「曽我部くんは人のモノを盗ったりしません」
はっきりとそう言った慧は、さらに、時間的にも状況的にも曽我部に金を取り出して隠すの無理だし、なくなれば騒ぎになるとわかっていてそんなことをするほど曽我部は馬鹿じゃないですと付け足した。滅多に口を開かない物静かな優等生の慧がそう言うのだ、担任もそうだなと納得した。
結局、犯人はわからないままで、足らない給食費はクラスの予備予算から補填され、事件はうやむやになってしまったが、冤罪だけは免れた。
「すまねえ、なんか助かった」
気まずい思いで礼を言う曽我部に、慧は当然だろ、友だちじゃないかと笑った。
「友だち? え……だっけ?」
「……違うの?」
いつから友だちになったんだと腑に落ちなかった曽我部が聞き返すと、慧はポカンとした表情で、違うのかと聞き返す。咄嗟に返事が出来なくて黙り込んだ。すると慧は急に悲しそうな顔になった。
「ごめん、なんか、勝手に……」
「あ、いや」
慧の泣きそうな顔を見て気づいた。彼には自分以外に親しく口を利くような相手がいなかったのだ。
女の子のような可愛い顔と上品そうな立ち居振る舞い、モノ慣れぬ雰囲気と優れた頭脳。曽我部とはまた違った意味で慧は浮いていた。誰もがみな無意識にこいつは自分たちとは違うと線引きをして遠巻きにしていた。一目置かれていたのではない、敬遠されていたのだ。そう気づいたとき曽我部の中で何かが変わった。慧に初めて会ったときの感動とときめきを思い出し、胸が熱くなる。
「俺たちは友だちなんかじゃないぜ、親友だ」
チッチと指を振り、胸を張って答える。ちょっと屁理屈だったかなと思ったが、慧は顔をあげ、まだ濡れている瞳で笑ってくれた。
「そっか……」
「そうそう」
「うん、そうだね、親友だ」
慧は親友という言葉を噛みしめるように嬉しそうに微笑む。曽我部はわけもなくドキドキしながら相槌を打った。
それからは何をするにもどこに行くにも一緒だった。途中からは幼馴染の結衣子も加わり、三人で笑いあった。ずっと一緒にいられると、思っていた。
時が経つにつれ慧もモノ慣れていき、最初の印象ほどお坊ちゃんではなくなったし、男気も増した。だがそれでもずっと、慧は曽我部にとって初恋の少女であり続けた。親友と呼び呼ばれ、事実そうであってもなお、その裏にあの日の美少女を見つけようとする。それが少しだけ心苦しかった。
*
さて、と曽我部は切り返した。裕二のほうはどうなのだと聞きたいらしい。それは斉藤にも聞かれた。お前は慧のなにを知っているのかと聞かれ、なにも知らないと答えると、そこで線引きをされたような気がする。なにも知らない者には話せないということだろう。肝心なところで逃げられた。もしかしたら曽我部も同じように線引きしようとしているのかもしれない。
嘘でもよく知っていると答えたほうがいいだろうかとも考えたが実際何も知らないし、突っ込まれたら答えられない。それに、知っているなら聞く必要はないだろうと言われそうだ。散々迷った末、裕二は正直になにも知らないんだと答えた。すると曽我部はふうと小さく息を吐き、じゃあまずお前のことを話せと言った。慧とはどこで知り合い、なぜ今一緒にいるのか、なぜ救いたいと思うのか、それを話せと迫る。裕二としても別に隠しているのではない。話せと言われれば話すがたいした経緯ではない。それもほんの数日間のことだ、説明は数分で済んでしまった。
こんな簡単でいいのだろうかとおずおずと顔を上げると、曽我部は思った以上に深刻そうな顔をしていた。眉間に皺をよせ、顔を顰め、口を真一文字に閉ざして、まるで最悪の戦況を聞く総大将のようだ。
どうしたんだと不安になりつい身を乗り出した。すると彼は苦虫を潰したような表情のまま重い口を開く。
「病院を抜け出して、そのまま、検査も治療もなしか」
「そうなんだよ、僕も心配で、でも僕が言っても慧は病院なんか行かないって」
「……だろうな」
曽我部はわかっていると話した。慧が病院嫌いなのは最初かららしい。
昔から彼は病院に行こうとはしなかった。熱を出そうが怪我をしようが絶対に行かないと言い張ったという。
一度だけ、慧が倒れた隙にこっそり病院へ運び込んだことがあったが彼は診察途中に目を覚まし激昂したらしい。
