その日の夕方、小豆が店のドアを開けた。その表情は今にも泣きそうだ。

 涙はかける言葉に迷い、結局なにも言えなかった。優夜が置いてそのままにしていたお菓子を、小豆に気付かれる前に隠す。

 小豆は静かに涙の前に座った。どちらも口を開かず、空気が重くなる。

 そんな中、小豆の前に湯気の立つカップが置かれる。喉が渇いていたのか、小豆はなにも考えずにそれを飲んだ。

 喉を通っていったとき、初めて自分が飲んだものを認識した。

 小豆は顔を顰める。

「苦い」
「ミルクも砂糖も入れてないからな」

 舌を出して飲んだことを後悔する。

 カップを置き、黒い水面を見つめる。次第に視界が滲んでいく。

「るー君、意地悪だ」

 小豆の声は震えている。まだ泣くのを我慢しているらしい。

「私がコーヒー飲めないのわかってて出すなんて、いじめとしか思えないよ。ここは、甘いココアとかで癒してくれるところでしょ」

 涙は黙って小豆の言葉を受け入れる。その対応が正しかったらしく、小豆の口は止まらない。

「もう、これ苦いよ……苦い……」

 小豆が俯いて言葉をこぼす。カップを抑えていた左手は胸元に移動し、強く服を掴んだ。

「……苦しい」

 コーヒーの感想を言っていたはずだったのに、弱音に変わった。それと同時に、テーブルに一粒の(なみだ)が落ちる。小豆は両手で顔を覆い、それを隠す。

 鼻をすする音が聞こえるが、小豆がそれ以上言葉を発することはなかった。

 涙はまた静かにカップを置く。その音で手を外す。今度はさっきよりも色が薄くなっているが、小豆は涙が自分のわがままを聞いて飲み物を出してくれたとは思えなかった。

「またコーヒー?」
「嫌かもしれないが、騙されたと思って飲んでみろ」

 この状況で涙と言い合う気力はなく、小豆は言われるがままにそれを飲んだ。

「……おいしい」
「カフェラテだ。簡単に言えば、コーヒーにミルクを入れて甘くしてある」

 小豆はもう一度カフェラテを飲む。

 甘さの中に少し苦みがある味は癖になり、ついに飲み干した。空になったカップがテーブルに置かれる。

「るー君が正しかった。あの人のこと好きになってたみたい」

 小豆が話し始めても、涙は口を挟まない。ただ静かにそれを聞いている。

「私、お礼のお菓子を渡したとき、告白みたいなこと言っちゃって。でも答え聞くのが怖くなって、逃げたの」

 また小豆は視線を落とす。その先には最初に飲んだコーヒーがある。

「なんであんなこと言ったかなって後悔しながら、なんとなくここに来ていたら、偶然あの人を見つけて」

 小豆の言葉がそこで止まった。その現実を口にしたくないらしい。

「恋人と歩いてたか」

 しかしその続きを、涙が容赦なく言う。涙が知っていたとは思わず、顔を上げた小豆は目を見開いていた。それから不満そうな視線を投げる。

「知ってたなら、教えてくれればよかったのに」
「頑なに好きじゃないって言ったのは誰だ」

 小豆は目を逸らす。二人の間に妙な時間が流れる。

「どうしてあの人に恋人がいることを知ってるの?」
「ここには余計なことを言う客が多いからな」

 それはあまり答えになっていなくて、小豆は不服そうにする。だが、その目はそればかりではなかった。

「客が誰と付き合っているかまで話す人がいるなんて、本当、余計なことを言うんだね」

 軽蔑するかのような言い方だ。

「一応その客のために説明すると、そいつの彼女が俺の元恋人で、二股されてるんじゃないかって聞いてきただけで、わざわざあいつの恋愛事情を説明してくれたわけではない」

 小豆はゆっくり、数回ほど瞬きをする。

「るー君の元カノが、あの人の今カノって……嘘でしょ」
「こんな趣味の悪い嘘つくかよ」

 そう言われてしまうと、信じるしかなかった。

 少しずつその事実を受け入れると、小豆は苦笑した。

「私たち、失恋仲間だ」

