廊下はしんとしていた。いつもと変わらないはずだけれど、どうしてか明るく感じる。

 おれと青園の間を歩く押村さんが伸びをした。

 「いやあそれにしても、多分世の中、どうにでもできるようになってるんだろうねえ」

 「そうですかね」と青園。

 「そうよ」と押村さんは即答する。「だって、私が大丈夫だって言ってるんだもん」

 青園は「なんですかそれ」と嘲るように笑うけれど、そのどこかには親しみのようなものを感じる。

 「そのまんまよ」と返す押村さんは、本当にいつもと変わらない。「私が大丈夫って言えば大丈夫なの。それと同じように?……そう、世の中、どうにでもできるようになってるって言えば、どうにでもできるようになってるの」

 「全然意味わかんないんですけど」

 「ええー? とせちゃん、ちょっと頭のネジちゃんがカチャカチャ鳴ってるんじゃない? 締め直しておいた方がいいよ」

 「どっちかっていうと押村先輩の方が緩んでると思うんですけど。もはやそのネジ、穴に引っかかってるようなものじゃありません?」

 「そんなわけないでしょう? だって私だもん。私は完璧な先輩よ?」

 「どこに後輩に気持ち悪いと言われる完璧な先輩がいるんです?」

 「ここにいるじゃないのよ」

 「はあ? それはそもそも完璧とは言わないんですよ」

 「なによ、後輩のくせに生意気ねえ」

 「先輩のくせに視野が狭いんですよ」

 「ちょっと高野っ」、「高野山先輩っ」と同時に振り向かれ、おれはたじろぐ。何拍か置いて「なに」と答えるのが限界だった。

 「なにじゃないよ」、「なにじゃないですよ」と二人はまた声を重ねる。「とせちゃんってばひどくない?」、「押村先輩ひどくないですか?」と。

 「うん、引き分け」

 「ですって」との青園の挑発に、押村さんが「認めないわよ」と乗っかり、二人で賑やかに走って行った。

「ばーかばーか」、「ばかって言う方がばかなのよ」などと聞こえてくる。

続いて青園の楽し気な叫び声が聞こえたかと思えば、「こちょこちょの刑に処すわ」と押村さんの声が上がって、「触ってんじゃないですよ」と青園の声が反応する。

 それからも、「なによ、さっきまで私にべったりだったくせに」、「うっせばーかっ」などと、じゃれ合う声が絶え間なく聞こえてくる。それを聴きながら、おれは青園に対して、心底ほっとする。もう、あの子は大丈夫だと。

 押村さんに対しては、初めて感じるほどの、尊敬のような憧れのような、強い思いが湧き上がっている。あの人はすごい。小さい頃によく言われた、人に優しくしなさいというのは、ああいうことなのだろうとすら思う。

自分がどれだけ苦労しようとも、それを些細なことと笑い飛ばし、困っている人に、悲しんでいる人に、手を差し伸べ、寄り添い、手を掴んだ時には、相手の様子を確認しつつ、明るい方へ誘う。

おれにそんなことはできない。当然、困っている人がいれば声を掛ける。その人が必要としているものを持っていれば差し出す。改めて考えるでもなく、そんな風に体が動く。けれど、解決策の見えない人に自ら声を掛けるなんてことはできない。

相手の悩みを解決できなかったらどうする? 下手に手を差し伸べたために、むしろ相手を傷つけることになったらどうする?

想像するだけで恐ろしいし、そんなことを起こさないと思えるような自信なんておれの中にはない。

 私が大丈夫だと言えば大丈夫――根拠があるかないかに関わらず、それくらいの自信がないと、人には優しくできないのかもしれない。

 きゃははと甲高い二色の笑い声が上がって、自然と口角が上がる。

 ――ああ、押村さんは本物だ。本当に、優しい人なんだ。