園遊会当日の空は晴れ渡っていた。後宮の中央にある小さな湖を囲み、皇帝・貴妃・淑妃がそれぞれ天幕を張っていた。皇帝は血生臭い継承戦争を乗り越えて皇位についたばかりであり、後宮にも空位が目立った。特に四夫人で位についているのは貴妃と淑妃だけ。園遊会で皇帝のそばに侍ることができるのもこの面々なのである。

(あれが、陛下)

 三日間の徹夜ののち、全員分の衣の手入れを無事に完了させた芙蓉は、淑妃の天幕で細々とした雑用をこなしながら、こっそりと皇帝の方を盗み見た。碧楼宮へ御通りがあるときは、基本的に叩頭しているため皇帝の姿を見たことがない。火の光の下で見た皇帝はまだ若く、深い紺色の髪が印象的な美丈夫だった。金糸の刺繍で彩られた紫衣に身を包み、後ろに控える臣下らしき男と何やら会話を交わしている。
 その臣下に視線をやり、芙蓉はぎょっとした。その男の背後には、見たことのないほどどす黒い靄がわだかまっていた。しかも男の影は光を吸い込みそうなほど異様に黒く、時々生き物のように揺れている。呪いか妖怪かはたまた神獣か。常世の理から外れたものと深いつながりを持っているに違いなかった。

「見て、陛下の後ろの……」
「ああ、あの方術士でしょう。如閑(しかん)とかいう名前だったかしら。先の戦で活躍したと言われているけど、なんだか不気味よね」
「この国で一番妖力が強いらしいわよ」
「やだ、目を合わせたら呪い殺されるんじゃないの。見た目も怪しいし」

 近くの侍女が噂しあっているのを聞いて、芙蓉はハッと我に返った。
 確かに男をよくよく観察すると、そもそも風体からして異様だった。髪は老人のように白いのに、艶は若さを保ったまま。右目を呪符のようなもので覆い隠し、左目には黒色の房のついた片眼鏡をかけている。長袍も黒色で、黒が許される位はないから無冠だろう。しかし皇帝と揃いの金糸の刺繍が施されており、一定以上の敬意が払われていることが分かった。
 方術士なら、と芙蓉は男の背負った靄に納得する。この国で一番、という噂もあながち間違いではないだろう。あれだけの呪いを一身に受けて平然としていられるのだ。只者ではない。

「ちょっとお姉様、手が空いたならこの皿を下げて頂戴」
「はい。ただいま」

 玉環に命じられ、芙蓉は仕事に集中する。言われた通りに皿を下げ、厨房へ向かった。
 それにしても、と芙蓉は辺りを見回す。
 至るところで官服の男と華やかな衣装を着た女が楽しげに談笑している。花見のために植えられた桜の木立が、彼らの姿を隠していた。桜の花弁が風に散って、空気を薄桃色に染め上げている。
 けれどそれを塗りつぶすように、黒い靄が漂っていた。
 今日は外部から客を招いているせいか、呪いも多い。後宮は生馬の目を抜く地獄だが、官吏や武官も大概だろう。どこでどんな人間に恨まれ、憎まれているか分からない。そしてある程度の地位になれば、敵を蹴落とすためにありとあらゆる手段を取り得るのだ。それが呪いであっても。

(今日はできるだけ悪目立ちしないようにしよう。変な目で見られるのは慣れているけれど、騒ぎになって不興を買えば、玉環からどんな折檻を受けるか分からないもの)

