「なんだ、そんなモンも越えられないのか? それでよく飛ぶ気になれたな」

 突然、背後の頭上から声がした。
 深い森の奥から湧き出でる岩清水のように、怖いほどよく済んだ声だ。

 死を決意して家の近くにある学校の屋上にきていた裕二は、屋上を取り囲む鉄柵の意外な高さに苦戦していた。声が聞こえてきたのはそのときだ。
 振り向くと、さっき屋上へ上がって来たときに開いた扉が見える。それはそれほど大きくなく、校舎内から屋上へ出るための扉が取り付けてあるだけの建物だ。そのさらに上に、大きな貯水タンクが取り付けてある。丁度夕陽が沈みかける時刻で、タンクの上に重なった太陽が滲んで見えた。
 緑色に塗られたそのタンクは殆んどシルエットしか見えないが、周りの景色とは不釣合いなほど大きく、まるで異世界から降り立った宇宙船のようだ。
 声はそのタンクの上からだった。
「誰? 誰かいるのか?」
 眩しくて目が開けられない。裕二は日差しを避けるように右手を翳し、目を細めながら貯水タンクを見上げた。そこには太陽を背に足を投げ出して座っている誰かが、いた。
「気づかなかったのか? さっきからずっといただろ」
 タンクの上に座っている声の主は片膝だけ立てて、その上に左手をのせ、裕二を馬鹿にするように鼻で笑った。逆光なのでその顔が本当に見えたというわけではない、ただそんな気がしただけだ。
 本当に始めからいたんだろうか? 全然人の気配がしなかった。
 いったいいつからそこにいたんだろう? そこでなにをしていたんだろう?
 その疑問に答えるように、タンクの上に座っていた彼は、スイッと立ち上がった。四階建ての学校の屋上のさらに上、天辺とも言える場所に立った彼は、長い髪を靡かせた背の高い細身のシルエットを裕二に見せつけ、暗くなり始めている空を見上げた。
「夕陽を見に来たのさ、あの山の向こうに沈んでく太陽を見たかったんだ」
 彼は、なぜと聞かなかった裕二の声なき疑問に答えた。答えられたことで心が温かくなる。
 夕陽に向かい、貯水タンクの上に立った彼は、その遠くに見える、さほど高くもない山を見つめ、両手を高く掲げた。背伸びするように、何かを掴もうとするかのように、精一杯手を伸ばすその姿は、その背に生えた翼で飛び立とうとしている異星人のようだ。
 そして事実、飛び立った。
「あ……っ」
 驚いて声を上げる裕二を尻目に、彼は貯水タンクから、屋上のコンクリート面へと飛び降りた。貯水タンクからコンクリート面までの距離は五メートル以上あり、二階の窓から飛び降りるくらいの衝撃があっただろう。だが彼はバランスがいいのか、運動神経がいいのか、綺麗に着地して見せた。
 見事コンクリート面に着地した彼は、それを自慢ともせず、少し不愉快そうな表情さえ浮かべていた。なにか満足がいかない。俯き黙り込む顔は、その結果に満足していない、という顔だった。

「慧《けい》!」

 そのとき、彼の背後で校内から屋上へと通じる扉が開き、中から清楚な服を着た若い女性が走って来た。
 栗色をしたセミロングの髪を靡かせ、女性が駆け寄る。だが慧と呼ばれた彼は、女性の手が触れる前に立ち上がり、スイと離れた。口元は笑っている、だが彼女を見つめるその目は少しも微笑んではいない。
「慧、ねえ心配したのよ、帰りましょう」 
「……結衣子《ゆいこ》」
 慧へと伸ばされる結衣子の手が虚しく空を掴み、慧は結衣子が歩みよるほどに、背後へと下がる。その背が屋上の手すりに触れるほどに下がった慧は、帰りましょうと手を伸べる結衣子に、口先だけの微笑を浮かべた。乾いた彼の唇は、ゆっくりと動く。
「散歩してくる」
「慧!」
 僅かのとき、虚空を見つめた慧は、心配して手を伸べる結衣子にクルリと背を向けた。そして、さきほど裕二がいくら頑張っても乗り越えられなかった屋上の鉄柵を易々と乗り越え、無心な一歩を踏み出す。
 あまりの何気なさに、本当に空中を歩いて行くかのように見えた。だが次の瞬間、慧の体は突然視界から消える。結衣子の悲鳴が夕刻の屋上に響いた。止めることも追い縋ることもできなかった結衣子は、その場にしゃがみ込み、慧の歩行した場所を見ていた。

――すぐ戻る。

 歩み始めるとき、慧は、たしかにそう言った。
 本当にすぐ戻る気だったんだろうか?
 戻れるはずなんてないと、常識でなら直ぐにわかるのに、彼はそれでも戻れると信じたんだろうか?
 なぜだか涙が出た。たった一言、言葉を交わしただけの彼の、飛ばざるを得なかった心の裏を思い、切なさに胸が痛む。

