暫く結衣子と二人で慧の目覚めるのを待っていたが、彼はなかなか目を開けない。さすがに少し疲れてきた裕二は、一息入れようと病室を出て待合室へ向かった。
すっかり暗くなり、病院はもう閉まっている。今、院内にいるのは医者と看護婦、それに入院患者と自分らだけだ。灯りの落された薄暗い待合室で、自動販売機だけが異様に明るく見える。
裕二はポケットから小銭を取り出して幾枚かを放り込み、カフェオレのボタンを押した。カタンと小さな音がして、紙コップが落ちて来る。その中にコポコポと音を立てながらカフェオレが落ちていくのを、見るともなしに見つめ、飛び立ったときの慧の顔を思い浮かべた。
なんとも言えない顔をしていた。レミングの鼠、ふとそんな話を思い出す。
種として増え過ぎ、生きることに限界が来た鼠たちが、一斉に海を目指し走る。まるでそこが行くべき場所だと信じるかのように、それが正しい行動だとの信念を持っているかのように、我先に海へと飛び込んで行くというやつだ。
それはたとえ話、寓話であり、実際はそんな話はない。たまたま鼠が水に落ちるのを見た誰かが、そんな話にでっち上げただけだ。だがあのとき、散歩に行ってくると言って足を踏み出した慧の横顔は、まさしくその鼠に見えた。それは本能とでも言ったらいいのだろうか、あの空が、慧にとって、全てを取り戻せる約束の地に見えたのかもしれない。
慧がなにを取り戻したかったのか、なにを求めたのか、それはわからない。だいたいこれは自分の想像でしかない。物書きとしての性で、有りもしない話を思い描き、勝手に彼に押し付けているだけかもしれない。しかしその想像は、消すことが出来ない妄想になり、裕二の中に棲み付いた。
考えことをしている間にカフェオレは紙コップに満たされていた。身を屈めてカップを取り出すと、少し時間が経ちすぎたらしい、すっかり冷めている。冷めたカフェオレはそれでもまだなんとか温もりを残していて、口をつけると喉の奥に流し込まれる温かみで、どこかホッとする。だがそのとき、病室のある棟のほうから、高い靴音が響き、その音の後を結衣子が追って来ているのが見えた。
「待って慧、だめよ、まだお医者さまは退院していいって言ってないわ、ねえ慧!」
靴音も高く歩いて来たのは、驚いたことに慧だった。さっき、ほんの数時間前に四階から落ちたというのに、何事もなさそうな顔で歩いている。
何かを睨みつけるような目で、早足に歩く慧を結衣子は必死で追っていた。当然だ、まだ検査だって全部すんではいないだろう。退院だなんてそれこそ自殺行為だ。だが慧は、縋る結衣子に振り向きもしなかった。
カツカツと高い音を立てる靴は、エナメル製で赤い。屋上で見たときは気付かなかったが、穿いているズボンは焦げ茶色した革製のようだ。白いシャツには点々と赤い染みがあり、それが模様なのか、本当になにかの染みなのかわからない。赤茶けた革のジャケットを羽織り、首には細い金鎖のネックレス。そして印象的な赤いピアスを嵌めている。似合うと言えば似合うのだが、なんとなく、アンバランスに見えた。それは綺麗に整った顔立ちに合わない、殺気だった雰囲気のせいかもしれない。
振り返ることなく、真っ直ぐ前を見て歩いて来る慧は、まだ十八だというのに、戦国時代の武将のように、鋭く、そしてどこか儚さを感じさせる目をしていた。
「ちょっとキミ、どこへ行く気なんだ、まだ休んでなきゃ……」
慧を止めようと裕二が声をかける。だが彼はジロリと刺すような視線を向けただけで、そのまま立ち去って行こうとした。それは血も涙もないヒトデナシといった風情で、とてもあのとき、学校の屋上で声をかけてきた少年と同じ人間には見えない。
あのときの慧は、少し風変わりではあるが、人好きのする普通の少年に見えた。
少しだけ変わってるなんてこと、誰にだってある。誰だってどこか人と違うモノだ。
普通に学校へ行き、友人とはしゃいで、彼女とデートもして、少しくらい気に入らないことがあったとしても、笑い飛ばすことが出来る。そんなごく当たり前の人間に見えた。
だが今、結衣子を振り切り、通り過ぎていく彼は、友人も仲間も恋人もない、必要としない、凍った血を持つ男に見える。住む世界が違うとはこのことだ。自分はこの少年を理解出来ないし、彼もこちらを理解出来ないだろう。瞬時にそう思った。
しかしこのまま帰るなど、どう考えても無茶だ。裕二は出て行こうとする慧の前に立ち塞がる。
「待って! 休んでなきゃだめだって」
「退け、邪魔だ」
慧は、立ち塞がる裕二を突き飛ばし、出口を目指す。それでも行かせられないと再び立ち塞がると、慧はようやく立ち止まった。
「お前……」
慧は少し違和感のある表情で裕二を見つめ、やがて思い出したようにニヤリと笑った。
