「おや。お似合いですよ、芙蓉姫」
「……ありがとう、ございます……」

 外朝と後宮を繋ぐ朱雀門で、芙蓉は如閑と落ち合った。
 落ち着かない気持ちで衣を引っ張る。それは宝林──位は正六品──の証である薄青の襦裙だった。執務室を出た後、芙蓉は女官に拉致され、これに着替えさせられたものである。

「下女のままでは出入りできる場所も限られますからね。陛下から勅授していただきました。宝林は辛うじて妃嬪、という位ではありますが、調査に困ることはないでしょう」
「あの、如閑さま」
「なんでしょう」

 立板に水の勢いに気圧されながら、芙蓉は彼を見上げた。目が合うと、如閑はきちんと口
を閉じて芙蓉の話を聞いてくれる。

「……私に、敬称をつけていただく必要などございません。芙蓉、と呼び捨てていただければ幸いです」
「拙も敬う相手は選びますよ。それでは芙蓉姫、参りましょうか」

 話を聞いてくれることと望みを叶えてくれることは別問題である。さらりと流されて、芙蓉は俯いた。襦裙の薄青が目に眩しい。
 勅命によって如閑とともに貴妃を守ることになったものの、芙蓉は本当に困り果てていた。今まで誰かに何かを期待されたことなどないし、望みに応えられたこともない。もしこの命令に失敗すれば、芙蓉はおろか如閑にも累が及ぶのではないかと考えると、体がこわばった。何を考えているかよく分からないが、芙蓉に敵意を持っていないらしい人物を危険に晒したくない。
 如閑は堂々と門をくぐり、後宮に足を踏み入れる。その後をついていきながら、芙蓉はふと首を傾げた。

「……如閑さま、一つ尋ねてもよろしいでしょうか」
「一つでなくとも、何なりと」
「あの、陛下以外の男性が後宮に入っても良いのでしょうか?」
「ああ、それですか」

 如閑は振り返り、肩をすくめてみせた。

「これは勅命ですから。それに拙は后妃に興味がないですし」
「……陛下から信頼されているのですね」

 興味がないなんて、口先だけではなんとでも言える。けれど、皇帝と如閑の間では違うのだ。後宮に来て初めて光り輝くものを見たような気がした。
 が、如閑は鼻を鳴らした。

「単純に、陛下は後宮の女に全く執着がないのですよ。後宮は貴き血筋の継承機関とお考えだ」
「……それでは、余計によその血が混じっては大変でしょう。如閑さまだからお許しになっている……そう思います」

 ぽつぽつと話すと、如閑は足を止めた。芙蓉を見据え、

「あまり、陛下や拙のような人間を信頼し過ぎてはいけませんよ」
「……はい」

 怒られた。芙蓉はしょんぼりと肩を落とす。けれど、わざわざ警告してくれるあたり、やはり信頼に値すると思う。
 風に吹かれながら、二人で小径を歩いていく。辺りの木立が葉を揺らし、乾いた音を立てる。桜はだいぶ散ってしまっていた。

「そういえば、状況についてきちんと説明していなかったですね」

 如閑が思い出したように口を開いた。いつの間にか横に並んで歩いていた芙蓉は、隣を見上げる。

「最近、劉貴妃の周囲で体調を崩す宮女の数が増えているのです。それだけならまだしも、夜に異形の影を見たという証言や、実際に怪我をしたり精神を病んだりする者もいます。貴妃に被害が及ぶ前になんとかせよ、というのが陛下の命です」
「呪い、でしょうか……?」
「十中八九、そうでしょう」

 如閑は頷いた。周囲に視線をめぐらせる。

「芙蓉姫にも見えるでしょう。元々後宮は負の感情が溜まりやすく、呪いに手を出しやすい環境ではありますが、それにしても貴妃の周りだけは淀み過ぎているのです。負の気に当てられて、体調を崩す人間が増えてもおかしくない」

