◆◆
――仮初の妃。
改めて、自分で口にしてみると、何だか面映ゆい。
本来、東宮妃なんて、夢のような待遇で後宮に迎え入れてもらえたことを、維月は一生感謝しなければならない身の上なのだ。
維月の父は、太政大臣・九曜実視。
祖父は親王であったが、大逆の罪により、配流となり、後に許されたものの、九曜の姓を賜り、臣籍降下した。波乱万丈の人生を送った御方だ。
本来、罪人の血を継ぐ一族が、いくら形骸化してしまった役職とはいえ、太政大臣にまで出世できるはずもない。
だが、帝が親王であった時から、幾度も命の危機を救い、天変地異の予知などをしたことで、父は破格の出世を遂げることになった。
――実視には、不思議な力がある。
すっかり、父の力を信じこんでしまった帝に、父は帝の御子、東宮の周辺に呪詛が仕掛けられていると奏上した。
東宮には二年前にも、同様の騒ぎがあっだが、その時の犯人は捕まっていなかった。
同一犯だろうと判断した父は、その呪詛の正体を突き止めるために、東宮の傍に自分の一の姫を置いておく必要があると、進言した。
要するに、一の姫を東宮妃にしろということだ。
さすがに、帝も維月の入内については渋ったらしい。
赦されたとはいえ、罪人の家系の娘を東宮の妃に迎え入れるなんて、前代未聞だ。周囲の目もある。
それに、東宮自身も、維月の入内には反対していたらしい。
維月は、父から、そのことについても聞いていた。
(もし、東宮さまに、他に想い人がいたとしたら、絶対に嫌よね)
よもや維月の一存で、辞退なんて出来るはずもないのだが、他に呪詛を何とかする手はないのだろうか?
しかし、頭を捻っているうちに、結局、維月は入内することに決まってしまったのだ。
「姫様。それは確かに東宮妃なんて、大層なご出世だと思ってはいましたが、姫様の仰せになったことが、すべて事実だとしたら、それって単純に周囲を刺激したいとか、餌を撒いたってことで。つまり……」
瀬野が血相を変えて、維月の袿を引っ張った。
「つまり、姫様は、囮ってことじゃないですか?」
「ああ、そういうことになりますかね」
「何を落ち着いてらっしゃるのですか? おかしいですよ。魑魅魍魎とか、呪詛の類は陰陽師の仕事じゃないですか? 太政大臣家の姫様がなさるお仕事ではありません」
「それもね。ほら、陰陽師は仕事だから、仲の良い貴族に忖度して、帝に本当のことを言わないってこともあるそうなのです。その点、九曜の家は、元々皇族で帝とも血の繋がりはあるわけだし、呪詛に関しては、お父様、並みの陰陽師よりも詳しいから」
父を思って、うっとりしながら答えると、瀬野は単衣に涙の染みを作りながら、うなだれていた。
「……酷い。そのような契約となっているのなら、尚の事、東宮さまは姫様を気遣わなければならないのに、素知らぬお顔で……。姫様一人が危険な目に遭うなんて大損じゃないですか?」
「ええ。でも、父様は用が済んだら、私を実家に戻すと、帝の前で誓約されているそうです。御役目を果たせば、私は早々に実家に戻ることができますから」
「出戻りじゃないですか」
「いいんですよ。私は、今後婚姻する予定はありませんから。そもそも、そんな条件でもなければ、帝も私の入内を許しはしなかったはずです」
「甘いですね! 詰めが甘すぎます。そんなとんでもない誓約が、後宮の誰にも漏れないはずありませんよ。絶対どこかで、ばれてますって!」
「……ですよね。それだけが気がかりではあったのですが……」
そもそも、この策自体、間違っていたのではないか?
東宮も、不快の極みだろう。
彼の御方からしてみたら、維月には、さっさと用事を終えて出て行って欲しいはずだ。
――澄良親王。
尊い東宮さまの御名前だ。
入内の日に、こっそり父が耳打ちで教えてくれた。
瀬野の話によると、後宮内での澄良親王の評判は良く、利発で聡明。気性も穏やかで誠実で優しい御方だという話だった。
そんな御方の妃として、一時でもお役に立てるのなら、命懸けでも本望だった。
……けれど。
(問題は、そこなのよね。私が仮初の妃をしている影響で、呪詛の犯人が何も仕掛けて来ないのかもしれないし……)
維月は落ち込む瀬野の背を擦りながら、御簾の向こうの薄闇に染まる中庭に目を向けた。
今日も特に変化を感じることもなく、ずるずると一日を過ごしてしまった。
既に三カ月以上も、無為に過ごしている。
「いい加減、決着をつけないと面目ないですよね」
呪詛に対抗する為、入内した維月は、東宮の身の上には敏感だ。
しかし、こんなに時間を経ても、維月は呪術の痕跡すら感じない。
東宮に呪詛をかけようとしている人物は、維月の入内程度では、尻尾を出さないつもりなのだろうか?
