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 ――秋の世の 月の光は清けれど 人の心の(くま)は照らさず  

 季節が移ろうのは、早い。
 立后の儀の時は、梨の花が満開だった。
 温かな春を過ごし、蒸し暑い夏を経て、ようやく朝夕が涼しくなってきた秋。
 東宮の御渡りは、用件のみの数回だけだ。
 とりあえず、壮健でいらっしゃることは、報告を受けているので、単純に自分に会いたくないだけなのだろう。

 ――得体の知れない妃など、願い下げだ。

 維月(いつき)自身、東宮の気持ちは、よく分かる。

「姫様! いい加減、我慢の限界です」
「えっ?」
「この仕打ち、酷過ぎやしませんか?」

 読み飽きた書物から視線を上げて、物憂げに息を吐いたのがいけなかったのか。
 几帳をなぎ倒す勢いで、実家から連れてきた年上の女房・瀬野(せの)が泣きついてきた。

(すごいな……)

 緋の長袴で、派手に動き回ることができる瀬野の機敏さを、維月は見習いたかった。

「もう秋ですよ。あっという間に半年、一年経ってしまいます。それなのに、東宮さまからは何の音沙汰もありません。絶対、おかしくないですか?」
「そんなに怒らずとも。東宮様はお忙しいのですよ。仕方ありません」

 我ながら苦しい答えを告げ、軽く笑ってみせると、瀬野に大泣きされてしまった。

「それは勿論、私だって、東宮さまがご多忙であることは承知しております。でも、姫様は、後宮で、ご自身がどんなふうにお呼ばれになっているか、ご存知ですか? 泡沫の女御とか、月草の女御とか、いくらなんでも酷すぎますよ」
「ああ、すべて儚い感じのあだ名ばかりですよね。でも、月草って言うのは、私の名前の維月と月草をもじっているみたいだから、名付けた人は、賢い方で……」
「そんなこと、どうだって良いのです! 姫様は東宮さまに、もっと怒って良いと思います」
「怒る? 私が?」

 自分のことのように憤慨している瀬野こそ、維月にとって有難い存在なのだが、彼女にはまるで届いていないようだった。

「直接呼びつけて、叱ってやれば良いのです。いまだに私は後宮内で侮られていると……」
「別に虐げられてはいませんよ。不自由なく過ごさせて頂いているので、東宮さまには感謝しているのです」
「感謝って……。私には姫様が何を考えているのか、さっぱり分かりません。何だか、こうなることを、当然のようにされていて……」
「……予定通りですからね」
「どういう意味ですか?」

 瀬野は、維月の行儀作法の先生だ。
 急きょ入内することになった維月のために、身分は低いものの、高い教養があり、特に和歌の腕は都で一、二を争う名手である瀬野の評判を聞いて、女房に迎えたのだ。
 実家のことは、維月が黙っていても、後宮内で噂になっているだろうと、放っておいたのがいけなかったのかもしれない。
 ……いや。
 実のところ、ここまで瀬野が維月のことを心配してくれるとは、思っていなかったのだ。
 書物を膝に置いてから、維月は真実を口にした。

「……瀬野。こうなることは、最初からすべて決まっていたことなのですよ」
「どういうことですか?」
「私はね……。一時だけの、仮初の妃なのです」

 秋の夜の月は、人の心の奥底までは照らさない。

 ――そう。
 維月の本心など、この世の誰も知りはしないのだ。
 冥府にいる「あの人」以外は……。