「そうか、お前、さっきの……」
「その人は慧を心配してずっとついててくれたのよ」
「ふん、自分の命は勝手に捨てるくせに、人のことは心配するのか」
追いかけて来た結衣子が息を切らせながら説明すると、慧は皮肉めかした笑みを浮かべて、首を傾げた。後ろの結衣子と、前にいる裕二を交互に見て笑うその表情は、その日、屋上で見た少年の顔だ。
阿修羅の如く見えた慧だが、笑うととても可愛い。まだまだ子供といった風情で、裕二はそのギャップに目を丸くした。戸惑う裕二に、慧は少し子供っぽくなった表情で問いかける。
「お前、名前は?」
「あ、佐々木です、佐々木裕二《ささきゆうじ》」
相手は自分より確実に年下だとわかっていたが、口から出たのは敬語だった。
なぜだろう? 慧には気安く口を利いてはいけないような雰囲気がある。王者の風格とでも言えばいいのか、実年齢はともかくとして、たかが原稿を燃やされたくらいで死にたくなるような軟弱な自分なんかよりずっと強く、気高く見えた。
「いくつだ?」
「二十二です」
「二十二か、俺よか四つ上だな」
慧はそう呟くと、さっきよりずっと柔らかくなった表情で、またスタスタと出口を目指す。
「心配なら付いて来い」
振り向きもせずそう付け足した慧を、結衣子と二人で急いで追いかける。病院の玄関を出ると、目の前にはアイボリーのベンツが停まっていた。ベンツの横には、いかにもといった風情の、三十代と思われる男が控えている。男は、慧が出てくると腰を低くして礼をとった。
「お疲れさまです、どうぞ」
低い声でそう促す男に、慧は目線だけで会釈し、どうぞと開けられたベンツへ乗り込んだ。そして、男がドアを閉める前に顔を覗かせ、裕二らを見つめる。
「結衣子、お前も乗れ」
指図を受けた結衣子は黙ってベンツに近づいて行く、だが慧は、さらにもう一言付け足した。
「裕二、お前もだ」
「え? 僕……?」
「そうだ、どうせ死ぬつもりだったんだろ? 俺のお陰で命拾いしたようなもんじゃないか、ならその命は俺のもんだ、いいから乗れ」
「……はい」
慧の押しに負ける形で、裕二はあきらかに胡散臭いとわかるベンツに乗った。
後部座席に慧、結衣子、裕二の順で座ると、ベンツは音もなく走り出す。ネオンも消えた真夜中の町は暗く、一寸先も覗けぬ風情だ。ヘッドライトの灯りだけを頼りに進むベンツの中で、裕二は埒もなく、慧の横顔を見つめていた。
すっかり暗くなり、病院はもう閉まっている。今、院内にいるのは医者と看護婦、それに入院患者と自分らだけだ。灯りの落された薄暗い待合室で、自動販売機だけが異様に明るく見える。
裕二はポケットから小銭を取り出して幾枚かを放り込み、カフェオレのボタンを押した。カタンと小さな音がして、紙コップが落ちて来る。その中にコポコポと音を立てながらカフェオレが落ちていくのを、見るともなしに見つめ、飛び立ったときの慧の顔を思い浮かべた。
なんとも言えない顔をしていた。レミングの鼠、ふとそんな話を思い出す。
種として増え過ぎ、生きることに限界が来た鼠たちが、一斉に海を目指し走る。まるでそこが行くべき場所だと信じるかのように、それが正しい行動だとの信念を持っているかのように、我先に海へと飛び込んで行くというやつだ。
それはたとえ話、寓話であり、実際はそんな話はない。たまたま鼠が水に落ちるのを見た誰かが、そんな話にでっち上げただけだ。だがあのとき、散歩に行ってくると言って足を踏み出した慧の横顔は、まさしくその鼠に見えた。それは本能とでも言ったらいいのだろうか、あの空が、慧にとって、全てを取り戻せる約束の地に見えたのかもしれない。
慧がなにを取り戻したかったのか、なにを求めたのか、それはわからない。だいたいこれは自分の想像でしかない。物書きとしての性で、有りもしない話を思い描き、勝手に彼に押し付けているだけかもしれない。しかしその想像は、消すことが出来ない妄想になり、裕二の中に棲み付いた。
考えことをしている間にカフェオレは紙コップに満たされていた。身を屈めてカップを取り出すと、少し時間が経ちすぎたらしい、すっかり冷めている。冷めたカフェオレはそれでもまだなんとか温もりを残していて、口をつけると喉の奥に流し込まれる温かみで、どこかホッとする。だがそのとき、病室のある棟のほうから、高い靴音が響き、その音の後を結衣子が追って来ているのが見えた。
「待って慧、だめよ、まだお医者さまは退院していいって言ってないわ、ねえ慧!」
靴音も高く歩いて来たのは、驚いたことに慧だった。さっき、ほんの数時間前に四階から落ちたというのに、何事もなさそうな顔で歩いている。
