Side朔夜

僕が聞く。すると彼女が口を開く。
「スタニスラフスキー・システムって、知ってますか?」
「すた……システム?」
聞いたことがない言葉に、僕は首をかしげる。
彼女はもう1度、綺麗な滑舌で
「スタニスラフスキー・システム」
と言う。僕には覚えられそうにもなかったので、うんと頷くだけにしておいた。
彼女は、ページをめくりながら
「ロシア・ソ連の俳優でもあり、演出家であったコンスタンチン・スタニスラフスキーが提唱した、演技理論です」
「へえ……そうなんだ……?」
とても難しそう。彼女は続けて
「役を生きる芸術に基づいている理論です」
「役を……生きる?」
「そうです。役を生きること……それは、演じるたびに、役の人物と同様の感情を体験することが必要ですよね」
「感情の体験が……必要……」
ぼそり、と彼女が言ったことを反芻してみる。

正直言えば、意識したことは全くなかった。
舞台に出させられていた時は

「その場に立って、ちょーっとかっこいいこと言ってくれれば良いから」
「深いこと考えないで、私の言う通りにやればいいのよ」

などと、ただセリフをなぞるだけ、ただ言われた行動をすればいいだけと言われていた。
だからだろうか。
僕は、その瞬間瞬間を、演じる登場人物として生きた……という実感がまるでない。

「君は、役と同じになったこと、あるの?」
今の僕が、ようやく聞ける質問を、どうにか振り絞ってみた。
的外れな可能性はあるが、会話をつなげることに僕は必死になっていた。

彼女はふと窓の外を見る。
「あの人、見えますか?」
彼女は指差す方向には、バス停のベンチに寝そべる、だらしない格好の中年男がいる。
「もし、あの人を演じろと言われたら、どうしますか?」
「えっ……」
まず、あの人の姿っぽい衣装を着て、あの人と同じポーズをすればいい?
そしてちょっといびきをかいて寝たふりをすれば良い?

僕は、考えた内容を言ってみた。
それについての回答は返ってこなかったが……
「きっと、寒いんだろうな……と思います」
「寒い?」
「それから、何故あんなところで寝そべらないといけないのか……その理由を、深く、深く考えます……」
「深く、考える……」
「私たちは……この生身や声で、現実の世界に現実じゃない世界を投影させる、プロジェクターの役割をしなくてはいけないと思っています。この本には、それに関するあらゆることが書かれています」

つまり、その本を読めば……君みたいになれる?

「その本読みたい!」
僕は無意識に前のめりになり、その本をめくる彼女の手を掴んでいた。
「……あの……いいですけど……」
「ほんと!?」
「もう何度も読みましたし……」
そう言うと、彼女は本を閉じて僕に渡す。
触っただけで、その本がどれだけ読み込まれたかがわかる。
「ありがとう」
と言いながらカバンに入れ、ふと考える。

……ん?
読みたい本があるから、今ファミレスにいると言っていたけれど……。
その本はすでに読んでいた……?
わざわざ僕とファミレスに入ってまで、読む必要はあったのか?

僕は彼女を見る。
彼女は、コーヒーを啜りながら、ぶつぶつと何かをつぶやいている。
「そもそもこの時間にいるのは何故か……家族はいるのか……それとも……」
先ほどの男についてあのだろう。
そうやって、考えて言葉にして、そのイメージを作ることで、深い演技ができる……ということなのだろう。
僕も、やってみたら変わるだろうか。
「終電に乗れなくて家に帰れない、でも眠くなったからソファで寝てる、とか?」
僕も考えを言ってみる。
「それこそ、ファミレスや漫喫でもよくないですか?」
「確かに」
「そこに入らない理由は、きっと何かあるはずです。そこがわからなければ、リアルは掴めないです」
「なるほど」

行動の裏の理由……か……。
演技をするということは、演じる人物のことをより深く知ることが大事。
そしてその大事なことがこんなにも楽しいと言うことを、この日の彼女との会話で初めて知った。

それから、お互いの意見を交わしてからどれくらいの時間が経っただろう。
「あ……」
彼女の呟きで、窓の外が明るくなったのが分かった。
「もう始発の電車、出てますね」
彼女のその言葉で、この時間が終わることが分かった。
それがひどく寂しい。


そして、僕達はファミレスを出た。
新鮮な空気が、僕の肺いっぱいに広がって、眠気を吹き飛ばす。
すでに、あのベンチの男は消えていた。

「それじゃあ、ここで」
彼女が僕に会釈をして、帰ろうとする。
「待って!」
僕はまだ、彼女と話したかった。
彼女は、怪訝な顔をする。
僕は苦し紛れに

「スタニなんちゃら・システムについて、もっと聞きたい。連絡先教えて!」
と言う。
彼女は、最初口をぽかんと開けたままだったが、ぷっと吹き出して笑い始めた。
「スタニスラフスキー・システム、ですから!」
「あーそうそう、それそれ」
彼女が、自分の言葉で満面の笑みになってくれたのが嬉しかった。

そうして、僕と彼女はLINEを交換して、正反対の方向に帰った。
でも、僕達は、その後もLINEで話し続けていた。


彼女が、僕が真剣に考えた言葉だけに反応してくれるということが、ただ嬉しかった。