寝かされていた診察台から飛び起きて近くにあった点滴を吊るす鉄棒を握り締め、そいつでそこまで自分を運んで行った男達を殴り倒した。そして慧の診察をしていた医者にも殴りかかり、散々に打ち据えた。
医者が意識をなくしても凶行は止まず、そのまま放っておけば医者は殴り殺されただろう。そのとき、それを止めたのは先に殴り倒されていた曽我部だ。
「やめろ藤宮! それ以上やったら殺しちまう!」
「ぁあ?」
止めに入る曽我部を片目で睨み、それでも慧は手を止めようとはしなかった。彼の目には狂気が宿り、その凶行は相手の命が尽きるまで止まないのではないかと見えた。こんなことで彼を人殺しになどさせられない。曽我部は医者の前に立ちはだかる。
「やめろ!」
「うるさい! そこを退け!」
「退かない、もうやめるんだ」
「うるさいって言ってんだろ!」
やめろやめない、退け退かないのやり取りが何度か繰り返され、慧が金属棒を振り上げたまま、数分が経つ。そうするうちに先に倒されていた石田も意識を取り戻し、驚いて声を上げる。自分の周りには自分と同じく倒されたのだろう仲間が二人、目の前には点滴を吊るす金属棒を振り上げた慧がいて、その前には曽我部がいる。そして曽我部の背後には血塗れの医者がいた。
どうなっているのかわからずに動けなくなっていた石田の気配を察したのだろう、慧は手にした金属棒を勢い良く振り下ろした。ガツンと大きな音がして医院の床に亀裂が入る。どうやら殴るのはやめたらしい。
点滴用の金属棒は慧の手から離れ、カランと軽い音をたてて床に転がった。それを見るともなしに見つめる慧は肩で息をしていた。元々熱があったのだ、四十度近かった、身体はかなり辛いはずだ。それを察し、石田が動く。慧の影がゆらりと揺らぎ、そのまま崩れ落ちていく。
「藤宮!」
咄嗟に両手を伸ばした石田に支えられ、かろうじて倒れるのを防いだ慧は、今にも再び倒れそうな身体で瞳だけをギラつかせていた。
「余計なことをするな」
夜叉のごとく光った目をした慧は、自力で立ち上がることも出来ないほどふらふらだった。心配した石田はちゃんと医者に見てもらって薬を飲まなきゃダメだ、こいつが嫌なら別の医者を呼ぶからと説得する。だが慧は拒否した。医者など呼んでみろ、そいつもブチ殺してやると凄む。
「そんなに心配なら、お前がそこらで買って来い」
「いや、しかし……」
原因がわからないのに熱だけ下げるのはあまり良いことではない。もしかしたら大病かもしれないではないかと諭したが、慧は聞かなかった。仕方なく折れたのは曽我部と石田のほうだ。
二人は言うとおり、市販の熱冷ましを用意した。これを飲んで大人しく眠っててくれと話すと、慧もそれでいいと頷く。
「俺が寝てる間に勝手なことするなよ? 全員ブチ殺すからな」
「わかったよ」
「なんで、慧はそんなに病院を嫌がるのかな? 医者嫌いってこと?」
「医者嫌いにもほどがあるだろ、あいつのは嫌いなんてもんじゃない、医者を憎んでるんだ」
「どうして……あ」
そこまで聞いて裕二はようやく思いだした。慧の両親は、妻の不倫を知った戸籍上の父親、力也に殺された。だが実際手を下したのは力也ではなく、医師免許を持つ力也の部下だ。手足を切り落としても生きていられるようにするなど医者でなければ出来ない。
医師免許を持つそいつは力也の命じるまま、健康体である人間の両手足を切断するという大手術を力也の家の応接間で行ったのだ。
裕二はその現場を想像し身震いした。考えるだけで胃液が逆流しそうな話だ。
「両親を、殺されたから?」
「かもな……けどそれだけじゃない」
「どういうこと?」
「あいつ……」
曽我部はなにか言いかけてまた口を噤んだ。俯く顔を覗きこむと彼はなんとも言えない複雑な表情で口を固く結んでいた。そわそわと落ち着かない様子で裕二のほうをチラリと見てはまた顔を伏せる。
彼の瞼の端にヒクヒクと痙攣するような迷いが見えた。彼も、本当は言いたいのだろう。それなら口を割らせることはそう困難ではないはずだ。
裕二は根気よく問い詰め続けた。そしてやはり言いたかったのだろう。やがて曽我部は根負けしたように息を吐き、他の奴には話すなよと念を押して口を開いた。