 ひっそりと心に決め、できるだけ気配を消して厨房に皿を返す。天幕に帰る道中も、なるべく人のいない道を選び、足音を殺して歩いた。
 それなのに、出会ってしまった。
 人気のない回廊。道を塞いでいるのは、昏い穴が三つ空いた面を被った巨大蜘蛛だった。足が動くたびに床を引っ掻く音が響く。
 妖怪だ。
 芙蓉は辛うじて悲鳴を飲み込み、素知らぬふりを装って柱の影に身を隠した。見えていることが相手に知られれば、きっと襲いかかってくる。実家でもこの手の異形のものとはいくらか遭遇した。とにかくこちらの存在に気付かれないことが肝要だ。柱にもたれかかり、小刻みに震える両手を握りしめる。余計な思念を消し、ただ一つだけを念じる。
 消えろ、消えろ、消えろ──ここにいる私なんか、消えてしまえ。
 これが芙蓉のやり方だった。妖しいものと出会ったとき、自分の存在がこの世から消えるように祈るのだ。そうすると、本当に自分の輪郭が空気に溶け始め、やがて解いた糸のようにバラバラになり、妖怪をやり過ごすことができる。その後しばらくは地に足のつかない心持ちになって元に戻るのに時間がかかるが、見つけてもらいたい人が特にいない芙蓉にとっては、大した問題ではなかった。
 けれどその日はだめだった。蜘蛛が何かに感づいたようにギィ、と鳴き、ガサガサと回廊を移動した。近寄ってくる。芙蓉の隠れる柱を回り込み、顔を覗き込んでくる。面に空いた穴が視界いっぱいに広がる。底無しの闇に囚われてしまいそうで、思わず顔を背けた。
 それがいけなかった。ギキッ、と高い鳴き声をあげて、蜘蛛が足を上げる。そのまま自分の体と柱で芙蓉を潰すようにのしかかってきた。
 焼いた骨のような異様な臭気に包まれる。蜘蛛の裏側は見ていられなくて、芙蓉は固く目を閉じた。かちかちと音を立てて歯が鳴る。肋骨の内側で心臓が暴れ、血の気が引いて今にも倒れそうだ。それでも悲鳴を抑えるために、口元を両手で押さえた。この場を見られたら、一人で狂乱に陥っている異常者だろう。
 蜘蛛の足が頬に触れる。圧迫感が強くなって骨が軋んだ。息ができなくなる。それで、芙蓉は納得してしまった。
 ああ、ここで死ぬのか。
 妖怪に餌として食われ、死ぬのだ。
 すっと体から力が抜ける。痛みも、苦しみも、もはやどうでもよかった。
 思い返せば、この世に未練は一つもない。芙蓉が死んだとて悲しむ人は一人もいないし、困ることもいない。いたぶる相手がいなくなった玉環がつまらなく思うくらいだろう。いや、もしかするとそんな感情すらないかもしれない。すぐに忘れ去られて、芙蓉の存在はなかったことになる。きっとそうだ。
 蜘蛛の足に体を包み込まれる。頭が面の穴に飲み込まれた。何か理解してはいけないものを理解しそうで、常世の外側を透かし見て──。
 そのとき、涼しい声が回廊に響き渡った。

「まがものよ、微塵となりて退散せよ。急急如律令」

 金属を擦り合わせるような甲高い呻き声が尾を引いたかと思うと、圧迫感が消え失せる。ハッと息を吸うと清浄な空気が肺を満たした。続けて床にへたり込み、荒い呼吸を繰り返す。まだ体がふわふわして、自分のものではないような気がした。

「おや、芙蓉姫。ここにいたのですね」

 蜘蛛を追い払ったのと同じ声が、芙蓉の名を呼ぶ。涙の溜まった目をうっすら開くと、そこに立っていたのはあの黒い靄を背負った方術士──如閑だった。薄い笑みを唇に乗せ、片眼鏡の奥の瞳を細めて芙蓉を見つめている。

「どうして……私の名前を……」

 切れ切れの呼吸の合間から、なんとか問いを絞り出す。うまく頭が回らない。如閑はこともなげに答えた。

「拙はあなたを探していたので」
「私を……?」
「はい」

 笑みを深める。芙蓉のそばに膝をつき、手を差し出した。

「あなたもこの世ならざるものが見えるのでしょう? 力を貸してくれませんか」

 芙蓉は差し出された手と、如閑の顔を見比べた。胸の前で手を握りしめ、目を伏せる。

「……私にお貸しできるような力はございません。ただ何かが見えるだけで、お役には立たないかと」

 か細い声で答える。彼の顔は見られなかった。
 それが事実だった。芙蓉は何の力も持たない。先程の彼のように妖怪を退けるようなことはできないし、立ち向かうこともできない。自分の身一つ守ることさえ失敗した。期待に応えられる気はしなかった。

「そうですか」
 如閑は淡々と頷いて、芙蓉の手を強引に掴んだ。そのまま恭しい仕草で彼女の腰を引き寄せ、立ち上がらせる。

「非常に残念です。それでは強硬策を取りますね」
「え?」

 彼はにっこり笑って、芙蓉の乱れた前髪を指で払った。

「今日はもうお休みなさい。疲れたでしょうから」
「あの」
「碧楼宮まで送っていきましょう。またああいうモノと出くわすと厄介ですから」
「待ってください」
「どうしました? 気が変わったのなら……」
「その、助けてくださってありがとうございました」

 如閑はきょとんとして口を閉じた。芙蓉の顔をまじまじと見つめ、懐かしむようにふっと笑う。そうしていると怪しさが消え、芙蓉は彼の顔がずいぶん整っていることに気がついた。

「……いいのですよ。全ての出来事には報いがあるだけのことですから」

 その後は、芙蓉が何を言っても、彼はまともに取り合ってくれなかった。