翌日のこと。星蔡は関妃の元に向かった。
 宮廷内で起きた事件は禁衛府の管轄となり衛吏が調査などを行うのだが、此度の件はあやかし絡みのため、妖妃にも関わらせるよう奉遜が命じたのだ。衛吏も帝の命とあれば背くことはできず、別の宮で静養している関妃を尋ねても咎められることはない。

 部屋に通されると、臥床に伏していた関妃が身を起こす。梨喬に負けず劣らずの美貌を持ちあわせているが、妖艶な美を持つ梨喬に対し、関妃は清麗さを感じさせる。昨日のことがあるので顔色はあまりよくない。

「あなたが妖妃ですね」

 弱々しい声で関妃が告げた。

「妖妃が鬼火を祓ってくれたのだと陛下からお聞きしました。妖妃が駆けつけてくださらなかったら、宮女やわたくしは命を落としていたかもしれません。助けてくださりありがとうございます」

 関妃、そして艶黄色の襦裙を纏った宮女らが頭を下げた。彼女たちの瞳に、あやかしの妃に対する恐れは感じられなかった。

「陛下から鬼火の件について調べていると伺いました。わたくしにできることならば協力いたします」
「では鬼火が出る前の状況を教えていただけますか」

 これに関妃は頷いた。とはいえ昨日の今日であるから、あまり時間はとれないだろう。手短に有力な情報を得なければならない。

「わかりました――昨日、黄鷺宮を尋ねてきたのは陛下だけです。妖妃のお話を聞いておりました。火が出ていると宮女たちが騒いだのは、陛下が戻られてしばらく経ってからです」
「出火元は庭でしょうか」
「ええ。あれは不思議な炎ですね。碧色の火は異常な速さで宮を囲みました。逃げ遅れた宮女とわたくしたちは火の勢いが弱い後殿へと逃げました」

 庭からということは、鬼火を放ったあやかしは黄鷺宮内に入れなかったのだろう。
 星蔡が気になったのは来客のこと。昨日、ここを訪れたのが陛下だけということだ。

「以前、鬼火に襲われた妃も、陛下が尋ねた後に襲われたのでしょうか?」
「ええ。どちらも陛下とお会いした日の夜に襲われています」

 前例、そして今回の関妃。よく考えれば霄妖宮が鬼火に襲われた時も陛下が来ていた。

(つまり陛下が行く先に鬼火がでる?)

 そこで関妃はうつむいた。物憂げにため息をついた後、静かな声音で呟く。

「わたくしは、妬みが鬼火を生んだのではないかとおもいます」
「妬みとは?」
「陛下はどの妃にも興味を持っておりません。一度も、妃の宮を夜に尋ねたことはありません。皇太子の頃の陛下を知るわたくしはその理由が思い当たります。ですが、他の者たちは何も知らず、陛下の気を引こうとしているのでしょう」
「その理由を、聞いてもいいのでしょうか」

 すると関妃は頷いた。「命を助けていただきましたから」と微笑んで、再び口を開く。

「陛下は幼年の頃に出会った方を想っているのです。その方は不幸な育ちだったようで殺されてしまったのだとか。陛下はその方を助けようとしたようですが、間に合わず目の前で失ったようです」
「……そんな」
「そのため陛下はどの妃にも触れることがありません。きっとこの先も、失ったその方を想いながら生きていこうとするのでしょう」

 星蔡は言葉を欠いた。まさか奉遜にそのような事情があったとは知らなかった。どれだけ美しい妃を集めたところで奉遜が後世に血を残すことはない。しかし、永の民らは若き皇帝に期待を寄せている。

(……重圧だろうな)

 奉遜が背負うものは星蔡が想像するよりも大きなものだろう。想像し、ずきりと胸が痛んだ。



 気分は重たく、霄妖宮に戻る気にはなれなかった。花を眺めたくなり寄り道をする。
 北御苑に入れば見覚えのある輿が止まっていた。奉遜の輿だ。彼もこちらに気づき、寄ってくる。

「お前も北御苑にきていたのか。もう黄鷺宮には寄ったのだろう?」
「はい。話を伺ってきました」
「鬼火の件が進展するとよいな――少し時間はあるか、海棠(かいどう)がよく咲いているから共にどうだ」

