長く強く美しい刀が振り翳され、銀色の切っ先が音もなく頭上に迫る。刹那の緊張のあと、少し油分を含んで生々しく光った刃が、頭蓋にめり込む。
 骨は砕かれ、肉体は両断される……そんな妄想に酔った。
 だが当然そんなことにはならず、徐々に近づいて来ていた慧の靴音は、静かに規則正しいリズムで遠ざかって行く。遠ざかる彼の背に、さっき感じた恐怖以上の畏怖を覚え、裕二は戦慄した。
 彼が恐ろしい、恐ろしくて堪らない。だがそれ以上に、強く魅かれた。
 彼について行きたい。ついて行くことでどんな困難や恐怖が襲ってくるとしても、たとえ命を落したとしても、一時でも彼の隣にいられるならそれも本望だと思った。
 その思いに導かれ、裕二はおずおずと弱気の歩みを進める。それに気づいたのか、慧は微かに肩を震わせた。だが振り向くことなく階段を下りて行く。そして下りきったとき、裕二に背を向けたまま、そこから動くなよと言った。
「裕二、お前はそこにいろ、絶対に、そこから動くんじゃない、いいな?」
「……わかった」

 本当はもっと近くにいたかった。だが現場を見てしまえばわかる。廃ビルのロビーは戦場だ。自分がいては足手纏いになる。
 ロビーに通じる階段の五段目で立ち止まり、裕二はその戦場を見つめた。数十名の男達がそこかしこで殴り合い、絡み合っていた。その幾人かは短刀やナイフを手にしていて負傷して動けなくなっている者も多く見えた。
 さきほど目の前を駆け抜けて行った石田は裕二が察した通り長ドスを持ち、相手かまわず斬りつけている。斬りかかられた相手も同じような刃物を取り出し、斬り合いになっていた。石田もあちこち負傷し血だらけだ。だがどちらも引こうとはしていない。
 最初の日、慧に無能と罵られ、嵐のような暴行にただ蹲って耐えていた澤田という男も、あの弱気が嘘のように戦っていた。
 湿したさらしか手ぬぐいか、強度のありそうな布を武器に、次々に相手の首を絞める。するりと巻きつけられた布に相手が気づく頃、澤田はその布を両の手で引き、締めた。狙われた相手は反撃の隙さえ見つけられず沈んでいく。落ちて行く敵に目もくれず、澤田は次の標的を目指し走っていた。
 最初の日、裕二を部屋へと案内してくれた遠藤は、大柄な身体と筋肉をフル活用し、殴りかかってくる相手を次々に張り倒す。相手が刃物を持っていようとお構いなしだ。切りかかってくる敵の手首を掴み、強引に捻って叩く。その度、相手の肉体から骨が折れ、筋肉が断裂する鈍く嫌な音がした。
 その地獄図を見据え、慧が笑う。
 声が聞こえたわけではない。顔が見えたわけでもない。慧は裕二に背を向けたままだ。
 だがわかった。形のいい唇を歪ませ、口角をせり上げ、ニタリと笑った。その異様に、百戦錬磨の男達が戦慄する。
「ずいぶん、楽しそうだな」
 低く、禍々しい声が響き、喚き散らしながら殴り合い、斬り合っていた男達が動きを止める。皆一様に恐怖と畏怖の色を浮かべ、慧が歩むほどに、ジリジリと下がった。
 丸腰で細身の慧に皆怯えている。慧はそれを察し、馬鹿にするような厭らしい笑みを浮かべた。
「頭はどいつだ?」
 冷たい声で訊ねる慧に誰も返事をしない。声が出ないと言ったほうが正しいのかもしれない。
 慧が歩むほどに男達は下がる。まるでモーゼの十戒のようだ。動けない男達を一舐めした慧は、その一番手前にいた男の前髪を掴み、思い切り引っ張って俯かせる。
「お前か?」
 一段と低くなった声で囁くように訊ねると、男は違う違うと首を振った。すると慧は、今にも泣き出しそうなそいつの俯いた顔面に容赦のない膝蹴りを入れた。
 がつんと鈍い音がしてコンクリートの床に前歯の欠片と血が落ちる。慧はそれに一瞥もしないで男を投げ捨て、次の男に迫る。
 次の標的はその後ろにいた男だ、右手に短刀を持っている。慧はそいつの右手首を固く握り、捻り上げるように顔の高さまで持ち上げた。
