澤田はアル中の母親とギャンブル狂の父親の元、長男として生まれた。
 彼が生まれたときは両親の乱行もまだそれほど酷いモノではなく少し度が過ぎるという程度だった。しかし澤田が生まれたことで事情が変わる。
 子供が出来れば親としての責任が生まれ、それまで自由にやってきたことが出来なくなる。赤ん坊の養育のため父親は好きなギャンブルも控えなければならなくなり、母親は酒を遠ざけられた。
 それでも暫くの間は生まれた子を鎹になんとか形を保っていた。だがそんな生活も長く続かない。
 先に崩れたのは母親のほうだ。
 どんなに頑張っても子供の世話は母親である妻の役目で、それは誰も代わってくれない。父親である夫が手を貸してくれれば少しは楽になるかもしれないが、夫は育児を手伝おうとはしなかった。彼にしてみれば好きなギャンブルもやめ、妻と子供を養っている、それだけで精一杯なのだ。
 元々仕事が好きではなかったこともあり、夫は日に日に荒れていった。子供の泣き声にもいちいち怒り、俺は疲れてるんだが口癖になる。そうなれば同じく耐えていた妻も耐え切れなくなる。子供は泣く夫は怒鳴る、口答えをすれば殴られる。疲れ果て、やがて禁じていた酒に手を伸ばす。
 夫に隠れ酒を煽るようになり、酒量は日に日にに増していった。子供が泣こうが喚こうが放りっぱなしで酒びたりになる。やがてそれを知った夫の怒りに触れ、嵐のような暴行を受けた。DVのはじまりだ。
 毎日続く夫の暴力と子供の世話に疲れた妻はますます酒に逃げるようになり、アル中になった。それを知った夫も自分ばかりが耐えているのがバカらしくなりやめていた賭けごとに手を出し始める。
 家に帰れば妻は酒びたり、放置されている子供は泣き喚く。苛々してなお更ギャンブルに奔る。夫は家に寄り付かなくなり、たまに帰れば妻や子供に暴力を振るった。子供の世話を見る者も躾をする者もない。そんな世界で澤田は生きていた。
 紙おむつ一枚で放り出され続けたおかげで小学校に上がるまでオムツがとれず、垂れ流し状態で過ごしていた。きちんとトイレが使えるようになったのは小学二年生になる頃だ。おかげで澤田は小便小僧と笑われ、小中と苛められて過ごした。

 澤田には四歳下になる妹がいた。殴り殴られるだけの夫婦になぜ子供が出来るのか、そこがどうしても理解出来なかったが、彼女は生まれ、やはり育てられることはなかった。
 必然的に妹の世話は澤田が見ることになり、澤田は四歳の頃からずっと妹の面倒を見てきた。
 自分の鉄は踏まさないようにと妹のトイレの躾は早くに済ませ、初潮のときはその世話までした。妹は澤田に依存し、お兄ちゃんお兄ちゃんと後を追い慕った。澤田も小さく可愛い妹が大好きだった。そうして幼い兄妹二人、寄り添い合って生きていた。だが時が二人を分ける。
 やがて中学に入学した妹は自分の境遇の異常さに気づき、世話してくれた兄のことも、気持ち悪いと嫌って遠ざけるようになった。
 思春期の女の子だ、それぐらいは仕方がない。頭ではわかっていたが生きる望みを妹一人にかけていた澤田にとって妹に拒否されたことは何よりも耐え難く、深く焼け爛れた傷になった。
 やがて当然のように澤田はぐれ、なんとか進学していた高校も二年になったばかりで中退してしまった。きっかけは友人の勧めで見た裏AVに妹が出ているのを見たことだ。
 澤田の妹は澤田がグレたのとほぼ同時期にぐれて学校にも行かなくなった。家にも帰らず知り合いの家を転々とし、仕舞いには寝る場所を求めて援交にはしった。
 そこからの転落は早かった。金になるというだけの理由で彼女は簡単に裏AVに出演し、そこで多くの男達と口にも出来ない卑猥でえげつない行為を披露し続けた。
 妹は澤田の宝だった。アル中の母からも暴力ばかり振るうギャンブル狂の父からも護り、大切に育てて来た。その宝が砕けたのを見たとき、澤田の中でも何かが砕けた。妹が裏AVにと堕ちるなら自分も堕ちてやろうと考え、その頃丁度声をかけてきていた暴力団の末端に名を連ねることにした。まだ十八になったばかりの話だ。
 十八で極道入りした澤田はだが元来の御人好しさが仇になり、そこでも上手くはいかなかった。愚図だ鈍間だと罵られ、殴られ蹴られ罵倒され続ける。
 毎日死を意識した。特に生きたかったわけではないが死ぬのも怖い。
 生きたい。生きていつか幸せになりたい。そう願ったが、それが叶わないこともわかっていた。
 自分は天に見放されている。この先もいいことなど決して起きはしないのだ。そう信じ、ただ愚鈍に、投げやりに生きていた。
 そして今から二年前、その思いを裏付けるように、澤田はある幹部の失態の尻拭いの為、罪を被され殺されそうになった。それを止めたのが当時十六歳の慧だ。

