どうしてそんなことを聞くのだろうと不思議に思いながらも、『成瀬君。下の名前は慧だよ』と打つと、どこかほっとした顔をする彼女。
 誰かと勘違いしたのだろうか……? 桐は「ごめん、なんでもない。行こう」と、何かを誤魔化すように笑う。
 私は何か言いたげな彼女に質問したい気持ちを抱えながらも、駅前の人気カフェへと向かったのだった。



 成瀬君が陸上部を辞めたことは、帰宅途中からじわじわと大きなショックへと変わっていった。
 私なんかより衝撃を受ける人は沢山いるだろうけれど、私もあの美しい骨格を美術室から眺めることがもうできないのかと思うと、残念な気持ちでいっぱいになる。
 家族以外で、成瀬君以上に描きたいと思える人物に、いまだに出会えたことがないのに。
 落ち込みながら家のドアを開けると、バタバタと大きな足音が聞こえて、小さい生き物が私の腰に引っ付いてきた。
「柚ねぇ、おかえり!」
「ただいま、巴(ともえ)」
 飛びついてきたのは、まだ七歳の幼い妹、巴だ。
 まだ小学1年生だけれど、私が外では上手く話せないことはなんとなく理解してくれている。
 そして、この玄関が、私の声帯の境目。
 安全領域に入ったと脳が判断したその瞬間、するりと声が出てくる。
 こんな風に普通に会話をしている様子をクラスの誰かが見たら、場面緘黙症はただの甘えだと思われてしまうかもしれない。
 私だってみんなと話してみたいけど……、“学校”という場所が、私の声帯をぎゅっとねじ切るように押さえつけてしまうんだ。
 勇気を出して保健室登校を止めてみたけど、この行動が吉と出るかどうかはまだ分からない。
「柚葵、おかえりなさい。もうご飯できたからね」
「ありがとう。もうお腹ペコペコだよー」
「桐ちゃんとケーキ食べてきたんじゃないの?」
「デザートは別腹だもん」
 体に引っ付いてくる妹をなんとか剥がして、私は洗面台へと向かう。
 家族と桐だけは、外でも少しだけなら話せることもたまにあるが、基本的には家の中でしか声を出すことはできない。
 家の中では普通に話せているので、家族に自分の症状を知られたのは、発症してから半年経ったあとだった。
 原因は、恐らく“学校内での精神的ストレス”だろうと、お医者さんに説明を受けた。