「じゃあお前か?」
 腕を捻り上げられた男はぷるぷると震えながら口を開く。なにか言おうとしているようだが声になっていなかった。即答が返って来ないことに焦れたのか、慧の目が赤く光る。
「聞こえないな、返事ができないなら永遠に答えられないようにしてやろうか?」
 凄む声もいっそう低く腹に響く。相手は怯えるばかりでなお更しゃべれなくなった。
 慧は冷たく光る目で手首をさらに捻り、短刀の切っ先をそいつの腹に向ける。尖った刃先が腹を擽り、そいつは恐怖のあまり諤々と震えた。
 短刀を持っているのは自分なのだから刺されるのが嫌なら手を離せばいい。だが男は恐怖のあまり、それだけのことにすら考え及ばなかったようだ。泣きそうな顔を引き攣らせ、なんとか違うと答えようとしていた。
 その怯えた顔を見ながら慧は手首を掴んでいる手に力を込める。シャツが引きつれ切れて、刃先が直接そいつの肌に触れる。あと数ミリで肉に食い込む……そう思われたとき、集団の一番奥で、やめろと怒鳴る声がした。
「やめろ! 責任者は俺だ!」
「岩瀬《いわせ》……」
 その声に振り向いた慧は、無感動な目でそいつを見返す。
 少し長めの黒髪をオールバックにしたそいつは、極端に背が低かった。おそらく百五十ないだろう。身長だけなら小学生なみだ。だが体つきはかなりしっかりしていて、色の濃いサングラスをかけたその顔は厳つい。
 慧はそいつを馬鹿にするでもなく驚くでもなく見返す。
 岩瀬と呼ばれたその男は、自分が責任者だと名乗ったにも関わらず、男の手首を離そうとしない慧を、サングラス越しに睨んだ。
「もういいだろう、手を離せ」
「嫌だね、こいつは俺に刃を向けやがった、お仕置きが必要だ」
「いきなり殴りこんだのは悪かった、こちらもいろいろと事情があるんだ、察してくれ」
「なに都合のいいこと言ってんだ、それなら、これから昼寝しようとしてたところを叩き起こされたこっちの事情も察してくれよ」
 悪かったと謝罪する岩瀬に、慧は気を緩めなかった。男の手首を握り締めたまま、そいつを盾にするように抱き込む。右手にはいつの間にか取り上げたのだろう短刀が握られていた。
 それを抱き込んだ男の首へ突き付けながら、いっそう鋭くなった目で岩瀬を見据える。
「俺たちになんの用だ?」
「わかってるだろ、曽我部を出せ」
 離せと言っても慧は男を離さないと諦めたのだろう、岩瀬は用向きを話し出した。聞きたくなかったのだろうその名前に、慧も思わず眉を寄せる。
「ここにはいない、こっちも探してるんだ」
「本当だろうな?」
「本当だ、家捜しでもしてみるか?」
「させてくれ」
 半分冗談とハッタリで家捜しするかと聞く慧に、岩瀬は真面目な顔でさせろと言った。どうやら相手もかなり切羽詰っているようだ。
「丈一郎《じょういちろう》さんは、一人息子だ、そいつを殺されて黙って引っ込んでちゃ極道の名が廃る、オヤジさんはかんかんだ、わかるだろ? 本来ならお前たち全員、ブチ殺されても文句言えねえんだぞ」
「俺たちは関係ない、曽我部の独断だ、だいたいこっちだって鵜飼《うかい》さんには世話になってんだ、その息子を殺すわけないだろ」
「どうかな? 美味い汁をもっと吸いたくて、上納金を納めるのが惜しくなったんじゃないのか?」
「馬鹿言え、俺たちはただのごろつきだ、鵜飼さんの下から離れたら忽ちほかの組に潰される、それがわからないほど坊やじゃない」
「だといいけどな」
 岩瀬は慧の言葉を疑っているようだ。信じないぞという目をして顎をしゃくる。その声なき号令を聞き、廃ビルに殴りこんで来ていた男達が一斉に動き出した。
「調べさせてもらう、かまわないだろうな?」
「チッ、いいさ、好きに探せ、荒らすなよ」
「いい返事をもらえて良かったよ、そこで大人しくしててくれ」
「おい、本当だぞ、ただでさえボロなんだ、壊すなよ!」
