「一つ、訊きたいんだけど」
言ってみると、綸――は少し困ったような顔をした。
「……なんだろう」
おれは密かに深呼吸した。
「……君は、誰?」
綸の開いた唇が、はあっ、と鳴った。深い悲しみのような、恐れのような色が表情に滲んでいく。すると、綸は少しの悲しみを残したまま微笑んだ。
「綸だよ。夜久綸」
「……違う。そうじゃなくて……。君自身は、誰?」
綸――いや、その人は、どうしようもなく悲しく、どうしようもなく静かに、微笑んだ。
「おれはおれだよ」と言う、初めて聞く少年のような声に、胸の奥が痛みを伴いながら震えた。
「この世界の住人で、傍観者だ」
「……名前は?」
その人――は、どこか自嘲気味に口角を上げる。「わからない」と。
「……誕生日とかは?」
ゆっくりとかぶりを振る。
「おれは、この世に存在しないんだよ。だから本当は、君とも接するべきじゃない。おれは夜久綸じゃないし、この世界に必要がなくなれば、どこになにを残すでもなく消えていく」
「……そんな……そんなことない。君はここにいる。ちゃんと生きてるし、おれと話もしてくれてる」おれは彼の手を握った。白くて細くて、下手に力を入れれば折れてしまいそうな手。暖かい春なのに、少し冷えている。「こうして、触れる。……君は、ここにいるんだよ」
彼はふっと笑う。「そんな必死にならないでよ」と。
「だって……」
どうしてか、泣きそうだった。彼は確かに生きている。こうしてここにいて、こうして話をしている。それが、この世には存在しないと話すことが、どうしようもなく悲しかった。
「なんで君が泣くんだ」と彼は小さく笑う。
「泣いてない」と返す声が隠しようのないほど泣いていて、自分でも笑いそうになった。
「君は“夜久綸”が好きなんだろう。……おれは違う。プロフィールもまともに埋まらない、寄生虫だ」
「そんなことないっ」
名前がないのなら、作ればいい。誕生日がないのなら、今日にすればいい。
「君は本当に夜久綸が好きなんだね。だけど、おれは綸じゃないんだ」
「綸じゃなくていい。君は君でいい」
「だけど、長くはいられない」
「……どうして」
「この世界は、どうしようもなく脆い」
彼はおれの手の中から、自分の手を引き抜いた。それを掴もうとしたおれをそっと笑う。そして、両手の細長い人差し指と親指で円を作った。正面を向いて座って、少し高い位置に上げる。それから、円の中にふうーっと息を吹いた。おれが小さい頃、よく手を洗いながらやったように。
「強く吹けば壊れる。だけどある程度膨らんでいて、この手から離れなければ、在れない。ようやく生まれても、少し突かれれば――」
パン、と囁くように言って、両手を離した。
「おれはその程度の存在なんだよ。この世界に必要なくなれば、すぐに消える。名前も記憶も残さず。……でも、そんなこともなくなった」
君がおれを知ってる、と、彼はおれを見た。
「日垣さんも知ってる。だけど、こんな風には話してない。日垣さんはおれを夜久綸だと思ってる。……おれは、間違えた」
「どうして」
どうして、そんな悲しいことを言うんだ。
「おれはどうせ消えるんだ。偽物だから。この体は夜久綸のもので、おれのものじゃない。この世界が……夜久綸がおれを必要としなくなれば、消えるしかない。でも、それが正しいんだと思う」
「……綸は、どうして君を求めたの?」
「わからない。部屋を散らかすからじゃないかな」
「掃除係ってこと?」
彼は静かに、自嘲気味に笑った。
言ってみると、綸――は少し困ったような顔をした。
「……なんだろう」
おれは密かに深呼吸した。
「……君は、誰?」
綸の開いた唇が、はあっ、と鳴った。深い悲しみのような、恐れのような色が表情に滲んでいく。すると、綸は少しの悲しみを残したまま微笑んだ。
「綸だよ。夜久綸」
「……違う。そうじゃなくて……。君自身は、誰?」
綸――いや、その人は、どうしようもなく悲しく、どうしようもなく静かに、微笑んだ。
「おれはおれだよ」と言う、初めて聞く少年のような声に、胸の奥が痛みを伴いながら震えた。
「この世界の住人で、傍観者だ」
「……名前は?」
その人――は、どこか自嘲気味に口角を上げる。「わからない」と。
「……誕生日とかは?」
ゆっくりとかぶりを振る。
「おれは、この世に存在しないんだよ。だから本当は、君とも接するべきじゃない。おれは夜久綸じゃないし、この世界に必要がなくなれば、どこになにを残すでもなく消えていく」
「……そんな……そんなことない。君はここにいる。ちゃんと生きてるし、おれと話もしてくれてる」おれは彼の手を握った。白くて細くて、下手に力を入れれば折れてしまいそうな手。暖かい春なのに、少し冷えている。「こうして、触れる。……君は、ここにいるんだよ」
彼はふっと笑う。「そんな必死にならないでよ」と。
「だって……」
どうしてか、泣きそうだった。彼は確かに生きている。こうしてここにいて、こうして話をしている。それが、この世には存在しないと話すことが、どうしようもなく悲しかった。
「なんで君が泣くんだ」と彼は小さく笑う。
「泣いてない」と返す声が隠しようのないほど泣いていて、自分でも笑いそうになった。
「君は“夜久綸”が好きなんだろう。……おれは違う。プロフィールもまともに埋まらない、寄生虫だ」
「そんなことないっ」
名前がないのなら、作ればいい。誕生日がないのなら、今日にすればいい。
「君は本当に夜久綸が好きなんだね。だけど、おれは綸じゃないんだ」
「綸じゃなくていい。君は君でいい」
「だけど、長くはいられない」
「……どうして」
「この世界は、どうしようもなく脆い」
彼はおれの手の中から、自分の手を引き抜いた。それを掴もうとしたおれをそっと笑う。そして、両手の細長い人差し指と親指で円を作った。正面を向いて座って、少し高い位置に上げる。それから、円の中にふうーっと息を吹いた。おれが小さい頃、よく手を洗いながらやったように。
「強く吹けば壊れる。だけどある程度膨らんでいて、この手から離れなければ、在れない。ようやく生まれても、少し突かれれば――」
パン、と囁くように言って、両手を離した。
「おれはその程度の存在なんだよ。この世界に必要なくなれば、すぐに消える。名前も記憶も残さず。……でも、そんなこともなくなった」
君がおれを知ってる、と、彼はおれを見た。
「日垣さんも知ってる。だけど、こんな風には話してない。日垣さんはおれを夜久綸だと思ってる。……おれは、間違えた」
「どうして」
どうして、そんな悲しいことを言うんだ。
「おれはどうせ消えるんだ。偽物だから。この体は夜久綸のもので、おれのものじゃない。この世界が……夜久綸がおれを必要としなくなれば、消えるしかない。でも、それが正しいんだと思う」
「……綸は、どうして君を求めたの?」
「わからない。部屋を散らかすからじゃないかな」
「掃除係ってこと?」
彼は静かに、自嘲気味に笑った。