 つられて芙蓉も辺りを見渡した。確かに、後宮の至る所に黒い靄が漂っている。後宮入りした当初はあまりの靄の量に驚いたものだが、もはや何とも思わなくなった。

「劉貴妃は出産直近ですからね。皇帝の血を継ぐ子が流れては一大事だ。それで陛下はこの調査を命じたのですよ」

 園遊会で遠目に見かけた貴妃を思い出す。確かに天幕の中で、大きなお腹を抱えていたかもしれない。芙蓉は玉環以外の后妃に会ったことがないため印象が薄い。下女は高貴な人間の目を汚してはいけないため、自分の仕える后妃以外には御目通りが叶わないのだ。逆に、后妃同士が会う際に下女を連れていくことで、相手を侮辱する方法もある。

「ああ、あれをご覧なさい」

 如閑が小径の先を指さした。たくさんの洗濯物を抱えた宮女が歩いている。芙蓉の目にはごく普通の姿に見えて、首を傾げた。

「着いてきてください。面白いものをお見せしますよ」

 如閑は軽やかに歩を進める。芙蓉も慌てて背中を追った。

「失礼、そのように大荷物を抱えては大変だ。お手伝いいたしますよ」
「……はあ?」

 如閑に話しかけられた宮女が怪訝そうに眉を寄せる。間髪入れず、如閑が彼女の額に人差し指を押し当てた。

「まがものよ、汝の正体を顕せ。急急如律令」

 途端、宮女が喉を掻きむしって苦しみ始めた。人の声とは思えぬ野太い声が唇から漏れ、みるみるうちに体が縮んでいく。芙蓉が唖然としているうちに、その姿は一匹の狐に変じた。狐は焦ったように這って逃げようとする。

「逃しませんよ──窮奇!」

 如閑が鋭く告げると、彼の影から何かが飛び出してくる。それは翼を生やした虎の姿の獣で、狐を前脚で押さえると、大きく口を開いて一息に飲み込んでしまった。それからぺろりと舌なめずりをすると、ひたと芙蓉を見据える。思わず芙蓉は一歩後ずさった。背中を冷たい汗がつたう。

「窮奇、あまり芙蓉姫を怯えさせないように」

 如閑が口を開いた。と、窮奇は鼻面を如閑の方に向け、恭しく頭を下げる。そのまま翼をぐんと伸ばして一声大きく吠えると、如閑の影の中に溶けていった。
 もはやその場には、先ほどまで宮女がいた痕跡はどこにもない。立ち尽くす芙蓉に、如閑が何でもないように声をかけた。

「今のは妖狐ですね。どこぞの方術士が捕まえて、自分の式にしたものでしょう。それを後宮に送り込んで、誰かを──まあ、貴妃を害そうとしているのだと思います。妖狐が持っていたのは、貴妃の侍女に与えられる襦裙でしたし」
「そう、なのですね……」

 芙蓉はそこまで見えていなかった。ただ突然目の前で行われた争いに呆然としていただけである。

「あの、窮奇、というのは如閑さまの式なのですか?」

 芙蓉の問いかけに、如閑は頷いた。

「ええ。陛下が玉座を求めて兄君たちと争っていた際に送り込まれたのを、拙が調伏したものです。なかなか使い勝手が良くて重宝しています」
「そうですか……」

 芙蓉は一睨みされただけで竦み上がってしまったが、彼にとっては違うのだ。改めてその差は歴然としている。そんな人がわざわざ芙蓉の力を借りる必要などあるだろうか。
 芙蓉は俯く。それでも、皇帝から命じられた以上、彼女には如閑とともに貴妃を守る以外、道はないのだ。

「それでは、これから貴妃のもとへ向かいますか?」
「その通りです。ほら、あそこに見えますよ」

 如閑が指さす先には、白壁と朱色の柱で精緻に組み立てられた楼閣があった。

「あれが劉貴妃の住う宮──蘭舟宮です」