体育館に続く通路にある自動販売機で水を買い、二年二組の教室へ走る。廊下を走って、階段を駆け上がった。

 彼女は、先ほどと変わらず棚の前に座っていた。そばに座ってペットボトルを差し出すと、彼女は一瞬困った顔をして、「ありがとう」と受け取った。呼吸も落ち着いていて、先ほどに比べ心なしか声が出しやすそうになっている。

 すっと立ち上がる彼女を目で追うと、また一瞬困ったような顔をしてから、「テ」と言った。同時に自分の手を見ていたので、洗ってくるということだろう。「気を付けてね」

 自分の席のない教室で一人になって、おれはさてどうしようかと考える。この後、どうしようかと。立ち上がって、棚の上に転がっている鉢植えを整えたけれど、おれの頭は少しも整わない。

 事実は小説より奇なり。その通りだなと思う。幼馴染で初恋の相手である女の子がいて、すっかりどこにいるかもわからずにいたけれど、ある時なんの予兆もなく再会、けれどその彼女はおれの知っている彼女じゃない、ときた。詳しい分野ではないけれど、どんなフィクションだろう。これが事実なのだから、一人の作家が作り上げた話であるという前提の小説より、よほど不思議かもしれない。

 けほ、こほ、と小さな咳が聞こえて、彼女が教室に戻ってきた。

 「大丈夫?」と声を掛けると、「うん」と短く返ってきた。「水、ありがとう」と小さな声が言う。

 彼女は机に置いてある鞄を開くと、中を漁り始めた。財布のようなものを取り出すので、おれは慌てて「いいよいいよ」と言った。「でも」と困ったような顔をする彼女へ、「本当に大丈夫だから」と返す。「それより、体を休めないと」

 彼女は「ごめん」と呟いて、財布をしまった。

 三秒ほどの沈黙を、おれは「あのさ」と破った。彼女はどこか警戒するような目でおれを見る。とくん、とくん、という規則的な音と脈動を感じつつ、おれは小さく息を吸い込んだ。

 「人違いだったら悪いんだけど」と前置きすると、彼女は僅かに、警戒の色を薄めた。

 「……綸、だよね」

 「……え」

 「小学校の頃、よく遊んだ。夜久……綸だよね。おれ、高野山空」

 ほわあっと、真冬の冷えた体が温まっていくように、彼女の表情が明るくなった。

 「ああ、うん。覚えてるよ」と彼女は言う。「久しぶりだね」と言うその声のどこかに、繕うような匂いが滲んでいた。けれど、彼女はやはり、夜久綸だ。おれの、大好きな人。初恋の人。

 「同じ学校にいたんだ……」

 「驚いたね」

 「本当だよ」

 「……元気、だった」

 「え?」

 そっち、と言うように、彼女はおれの方に手を向けた。

 「うん、元気元気。綸は?」

 「元気」

 「……そっか」

 「……あたし、今日は帰るね」と言って、彼女は鞄を肩に掛けた。教室を出ていく背中に、「またね」と声を投げると、彼女は振り返って、美しく微笑んだ。くるりと前を向き直って、静かに階段の方へ消えていく。

 おれは両手で顔を覆った。状態をくの字に折って、深く息を吐き出す。喜びと、そうしていいものかと惑うのが綯い交ぜになった気持ちが、体の芯を震わせた。