 ある取引のため、組から託されていた金、四百万を、横から現れたチンピラ数名に掻っ攫われ、その行方も見つけられなかったその男は、澤田が金を持ち逃げしたということにし、落とし前をつけさせるという名目で殺そうとした。それで上の怒りの矛先を変えようという魂胆だ。
 澤田は身に覚えのない罪を着せら、引き立てられた。そし、殴る蹴るの手酷い暴行の末、頭から灯油を被せられる。目の前でライターの火が点され、あ、自分はここで焼き殺されるんだと悟った。
 やっぱり最後までなにもいいことなどなかった。死ぬときまで最低だ。
 この世に神様はいない……ということは、天国も地獄もないんだろう。死んだらそこで終わり、あとはなにもない。それでいい、それがいい……ぼんやりとそう思い、瞼を閉じた。
 まさにそのとき、その日、たまたま現場に居合わせていた慧がそれを止めた。
 慧はそんな小物を殺しても金は戻って来ない。上の怒りも避けられないだろう。それよりもっといい手があると話し、一日だけ待てと話した。話を聞き、元々慧の手腕をかっていたその男は慧の言うとおり一日だけの約束で澤田の殺害を保留する。たった一日でどうするのだろうと思ったが翌日慧は男の目の前に四百万とそれをかっぱらった張本人三名を引き連れて来た。男は真犯人と金を受け取り、澤田は無罪放免になった。
 慧はそのとき金と真犯人の両方を引き渡す条件として澤田の身柄を自分に預けろと迫り、男はそれも了承した。余談だがそのときの男がさきほど無礼を働いた岩瀬だ。

「一度は死んだ命だ、もうなにも怖くないだろ、あとは目一杯、自分のために生きればいい」
「自分のためなんて……」
 そんなこと考えたこともないと澤田が俯くと、慧は静かに優しい目をして、それなら俺のために生きろと言った。
「自分の生きかたが見つかるまでの間でいい、俺のために生きろ、いいな?」
 命令口調で話す慧は、とても優しく、寂しそうな目をしていた。
 この少年はなにかとても重たいものを背負っている。自分こそが自由になりたいのに、なれない。だからせめて自由に生きられる者は生きろと願っている。そう感じた澤田は、一生この人について行こうと決めた。

 そのときからずっと、澤田は慧に傅いている。
 自分は彼に、文字通り、命を救われ、生きる道を与えられた。だから彼に命を預けている。彼の為なら死んでもいい。
 彼の役に立つためならと、身体も鍛え、技も磨いた。なにかことが起きたときは真っ先に駆けつけ、一人でも多くの敵を倒したい。全ては彼のためにと話す澤田は、本当に幸せそうだった。
 その瞳は先日話した小林紗枝と同じだ。
 石田も遠藤も、おそらくは斉藤も、ことの発端は違えど、みな同じ思いを抱いているのかもしれない。慧を救いたい。彼を護りたい。それがここにいるみんなの願いなのかもしれない。
 もしそうなら、切欠さえあれば事態は変えられるはずだ。裕二はそう信じ、本当に聞きたいことを訊ねた。
 曽我部がなにをしたのか、慧と曽我部と結衣子の本当の関係はなんなのか、知っていることがあるなら教えて欲しいと真剣に頼んだ。すると澤田はここでは話せないといい、裕二をつれ外へ出た。

 外へ出た澤田はズボンのポケットから携帯を取り出して時刻を確認する。丁度午後三時を回った所で、外は明るく、夕刻にまだは遠いが小腹の空く時間だ。そのまま二人で廃ビルから少し歩き、荒れた駐車場に停めてある旧型のセダンに乗り込んだ。
 連れて行かれたのは廃ビルから二十分ほど国道を行ったあたりにある、寂れたファミレスだ。
 今は大手チェーン店ばかりで個人の店など殆ど見ないが、その店は個人経営、もしくは小規模チェーン店のようだ。見たことのない看板だった。
 丸太を組んで作ったログハウス調の外装に安っぽい黄色と赤のチューブ状電飾で、「WORTHLESS」と、店の名前が掲げてある。WORTHLESSとは、ろくでなし、役立たずという意味だ。食べ物屋の名にしては変わっているなと思いながら中へ入る。
 中もログハウス調の設えで、真ん中に大きな針葉樹の鉢植えがあり、少し薄暗いが、落ち着いた雰囲気の店だった。澤田はカウンターや厨房から離れた奥の席へ中の様子がよく見えるような向きで座り、注文を済ませてから、嬉しそうに話しだした。