「藤宮は……女なんだ」
はっきりとそう言った慧は、さらに、時間的にも状況的にも曽我部に金を取り出して隠すの無理だし、なくなれば騒ぎになるとわかっていてそんなことをするほど曽我部は馬鹿じゃないですと付け足した。滅多に口を開かない物静かな優等生の慧がそう言うのだ、担任もそうだなと納得した。
結局、犯人はわからないままで、足らない給食費はクラスの予備予算から補填され、事件はうやむやになってしまったが、冤罪だけは免れた。
「すまねえ、なんか助かった」
気まずい思いで礼を言う曽我部に、慧は当然だろ、友だちじゃないかと笑った。
「友だち? え……だっけ?」
「……違うの?」
いつから友だちになったんだと腑に落ちなかった曽我部が聞き返すと、慧はポカンとした表情で、違うのかと聞き返す。咄嗟に返事が出来なくて黙り込んだ。すると慧は急に悲しそうな顔になった。
「ごめん、なんか、勝手に……」
「あ、いや」
慧の泣きそうな顔を見て気づいた。彼には自分以外に親しく口を利くような相手がいなかったのだ。
女の子のような可愛い顔と上品そうな立ち居振る舞い、モノ慣れぬ雰囲気と優れた頭脳。曽我部とはまた違った意味で慧は浮いていた。誰もがみな無意識にこいつは自分たちとは違うと線引きをして遠巻きにしていた。一目置かれていたのではない、敬遠されていたのだ。そう気づいたとき曽我部の中で何かが変わった。慧に初めて会ったときの感動とときめきを思い出し、胸が熱くなる。
「俺たちは友だちなんかじゃないぜ、親友だ」
チッチと指を振り、胸を張って答える。ちょっと屁理屈だったかなと思ったが、慧は顔をあげ、まだ濡れている瞳で笑ってくれた。
「そっか……」
「そうそう」
「うん、そうだね、親友だ」
慧は親友という言葉を噛みしめるように嬉しそうに微笑む。曽我部はわけもなくドキドキしながら相槌を打った。
それからは何をするにもどこに行くにも一緒だった。途中からは幼馴染の結衣子も加わり、三人で笑いあった。ずっと一緒にいられると、思っていた。
時が経つにつれ慧もモノ慣れていき、最初の印象ほどお坊ちゃんではなくなったし、男気も増した。だがそれでもずっと、慧は曽我部にとって初恋の少女であり続けた。親友と呼び呼ばれ、事実そうであってもなお、その裏にあの日の美少女を見つけようとする。それが少しだけ心苦しかった。
*
さて、と曽我部は切り返した。裕二のほうはどうなのだと聞きたいらしい。それは斉藤にも聞かれた。お前は慧のなにを知っているのかと聞かれ、なにも知らないと答えると、そこで線引きをされたような気がする。なにも知らない者には話せないということだろう。肝心なところで逃げられた。もしかしたら曽我部も同じように線引きしようとしているのかもしれない。
嘘でもよく知っていると答えたほうがいいだろうかとも考えたが実際何も知らないし、突っ込まれたら答えられない。それに、知っているなら聞く必要はないだろうと言われそうだ。散々迷った末、裕二は正直になにも知らないんだと答えた。すると曽我部はふうと小さく息を吐き、じゃあまずお前のことを話せと言った。慧とはどこで知り合い、なぜ今一緒にいるのか、なぜ救いたいと思うのか、それを話せと迫る。裕二としても別に隠しているのではない。話せと言われれば話すがたいした経緯ではない。それもほんの数日間のことだ、説明は数分で済んでしまった。
こんな簡単でいいのだろうかとおずおずと顔を上げると、曽我部は思った以上に深刻そうな顔をしていた。眉間に皺をよせ、顔を顰め、口を真一文字に閉ざして、まるで最悪の戦況を聞く総大将のようだ。
どうしたんだと不安になりつい身を乗り出した。すると彼は苦虫を潰したような表情のまま重い口を開く。
「病院を抜け出して、そのまま、検査も治療もなしか」
「そうなんだよ、僕も心配で、でも僕が言っても慧は病院なんか行かないって」
「……だろうな」
曽我部はわかっていると話した。慧が病院嫌いなのは最初かららしい。
昔から彼は病院に行こうとはしなかった。熱を出そうが怪我をしようが絶対に行かないと言い張ったという。
一度だけ、慧が倒れた隙にこっそり病院へ運び込んだことがあったが彼は診察途中に目を覚まし激昂したらしい。