何かを睨みつけるような目で、早足に歩く慧を結衣子は必死で追っていた。当然だ、まだ検査だって全部すんではいないだろう。退院だなんてそれこそ自殺行為だ。だが慧は、縋る結衣子に振り向きもしなかった。
カツカツと高い音を立てる靴は、エナメル製で赤い。屋上で見たときは気付かなかったが、穿いているズボンは焦げ茶色した革製のようだ。白いシャツには点々と赤い染みがあり、それが模様なのか、本当になにかの染みなのかわからない。赤茶けた革のジャケットを羽織り、首には細い金鎖のネックレス。そして印象的な赤いピアスを嵌めている。似合うと言えば似合うのだが、なんとなく、アンバランスに見えた。それは綺麗に整った顔立ちに合わない、殺気だった雰囲気のせいかもしれない。
振り返ることなく、真っ直ぐ前を見て歩いて来る慧は、まだ十八だというのに、戦国時代の武将のように、鋭く、そしてどこか儚さを感じさせる目をしていた。
「ちょっとキミ、どこへ行く気なんだ、まだ休んでなきゃ……」
慧を止めようと裕二が声をかける。だが彼はジロリと刺すような視線を向けただけで、そのまま立ち去って行こうとした。それは血も涙もないヒトデナシといった風情で、とてもあのとき、学校の屋上で声をかけてきた少年と同じ人間には見えない。
あのときの慧は、少し風変わりではあるが、人好きのする普通の少年に見えた。
少しだけ変わってるなんてこと、誰にだってある。誰だってどこか人と違うモノだ。
普通に学校へ行き、友人とはしゃいで、彼女とデートもして、少しくらい気に入らないことがあったとしても、笑い飛ばすことが出来る。そんなごく当たり前の人間に見えた。
だが今、結衣子を振り切り、通り過ぎていく彼は、友人も仲間も恋人もない、必要としない、凍った血を持つ男に見える。住む世界が違うとはこのことだ。自分はこの少年を理解出来ないし、彼もこちらを理解出来ないだろう。瞬時にそう思った。
しかしこのまま帰るなど、どう考えても無茶だ。裕二は出て行こうとする慧の前に立ち塞がる。
「待って! 休んでなきゃだめだって」
「退け、邪魔だ」
慧は、立ち塞がる裕二を突き飛ばし、出口を目指す。それでも行かせられないと再び立ち塞がると、慧はようやく立ち止まった。
「お前……」
慧は少し違和感のある表情で裕二を見つめ、やがて思い出したようにニヤリと笑った。
「そうか、お前、さっきの……」
「その人は慧を心配してずっとついててくれたのよ」
「ふん、自分の命は勝手に捨てるくせに、人のことは心配するのか」
追いかけて来た結衣子が息を切らせながら説明すると、慧は皮肉めかした笑みを浮かべて、首を傾げた。後ろの結衣子と、前にいる裕二を交互に見て笑うその表情は、その日、屋上で見た少年の顔だ。
阿修羅の如く見えた慧だが、笑うととても可愛い。まだまだ子供といった風情で、裕二はそのギャップに目を丸くした。戸惑う裕二に、慧は少し子供っぽくなった表情で問いかける。
「お前、名前は?」
「あ、佐々木です、佐々木裕二《ささきゆうじ》」
相手は自分より確実に年下だとわかっていたが、口から出たのは敬語だった。
なぜだろう? 慧には気安く口を利いてはいけないような雰囲気がある。王者の風格とでも言えばいいのか、実年齢はともかくとして、たかが原稿を燃やされたくらいで死にたくなるような軟弱な自分なんかよりずっと強く、気高く見えた。
「いくつだ?」
「二十二です」
「二十二か、俺よか四つ上だな」
慧はそう呟くと、さっきよりずっと柔らかくなった表情で、またスタスタと出口を目指す。
「心配なら付いて来い」
振り向きもせずそう付け足した慧を、結衣子と二人で急いで追いかける。病院の玄関を出ると、目の前にはアイボリーのベンツが停まっていた。ベンツの横には、いかにもといった風情の、三十代と思われる男が控えている。男は、慧が出てくると腰を低くして礼をとった。
「お疲れさまです、どうぞ」
低い声でそう促す男に、慧は目線だけで会釈し、どうぞと開けられたベンツへ乗り込んだ。そして、男がドアを閉める前に顔を覗かせ、裕二らを見つめる。
「結衣子、お前も乗れ」
指図を受けた結衣子は黙ってベンツに近づいて行く、だが慧は、さらにもう一言付け足した。
「裕二、お前もだ」
「え? 僕……?」
「そうだ、どうせ死ぬつもりだったんだろ? 俺のお陰で命拾いしたようなもんじゃないか、ならその命は俺のもんだ、いいから乗れ」
「……はい」
慧の押しに負ける形で、裕二はあきらかに胡散臭いとわかるベンツに乗った。
後部座席に慧、結衣子、裕二の順で座ると、ベンツは音もなく走り出す。ネオンも消えた真夜中の町は暗く、一寸先も覗けぬ風情だ。ヘッドライトの灯りだけを頼りに進むベンツの中で、裕二は埒もなく、慧の横顔を見つめていた。