 涙は言葉を返さないが、口元は笑っている。だが、小豆に同意して苦笑しているのか、それとも呆れて笑っているのかまではわからない。

「ねえ、るー君」

 小豆は飲めないコーヒーを持ち上げる。

「恋って苦いものだったんだね。このコーヒーみたいに」

 そしてそのまま涙に渡す。涙は返上されたコーヒーを飲むと、その味に満足そうな顔をした。

「でも、百パーセント苦いだけじゃない恋だってある。それこそ、カフェラテみたいな恋とかな」

 それを聞いて、小豆は小さな笑い声を出した。少しだけ元気を取り戻したようで、涙は安心の色を見せる。

「るー君がそんなこと言うなんて、変なの」
「お前のことだから、苦しいだけなら恋なんてしないとか言いそうだったからな」
「……ノーコメント」

 その言い方に、涙は鼻で笑う。そしてさらに小豆の心を見透かしたようなことを続けた。

「あいつを好きにならなきゃよかったって後悔してるか?」

 小豆は口を噤む。それは無言の肯定だった。

「でも俺は、小豆があいつに恋してよかったと思うよ」

 それを皮肉な言葉として受け取ったことで、小豆は涙を睨みつける。

「私が苦しんだのによかったとか、意地悪すぎない?」
「そうじゃなくて。あいつに恋したことで、小豆は少しだけ成長できただろ。確かに苦しんだかもしれない。だけど、悪いことばかりじゃなかった」

 そう言われて小豆はここ数日の自分の行動を思い返した。

 涙に厳しい言葉をぶつけられて、自分で優夜に渡すお菓子を決めた。どう渡すかを考えて、勇気を出して声をかけた。そして、渡すことができた。

 これは今までではありえないようなことだった。

 残念な結果だったとしても、そこまでのことは悪いことばかりではなかったのかもしれないと思えた。

 小豆は頬を緩める。

「やっぱり、るー君は優しいね」
「そう言うのはお前だけだよ」

 誉め言葉を受け入れてもらえず、小豆は不満をあらわにする。

 だが、すぐになにか閃いた表情をした。少しだけ身を乗り出す。

「るー君、お悩み相談みたいなことしなよ。そしたら、みんなるー君が優しいってことわかってくれると思う」
「やらない」

 即答だった。

 名案だと思って言ったが聞く耳を持ってもらえず、小豆はさらに拗ねた顔を見せる。

「母さんがそれをやって、体の調子を悪くした。だから俺は、やらない」

 それを聞くと、無理強いはできなかった。

「人の感情は伝染する。つらいって言う人がそばにいれば自分も落ち込むし、笑っている人がいれば、自然と笑顔になる。不思議だけど、そういうもんだろ。闇ばっかり聞いていたら、自分も闇を抱える。そしてその闇を対処しきれなくなって、壊れる」
「そうか、そうだよ」

 涙の話を聞いていて、小豆は一人で完結した。

「天さんは一人でやっていたから、体調が悪くなった。でも、今はるー君も私もいる。私たちが天さんの話を聞いてあげればいいんじゃないかな」

 今度こそ名案だと言わんばかりに話を進めていく。

「天さんがお悩み相談をやって、閉店後は私たち三人でおしゃべりをする、とか。いいと思わない?」

 涙は首を縦に振ろうとしない。それどころか、今の小豆の話を聞いていたのかすら怪しい。

「私は賛成」

 キッチンスペースから天が顔を出す。

「そろそろお店に出たいなって思ってたんだけど、どうしてもあのころの記憶が頭をよぎって怖くなってたんだ。でもあずちゃんが言ったみたいにすれば、上手くいくような気がする」

 天に賛同してもらえたことが嬉しくて、小豆は笑みをこぼす。

「せっかくだし、あずちゃん。ここでバイトしない?」
「いいの?」

 小豆は目を輝かせる。

「もちろん。私がホールに出るってことは、キッチンに入る人がいなくなるからね。お菓子作りもできる子は大歓迎」

 やはり『tear』に関することの決定権は天にある。天が決めたことに対して、涙が言えることなどなにもない。涙は、悩み相談をすること、そして小豆がバイトとして入ることに賛成せざるをえなかった。