寝かされていた診察台から飛び起きて近くにあった点滴を吊るす鉄棒を握り締め、そいつでそこまで自分を運んで行った男達を殴り倒した。そして慧の診察をしていた医者にも殴りかかり、散々に打ち据えた。
医者が意識をなくしても凶行は止まず、そのまま放っておけば医者は殴り殺されただろう。そのとき、それを止めたのは先に殴り倒されていた曽我部だ。
「やめろ藤宮! それ以上やったら殺しちまう!」
「ぁあ?」
止めに入る曽我部を片目で睨み、それでも慧は手を止めようとはしなかった。彼の目には狂気が宿り、その凶行は相手の命が尽きるまで止まないのではないかと見えた。こんなことで彼を人殺しになどさせられない。曽我部は医者の前に立ちはだかる。
「やめろ!」
「うるさい! そこを退け!」
「退かない、もうやめるんだ」
「うるさいって言ってんだろ!」
やめろやめない、退け退かないのやり取りが何度か繰り返され、慧が金属棒を振り上げたまま、数分が経つ。そうするうちに先に倒されていた石田も意識を取り戻し、驚いて声を上げる。自分の周りには自分と同じく倒されたのだろう仲間が二人、目の前には点滴を吊るす金属棒を振り上げた慧がいて、その前には曽我部がいる。そして曽我部の背後には血塗れの医者がいた。
どうなっているのかわからずに動けなくなっていた石田の気配を察したのだろう、慧は手にした金属棒を勢い良く振り下ろした。ガツンと大きな音がして医院の床に亀裂が入る。どうやら殴るのはやめたらしい。
点滴用の金属棒は慧の手から離れ、カランと軽い音をたてて床に転がった。それを見るともなしに見つめる慧は肩で息をしていた。元々熱があったのだ、四十度近かった、身体はかなり辛いはずだ。それを察し、石田が動く。慧の影がゆらりと揺らぎ、そのまま崩れ落ちていく。
「藤宮!」
咄嗟に両手を伸ばした石田に支えられ、かろうじて倒れるのを防いだ慧は、今にも再び倒れそうな身体で瞳だけをギラつかせていた。
「余計なことをするな」
夜叉のごとく光った目をした慧は、自力で立ち上がることも出来ないほどふらふらだった。心配した石田はちゃんと医者に見てもらって薬を飲まなきゃダメだ、こいつが嫌なら別の医者を呼ぶからと説得する。だが慧は拒否した。医者など呼んでみろ、そいつもブチ殺してやると凄む。
「そんなに心配なら、お前がそこらで買って来い」
「いや、しかし……」
原因がわからないのに熱だけ下げるのはあまり良いことではない。もしかしたら大病かもしれないではないかと諭したが、慧は聞かなかった。仕方なく折れたのは曽我部と石田のほうだ。
二人は言うとおり、市販の熱冷ましを用意した。これを飲んで大人しく眠っててくれと話すと、慧もそれでいいと頷く。
「俺が寝てる間に勝手なことするなよ? 全員ブチ殺すからな」
「わかったよ」
「なんで、慧はそんなに病院を嫌がるのかな? 医者嫌いってこと?」
「医者嫌いにもほどがあるだろ、あいつのは嫌いなんてもんじゃない、医者を憎んでるんだ」
「どうして……あ」
そこまで聞いて裕二はようやく思いだした。慧の両親は、妻の不倫を知った戸籍上の父親、力也に殺された。だが実際手を下したのは力也ではなく、医師免許を持つ力也の部下だ。手足を切り落としても生きていられるようにするなど医者でなければ出来ない。
医師免許を持つそいつは力也の命じるまま、健康体である人間の両手足を切断するという大手術を力也の家の応接間で行ったのだ。
裕二はその現場を想像し身震いした。考えるだけで胃液が逆流しそうな話だ。
「両親を、殺されたから?」
「かもな……けどそれだけじゃない」
「どういうこと?」
「あいつ……」
曽我部はなにか言いかけてまた口を噤んだ。俯く顔を覗きこむと彼はなんとも言えない複雑な表情で口を固く結んでいた。そわそわと落ち着かない様子で裕二のほうをチラリと見てはまた顔を伏せる。
彼の瞼の端にヒクヒクと痙攣するような迷いが見えた。彼も、本当は言いたいのだろう。それなら口を割らせることはそう困難ではないはずだ。
裕二は根気よく問い詰め続けた。そしてやはり言いたかったのだろう。やがて曽我部は根負けしたように息を吐き、他の奴には話すなよと念を押して口を開いた。
「藤宮は……女なんだ」