化の処置を受けなければ、大人になっても妊娠出産は難しいと言われている。
 処置は出来るだけ早く、赤ん坊のうちにするのが望ましいのだが、女性化の処置とはすなわち男性としての機能や器官を取り除き、女性ホルモンを投与するということで、その処置を受ければもう男にはなれない。そこが問題だった。