――だったら、維月も何か行動を起こさなければならない。
「瀬野、文を出したいのだけど。手伝ってくれますか?」
その夜、維月は久しぶりに東宮宛てに文をしたためたのだった。
――仮初の妃。
改めて、自分で口にしてみると、何だか面映ゆい。
本来、東宮妃なんて、夢のような待遇で後宮に迎え入れてもらえたことを、維月は一生感謝しなければならない身の上なのだ。
維月の父は、太政大臣・九曜実視。
祖父は親王であったが、大逆の罪により、配流となり、後に許されたものの、九曜の姓を賜り、臣籍降下した。波乱万丈の人生を送った御方だ。
本来、罪人の血を継ぐ一族が、いくら形骸化してしまった役職とはいえ、太政大臣にまで出世できるはずもない。
だが、帝が親王であった時から、幾度も命の危機を救い、天変地異の予知などをしたことで、父は破格の出世を遂げることになった。
――実視には、不思議な力がある。
すっかり、父の力を信じこんでしまった帝に、父は帝の御子、東宮の周辺に呪詛が仕掛けられていると奏上した。
東宮には二年前にも、同様の騒ぎがあっだが、その時の犯人は捕まっていなかった。
同一犯だろうと判断した父は、その呪詛の正体を突き止めるために、東宮の傍に自分の一の姫を置いておく必要があると、進言した。
要するに、一の姫を東宮妃にしろということだ。
さすがに、帝も維月の入内については渋ったらしい。
赦されたとはいえ、罪人の家系の娘を東宮の妃に迎え入れるなんて、前代未聞だ。周囲の目もある。
それに、東宮自身も、維月の入内には反対していたらしい。
維月は、父から、そのことについても聞いていた。
(もし、東宮さまに、他に想い人がいたとしたら、絶対に嫌よね)
よもや維月の一存で、辞退なんて出来るはずもないのだが、他に呪詛を何とかする手はないのだろうか?
しかし、頭を捻っているうちに、結局、維月は入内することに決まってしまったのだ。
「姫様。それは確かに東宮妃なんて、大層なご出世だと思ってはいましたが、姫様の仰せになったことが、すべて事実だとしたら、それって単純に周囲を刺激したいとか、餌を撒いたってことで。つまり……」
瀬野が血相を変えて、維月の袿を引っ張った。
「つまり、姫様は、囮ってことじゃないですか?」
「ああ、そういうことになりますかね」
「何を落ち着いてらっしゃるのですか? おかしいですよ。魑魅魍魎とか、呪詛の類は陰陽師の仕事じゃないですか? 太政大臣家の姫様がなさるお仕事ではありません」
「それもね。ほら、陰陽師は仕事だから、仲の良い貴族に忖度して、帝に本当のことを言わないってこともあるそうなのです。その点、九曜の家は、元々皇族で帝とも血の繋がりはあるわけだし、呪詛に関しては、お父様、並みの陰陽師よりも詳しいから」
父を思って、うっとりしながら答えると、瀬野は単衣に涙の染みを作りながら、うなだれていた。
「……酷い。そのような契約となっているのなら、尚の事、東宮さまは姫様を気遣わなければならないのに、素知らぬお顔で……。姫様一人が危険な目に遭うなんて大損じゃないですか?」
「ええ。でも、父様は用が済んだら、私を実家に戻すと、帝の前で誓約されているそうです。御役目を果たせば、私は早々に実家に戻ることができますから」
「出戻りじゃないですか」
「いいんですよ。私は、今後婚姻する予定はありませんから。そもそも、そんな条件でもなければ、帝も私の入内を許しはしなかったはずです」
「甘いですね! 詰めが甘すぎます。そんなとんでもない誓約が、後宮の誰にも漏れないはずありませんよ。絶対どこかで、ばれてますって!」
「……ですよね。それだけが気がかりではあったのですが……」
そもそも、この策自体、間違っていたのではないか?
東宮も、不快の極みだろう。
彼の御方からしてみたら、維月には、さっさと用事を終えて出て行って欲しいはずだ。
――澄良親王。
尊い東宮さまの御名前だ。
入内の日に、こっそり父が耳打ちで教えてくれた。
瀬野の話によると、後宮内での澄良親王の評判は良く、利発で聡明。気性も穏やかで誠実で優しい御方だという話だった。
そんな御方の妃として、一時でもお役に立てるのなら、命懸けでも本望だった。
……けれど。
(問題は、そこなのよね。私が仮初の妃をしている影響で、呪詛の犯人が何も仕掛けて来ないのかもしれないし……)
維月は落ち込む瀬野の背を擦りながら、御簾の向こうの薄闇に染まる中庭に目を向けた。
今日も特に変化を感じることもなく、ずるずると一日を過ごしてしまった。
既に三カ月以上も、無為に過ごしている。
「いい加減、決着をつけないと面目ないですよね」
呪詛に対抗する為、入内した維月は、東宮の身の上には敏感だ。
しかし、こんなに時間を経ても、維月は呪術の痕跡すら感じない。
東宮に呪詛をかけようとしている人物は、維月の入内程度では、尻尾を出さないつもりなのだろうか?
――だったら、維月も何か行動を起こさなければならない。
「瀬野、文を出したいのだけど。手伝ってくれますか?」
その夜、維月は久しぶりに東宮宛てに文をしたためたのだった。