私は絵筆を取り、彼の透けるような髪の色を再現しようと、そっと淡い茶色をのせた。
 水彩画は奥が深い。
 光の入り方、影の入り方……、薄い色を重ねるうちに、終わりのない旅がキャンバス上で始まる。
 絵を描くことだけは、昔から好きでずっと続けてきた。
 願わくば、尊敬するとある画家が卒業した北海道にある美大に行きたいと思っているけれど、声が出せないことの支障は多少なりともあるだろう。
 受験までに少しでも改善したい。そう思って、保健室登校を止めようと決断したのが、昨年の夏だった。
 きっかけは、成瀬君がまだ一年生なのにインターハイで優勝したというニュースを、テレビ上で観たからだ。
 ひたむきに、何かと戦うように走る姿が美しいと、ずっと思っていた。
 普段は何にも興味なさそうな態度の彼なのに、スタートの号砲が鳴った瞬間、急に周りの空気が変わって、ライバルなんか気にせず、自分との戦いだけに集中して走る。
 その姿勢はこんなに大きい大会でも同じで、常に自分の心だけと戦っている――そんな姿を見て、気づいたら涙が出ていたのだ。
 私も、私自身と、こんな風に立ち向かいたい。そう、強く思った。
 それから、私は成瀬君の走る姿をたびたびスケッチするようになったのだ。
 誰に見せるわけでもなく、自分のために筆を走らせる。成瀬君の、モデルのような骨格の美しさも、描きたいと思う理由のひとつだったけれど。
 でも、それほどに、彼の存在は私の中でまばゆく、“遠いもの”であってよかったのに。
「志倉」
 コンコン、と開けっ放しだったドアをノックする音が聞こえて、私は慌ててうしろを振り返る。
 そこには、なんとも言えない表情をした成瀬君がいた。
「お前、声駄々漏れすぎ」
 いったい、どこから聞こえていたのだろう。
 もしかして、成瀬君のことを隠れてスケッチしていた流れを全部聞かれてしまったのだろうか。
 私は羞恥心で一気に顔に熱が集まるのを感じたけれど、彼は何も気にしない素振りで私の斜め前にある席に座った。
「さっきまでのは聞かなかったことにしておく」
『どこまでだろう……』
「骨格のところまで」
『えっ』
 会話内容は一旦置いておき、心で思ったことで会話が成立していることに、私は驚き感動した。
 この学校で誰かとこんな風にやりとりをしたことなんて、本当に初めてのことだから。