 奉遜の誘いに頷き、共に海棠の木に寄る。見上げれば淡桃色の花がびっしりと咲いて美しい。春を思わせるよき色だ。

(呉家の庭にも海棠が植えられていた)

 春の季になると海棠の花を咲く。呉家の海棠はよく手入れされていて、他の屋敷よりも美しいと自慢だったらしく、咲き誇る頃にやってくる来客は海棠を見に来たものだ。星蔡も海棠の花を見上げるのが好きだった。

(あの時の男子も、花を見ていた)

 最後まで名を聞くことのできなかった男子を思い出す。星蔡が寿陵山から落とされたあの日も彼は追いかけてきていた。あの子はいま、どうしているのだろう。

「……よい花だ」

 隣で海棠を見上げていた奉遜が、しみじみと呟いた。その見上げ方、声、言葉も呉家で出会ったあの男子を彷彿とさせる。あの時と同じ花が咲いているからそう考えてしまうのだろう。星蔡は小さくかぶりを振って幼年の記憶を追い払った。

 奉遜が花を見上げたまま言う。

「私が思っている以上に、妖妃はたくましいのだな。呉妃からあのような仕打ちを受けていたくせ、他人を助けようと鬼火に立ち向かう。九竜に愛される理由がよくわかる」

 その言葉を聞いて、袖に隠れていた負屓がにょいと頭を出した。小亀の姿をしているが自慢げな顔をしていた。星蔡が褒められたことが負屓にとって嬉しかったのだろう。
 負屓だけではない。霄の国にいる父竜や九竜たちはみな星蔡を可愛がってくれた。

(だからこそ、わたしはここで、霄のために頑張りたい)

 そう考えていると奉遜が、海棠からこちらに視線を移した。

「妖妃がここに来たことで鬼火の害は減った――けれど、お前自身のことを思うとここに呼び寄せてよかったのか、悩んでしまう」
「妃にしなければよかったということでしょうか」
「お前は霄にいた方が幸せだったのではないかと考えたのだ。後宮は人の思いが渦巻き、よどんだ場所。私の目の届かぬところで、また虐げられるのかもしれない」

 するりと手が伸びた。奉遜の指先は風になびいた星蔡の髪に触れている。
 見上げれば奉遜の瞳は切なげで、こちらまで胸が苦しくなる。不安を抱く子供のように見えて、星蔡は柔らかに微笑んだ。

「わたしは平気です」

 その言葉を聞いて、星蔡の髪を撫でていた奉遜の指先がぴたりと止まる。

「昔、死を覚悟したことがありました。死ぬはずであったわたしは幸運にも助かり、霄の国で第二の生を得ました。虐げられたとしても、わたしは抗ってみせます」

 例え梨喬に水をかけられたとしても、崖から落とされたとしても。霄や九竜をのためなら諦めず立ち向かえる。そう星蔡は考えている。

「強くなったな」

 ぽん、と優しく頭を撫でられた。奉遜の瞳は穏やかに細められ、懐かしむように星蔡を見つめている。

「私はお前のことを勘違いしていたのかもしれない。守られるだけではなく、立ち向かう強さを得ていたのだな。だが、たとえ九竜の加護を得ているとしても命を(なげう)つような真似はしないでほしい」

 まるで星蔡の過去を知っているかのような物言いが引っかかる。けれど奉遜はその理由を明かそうとはせず、星蔡の頭を撫でていた。

「危機が迫れば、臆さずに助けを求めろ。私が駆けつけると約束することはできぬが、お前が助けを求めても許される立場であることは保障し続ける」

 奉遜の言が鼓膜を揺らし、瞬間、昔のことを思い出した。

(そういえば、呉家で会った男子も言っていた)

 星蔡が寿陵山に向かう前日。あの男子と交わした言葉だ。

『どうして諦めている。抗おうと思わないのか。逃げ出したり助けを求めたりせず、受け入れるなんておかしいことだ』

 その問いに星蔡は『助けを求めても許される立場なら、そうしている』と答えた。はっきりと覚えている。まもなく来るであろう星蔡の死に、異論を唱えたのは男子しかいなかったから。
 はっとして奉遜を見上げる。ここにいるのは星蔡よりも背が低い男子ではなく、背丈は星蔡を遥かに超え、冕冠をかぶった永の皇帝陛下だ。