「わかった」
 返事もそこそこに、岩瀬は仲間を連れて廃ビルの階段を上り始める。慧はそれを忌々しく見上げ、長ドスを鞘に収めた石田が横に並ぶ。

「いいのかよ、奴らの好きにさせて」
「仕方ないさ、鵜飼さんの機嫌次第ではこっちの立場もヤバくなる、歯向かう気はないとわからせるしかないんだ」
「いきなり殴りこんでくるような奴だぜ、穏便に済ませてくれるかどうか」
「岩瀬がそれほど馬鹿じゃないように祈っとけ」
 心配そうに階段を見上げる石田の肩をぽんと叩き、慧は背後に控えているほかの連中に向き直った。みな一端の雄の顔をしている。その目はまだギラギラとした闘志を湛え、慧の号令さえあれば、すぐにでも、侵入者を始末しに走りそうだ。
 慧はその一人ひとりに視線を送り、全員を見渡してから、階段を一段だけ上った。そしてそこから言葉をかける。
「いいか、これは既に戦争だ、やり返さなけりゃ侮られる、やって正解だ、良くやった」
 慧の労いに男たちが歓声をあげる。口々に自分の成果を自慢しあい、言ってくれればいつでもやりますよと話し合う。慧は神妙な顔をして暫くそれを眺めていた。その瞳はどこか哀しそうだ。言ったらまた石田あたりに殴られそうだが、やはり本当はやりたくないのかもしれない。
 だが今それを聞くわけにもいかない。そんな台詞は士気を下げるだけだし、ここにいる全員を敵に回しそうだ。やりたくないのならやらずに済む道を探せばいいのではとも考えたが、慧の負う多額の負債をどうしたらいいのか、その解決方法が思いつかない以上、部外者の戯事にしかならない。
「鵜飼さんに逆らう気はないというのは大前提だが、ここで相応の戦果を見せておかなければ、岩瀬が付け上がる、舐められたら終わりだ、こちらはいつでも蹴散らせられるんだとわからせてやれ」
 いいなと念を押すと、男達は当然ですと答え、自分一人だってやれますよと大風呂敷を広げた。そんな男たちに、慧は無理はするなと話す。
「だが、くれぐれも、逸って勝手な真似はするな、犬死だけは許さない、こんなくだらないことに命を張るのはバカだけだ、そいつを忘れるな」
「はいっ!」
 自分達を心から心配してくれる、そう信じ感激した男達は、ますます士気を高め、口を揃える。さっきまでギラギラしていたその瞳は、穏やかに静まり、それぞれが慧への忠誠を誓っていた。それはまるで古のジャンヌ・ダルク、それに従う忠実な騎士のようだ。
 犬死はするなと言う慧は人を思いやることを知っている。人の命の大切さもちゃんとわかっている。それでも非道を働かずにいられないのは金のため、自由のため……それに、ここに集う行き場のない男達のため、なのかもしれない。

 裕二を含め、ここにいる連中は皆、親や世間からはじき出され、行き場を失った者たちだ。自棄をおこし、死のうとしていた者、犯罪に走ろうとしていた者、そんな者ばかりだった。
 それを慧が見つけ、ここまで連れて来た。ここでなら自由に生きられる。やっていることは犯罪すれすれだが、少なくとも統制が取れていて、一人でやるよりずっと易い。
 無用な殺生もしないですむし、なによりも自分が必要とされているのがわかる。それが男達を酔わせる。自分に居場所をくれた慧のためなら命も賭けようと考える。そして本来、心優しい慧は、そんな男たちを見捨てられない。
 自分一人なら投げ捨てる命も、連中のことを思えば簡単に捨てられなくなる。そこが彼のジレンマの元なのかもしれない。
 裕二がそう結論を出す頃、チビの岩瀬を先頭に、さっきの連中が下りてきた。当然だが、成果はなにもなかったのだろう、機嫌の悪そうな表情だ。
 それを待ち受ける慧も面白くなさそうな顔をしていた。お互い、嫌な奴と思っているのがありありだ。
 岩瀬の後ろにいる連中も慧についている男達もそれは同様で、言葉が行き違えばまたすぐにでも斬り合いを始めそうだった。