保冷巾着を手に、「やあ少年、主様はお出かけかい?」と高野へ声をかけた。彼は読んでいた文庫本を閉じると、顔を上げて「やあ少女」と綺麗に笑った。

 「篠崎さんは今日も食堂だよ」

 「そりゃあ結構。お邪魔しますぜ」

 私は高野の隣の席に着いた。本当に邪魔だ、と高野は言わない。思っていても言わない人なのだ。言葉にしない思いを抱いている様子を感じないのは、私が鈍感だからか、本当に彼の胸の内が真っ白だからなのか。

 私は高野が机の中へしまう、文庫本を包んだブックカバーを見た。白地に緑と黄緑のペンで描いたような十字模様が、規則的に並んでいる。

 「なに読んでるの?」

 高野は表紙側のカバーを外した。水色地に淡い桃色の花びらが舞っているという写真があった。下の方は緑色になっていて、花吹雪の奥には木の幹のようなものも見える。右上に大きく縦で、花衣という二字が、焦げ茶色で書かれている。

 「飯塚昭雄の、花衣」

 「ああ、それ本屋さんで平積みになってるの見たなあ。面白い?」

 「うん。ちょっと昔の日本が舞台で、恋愛っぽいのかな。二十一歳の女性が主人公で、幼馴染の男性と恋仲になりそうな感じ。家にある帯には、大どんでん返しが――みたいなこと書いてあって気になったけど、三分の二弱読んだ感じでは、ここからどうひっくり返すんだろうって感じ。結構丁寧に描いてあったから、多分、主要人物の男女二人の小さい頃が関係してくるんだろうけど、今のところ穏やかな恋愛小説」

 「ふうん。高野、恋愛小説なんて読むんだね」

 「小説はあまり読まないよ。特に家ではね。でもしばらく前に、本屋さんで収穫がなくて、たまにはと思って買ったんだ。どんでん返しって興味あったし」

 「へええ。……え、それさ、あれじゃないの、子供の頃の男の人と、現在一緒にいる男の人、別人なんじゃないの? ほら、一卵性の双子とかでさ」

 「ええ嫌だ怖い……」と高野は顔を青くする。

 「なんで入れ替わってるの、え、じゃあ子供の頃に一緒にいた人は誰? てか今のも誰? 子供の頃の人はどうしたのさ」

 あわあわと言葉を並べる高野がおかしくて、私は声を出して笑った。

 「高野、怖がりすぎ。ははっ、お腹痛い……。それを確認するために、続き読んでいくんでしょう? それに、この筋書きが実際にそこに載ってるとは限らないし」

 「ええ……」

 もう読めないよ、とでも言うように、高野は弱弱しいような、どこか怒ったような目で私を見た。

 「めちゃくちゃ怖いじゃん。嫌だよ、無理無理」

 「大丈夫だって。シンプルに一方は進学とか就職で地元離れてて、主人公の女性はそれに気づかず、もう一方と一緒にいる、とかさ。それを最後の最後で一緒にいる方から知らされて、ばーんっと、どんでん返されるっていう感じかもしれないし」まあ、それは改めて大どんでん返しと言うほどではないと思うけれど。

 「ええ……。それなら早く言おうよ。おれじゃないよって。おれ兄貴だよ、弟だよって。あいつは何年前にここを離れてるんだって。なんで言わないの、絶対事件じゃん。とんだ愛憎劇に突入するか、未解決事件に突入するかじゃん」

 「それはそれで面白いじゃん」と私は笑い返す。

 「初恋の女性を自分のものにしそうになった兄弟に嫉妬した男が、その兄弟に手をかけ……って。これで彼女はおれのものだ――!」

 高野の恐怖を煽るような声で笑ってみると、彼は「だめだって」と私の腕に拳で触れた。

 「だめだって、そんなことしちゃ。誰も喜ばないって。狂気の沙汰だよ」

 「その男が嫉妬に狂って暴れ回る様は、狂気(・・)乱舞、つってね」

 「ええ……」と体を離して見つめてくる目に、「冷たい」と私は苦笑する。「傑作だと思ったんだけどな」と。