カップの三分目までコーヒーを、そして六分(ろくぶ)ほど温めたミルクを注ぐ。残りのミルクは素早く泡立てていく。

「ここ、本当に居心地いいね」

 目の前で行われていた涙の手元には一切興味を示さず、小豆は店内を見渡す。

 木材を多く使っていることもあり、懐かしさを感じる。さらに穏やかな音楽まで流れていて、癒しの空間を作りたいという願いがそのまま形になっているようだ。

 小豆は今日、初めて『tear』を訪れた。大学進学をきっかけに一人暮らしを始め、『tear』の近くに引っ越してきたのだ。

「母さんがこだわって作った場所だからな」
「さすが天さん」

 チョコケーキにフォークを入れ、口に運ぶ。その甘さにとろけるような表情になる。

 天は涙の母親で、『tear』を始めた人物だ。ちなみに小豆の母親の親友でもあり、小豆と涙は幼なじみという関係にある。

「まあ、店の名前だけは気に入らないけど」
「あ、(なみだ)

 小豆は言われて気付いた。しかし本人が気にしているから、それ以上は言わない。

「それ、天さんに言ったことあるの?」
「もちろん。どうして俺と同じ名前なんだって、文句言った。そしたら、俺の名前から付けたんだ、客に話す由来は後付けだって、笑って」

 不服そうに見えるが、それを話す涙の表情は柔らかかった。つられるように、小豆も微笑む。

「天さん、元気?」

 視線を落とし、遠慮気味に尋ねるが、涙は答えず、泡立てたミルクを入れて完成したカプチーノを運ぶ。

「ねえ、無視しないでよ」

 戻ってきた涙に文句を言うが、涙は気にする素ぶりを見せない。それどころか、戻る途中に受けた注文のコーヒーを作り始めている。

 小豆は会話を諦め、目の前のケーキに集中した。

 二人の間に沈黙が訪れるが、一人の男性客が会計をしたいと、二人の間にやって来た。

「なあ、涙。この子、お前の彼女か?」

 受け取ったおつりを財布にしまいながら尋ねる。

 小豆は涙の彼女というワードに反応し、あたりを見る。しかし涙の彼女らしき人はどこにもいない。それどころか、その客は小豆のことを見ていた。それで自分が涙の彼女と言われていることに気付く。

 戸惑い俯く小豆に対し、涙は呆れたようにため息をつく。

「小豆は母さんの親友の娘で、妹みたいなもん。彼女じゃないから」
「そうか。やっと涙が前に進めたと思ったんだが、違ったか」

 その客は天が店を始めたときからの常連客で、涙のことをよく知っていた。それは、恋愛事情も例外ではなかった。

「おっさん、あまり余計なこと言うようだったら、出禁にするからな」

 涙は冷たい声で言う。

「おお、怖い。涙の味はもう日常の一部だからな。出禁は困る」

 男性は笑って店を出て行った。

 小豆は少し戸惑いを見せながらも、最後の一口を飲み込む。

「るー君に、好きな人が……」
「そんなに驚くことか?」

 小豆は迷わず頷く。反応の速さに、涙は苦笑する。

「二十年以上生きてるんだ、俺にだって彼女くらいいたよ」

 涙に彼女がいた事実に驚きが隠せないのか、小豆は目を見開いている。

「るー君に、彼女……」

 涙の恋愛事情を知ったときと同じような言い方をする。

「まあ、私とお店、どっちが大事なの?ってフラれたけどな」

 あまりにも淡々と語るから、小豆はどういう反応をすればいいのかわからなかった。

 しかし別れてしまったことを気にしていないからといって、深堀りすることもできなかった。

「おい、わかりやすく困るなよ」
「だって、そんな質問されたってことは、るー君はその人のことが好きだったのに、フラれたってことでしょう? つらかったはずなのに、るー君、笑ってるんだもん」

 小豆は思ったことをそのまま言葉にした。涙は微笑んで手を伸ばす。小豆の頭に置くと、思いっきり髪をぐしゃぐしゃにする。

 小豆は抵抗の声を出す。

「昔の話だから、そんな気にすんな」
「……わかった」

 手櫛で髪を整えると、小豆はアイスココアを飲みながら、穏やかな時間を過ごした。

「じゃあ、そろそろ帰るね」

 席を立ち、財布を出す。

 チョコケーキとアイスココアの代金を支払い、カバンを肩にかけて振り返ると、ドアが開いた。一人の若い男性が入ってきて、涙の声を聞きながら迷わず窓際の席を選んで座った。

 小豆はその彼を見て、固まっている。

「小豆?」

 そんな小豆を不思議に思い呼ぶが、反応がない。涙は小豆の頭を小突く。小豆は頭を押さえながら涙を見た。

「どうした」
「ううん、なんでもない。またね」

 明らかになにかあったと思わせるような言い方だったが、涙が言及するより先に店を後にした。