 裕二が自殺を考えたのは小説家になりたいとの夢を、父親に反対されたからだった。それまでずっと書き溜めてきた原稿を燃やされ、執筆に使用していたパソコンは取り上げられた。それに絶望したのだ。裕二にはそれが一大事であり、全てが終わった気がした。だが今、目の前で飛び立った慧の目を見たとき、それがとてつもなく甘いと気付いた。原稿はまた書くことが出来る。書き溜めたストーリーは全部頭の中にあり、自分はまたいくらでも、それを書くことが出来る。自分が諦めない限り、また生み出すことは可能なのだ。
 だが彼は飛んだ。なぜ飛んだのだろう、なにが彼を追い詰めたのか……想像することしか出来ないが、それすらも陳腐に思えた。真実は本人にしかわからない。
 裕二は慧の飛び立った場所へ立ち、手すりに捉まって、遙か下の校庭を見た。その手すりの真下には、背の高い鶏小屋があり、トタンで出来た屋根に大きく窪みが出来ている。慧は鶏小屋の横にある、土を慣らしたばかりの花壇の上に倒れていた。
 涙に滲んだ目で、動かなくなった慧を見つめる。その身体はとても小さく、儚く見えた。
 なんで止めてやれなかったのだろう? あのとき、彼が飛ぶ前に、引き止める時間はあったはずだ。後悔で眩暈がしそうになり、鉄柵を掴む。
 だがそのとき、はるか下の花壇に倒れている慧の手が、僅かに動いて見えた。
「生きてる……?」
「え?」
「生きてる!」

 裕二は、背後で項垂れている結衣子の手を取り、夢中で走った。屋上の扉を開け、階段を駆け下りながらも必死に祈る。
 間に合ってくれ。
 死なないでくれ。
 生きていてくれ。
 結衣子と二人で校庭へ駆け出し、そこに倒れている慧に走り寄る。そっと触れてみた頬は温かかった。
「慧っ、けい!」
 呼びかける結衣子の声に反応し、慧は小さな息を漏らす。生きている。
 急いで救急車を呼んだ裕二は、慧の手を握り、死ぬなよと声をかけた。隣では結衣子がポロポロと涙を落としながら慧を見つめている。ただひたすら慧の名を呼び、泣き続ける結衣子の手に、裕二はそっと触れた。
「大丈夫、彼は死にませんよ、ちゃんと帰ってきます」
「ぁ、ありがとう」
 涙を抑えながら健気に微笑む結衣子は、とても美しかった。

 ***

「珈琲でも、いかがですか?」
 救急病院へ運び込まれた慧は、手当てと簡単な検査を受け、そのまま入院となった。点滴に繋がれて眠る慧の傍らに、片時も目を離せないという風情で、結衣子が付き添う。たぶん二人は恋人同士なのだろう。彼女は彼をとても愛しているに違いない。裕二はそう想像し、その想像に満足した。すらりとして、大人びて見えた慧が、実はまだ十八だと聞いたせいかもしれない。若い恋人たちにほっとしたのだ。
 彼女の話によると、慧はその春、高校を卒業したばかり、彼の通っていた高校は男子校だったので、結衣子は別の高校だったが同い年らしい。
「ありがとう、でもいいわ、慧が目を開けるまで、私もこうしていたいの」
 病室で飲食してはいけないという決まりはない、べつに珈琲を飲みながらでも彼を待てる。だが結衣子はそれも拒否した。慧が目を開け、なにか口にできるまで、自分もいらないと答える。可愛らしく大人しそうな見かけによらず、強いらしい。
 しかしそれでは彼が目を開ける前に結衣子が倒れてしまうかもしれない。裕二は、食事くらいはしたほうがいいですよと告げたが、結衣子はそれすらも首を振った。
「私はここにいなきゃいけないの、ここで慧を見ていなきゃダメなのよ」
 澄み切った夜空に輝く月の面のように、凛とした表情で彼女はそう言った。

 慧の怪我は思いのほか軽かった。その日は風が強く、彼の落下速度を落したのが幸いしたのかもしれないが、擦り傷と打ち身だけで、骨折すらしていなかった。まるで神か悪魔によって、何があっても生き続けるよう呪いをかけられているかのようだ。
 ともあれ、そう重傷ではないので、じきに目を開けるだろう、彼女が餓死する心配はないかもしれない。裕二は一人で珈琲というのも気が引けるなと、結衣子の隣の椅子へ腰を下ろした。
「彼は、なぜ飛んだんですか?」
 聞いてはいけないのかなと思いながら聞くと、結衣子は慧の手を握り、ゆっくりと答えた。
「散歩です……慧は、頭を冷やしたいとき、なにか悩んでいるとき、いつも散歩に出るの、だから今日も、ただの散歩なんだと思います」
 静かに話す結衣子の返事に、裕二は戸惑う。たしかに、彼は散歩に行くと言っていた。直ぐに戻るからと言った。しかし、物理的に言って普通は戻れない。あの高さから落ちたら大抵はそのまま死ぬだろう。それでも彼は戻れる気でいたんだろうか? それでも彼女は慧が戻ると信じるのだろうか?
 いや、そうは思っていなかったはずだ。彼が死んでしまったと思ったからこそ、彼女はあの場で泣き崩れたのではないのか?
 そこまで考えて、裕二は奇妙な寒気を覚えた。
 普通、愛する男が飛び降りたとして、女はそう簡単に彼の死を信じるものだろうか? まだ生きてる、死ぬはずがないと思うのが人情ではないのか? なぜ、彼女はあのとき、慧の生死を確かめようとしなかったのだろう?
 目の前には、眠り続ける慧の手を握る結衣子がいる。だが彼女の視線に、恋人を思う熱さは感じられなかった。あえて言うなら義務感のようだ。もしかしたら自分は勘違いをしていたのかもしれない。慧と結衣子は恋人同士ではないのかもしれない。
 しかし、ではなんだ?