「昔、呉家で会った……気がします」

 おそるおそる問う。確かめるように奉遜を見上げれば、彼は穏やかな表情をしていた。

「私が答えたら、お前は――」

 その唇が返答を紡ごうとし、彼の指先が星蔡の頬に触れようかという時だった。

 星蔡の肩から何かが飛んだ。それは奉遜めがけて跳び、小さな口が何かをかぷりと噛んでいる。
 負屓だ。奉遜の指に噛みついてぶらさがり、してやったりと言わんばかりの顔をしている。

「負屓!」

 慌てて星蔡が負屓を引き剥がす。両の手に乗せると、負屓は鼻息荒く奉遜を睨みつけた。

「星蔡にさわるな!」
「噛みつくのはだめだよ」
「ぼく、あいつきらいだもん!」

 まだ怒りが収まらんと騒いでいたが、小亀の姿をしていたので手で覆って押さえる。手中で「出してよー! あいつ噛んでやるー!」と騒いでいたが無視して、奉遜に向き直った。

「申し訳ございません。お怪我は……」

 噛まれた指先は血が出ていないが歯形が残っていた。何てことをしてしまったのかと青ざめる星蔡だったが、意外にも奉遜は笑っていた。

「私が手を出したことが悪いのだから気にするな。この程度なら平気だ」

 お咎めないことに安堵する。しかし、先ほど奉遜が言いかけたものは飲みこまれてしまった。気になることはわからないままだ。

「そろそろ戻ろう。お前を独り占めしていては、元気な兄上にまた噛まれるやもしれぬ」

 それは手中に閉じ込めた負屓にも聞こえていたのだろう。「また噛んでやるー」と小亀の叫びがした。


 北御苑を出て行く陛下の輿を見送る。星蔡も宮に戻ろうとしたのだが、そこで腕輪が光った。第七子・狴犴(へいかん)の宝玉だ。

「狴犴、どうしたの?」
『近くに、よくない気を放つ者がいる。お前の後方、八仙花の影だ』

 そう聞いて、星蔡は振り返る。
 すると何かがさっと身を隠したのがわかった。ここから去って行く沓音(くつおと)もする。ここに人がいたのだ。
 追いかけても間に合わないだろう。去って行く後ろ姿から考えるに妃ではない、宮女だ。その襦裙は柿子色をしている。

『あの者は淀んだ気を放っていた。妬みや怒りといった感情に支配され、他を害することを厭わない。悪道を走る特有の気だ』

 狴犴が得意とする妖術は善悪の感情を見極めることである。だが狴犴曰く、たとえ悪いことであっても本人が善と信じていることがあるのだという。正義はその者が信ずるものによって形を変える。今回の場合は、星蔡に害を成すか成さぬかで判断をしていた。

(柿子色の襦裙ということは梨喬がいる宮)

 いやな予感がした。その不安を感じ取ったらしい負屓が肩をよじ登り星蔡に声をかけた。

「星蔡、だいじょうぶ?」
「心配しないで。わたしは大丈夫だから」

 その言葉は負屓をなだめるようで、自分にも言い聞かせるようでもあった。



 その夜は鬼火が出なかった。黄鷺宮の調査が続いているため、内廷には禁衛府の衛吏が多くいる。鬼火を呼ぶあやかしも出てこられなかったのだろう。
 星蔡は臥床に腰掛けていた。

(妃らは陛下の寵を得ようとしていたけれど、陛下は誰も選ぼうとしない。そして陛下と会った妃が襲われる)

 関妃は鬼火に襲われた。そして霄妖宮の妖妃――星蔡も一度襲われている。残るは呉妃である梨喬だ。

(梨喬も鬼火に襲われたのかな)

 燭台の炎が揺らめいている。それをぼんやりと眺めていたところで腕輪の、第五子・狻猊の宝玉が緋色に光った。

『獣毛について調べたぞ。ありゃ狐の毛で間違いねえな』

 霄の国に狐のあやかしは多い。妖術の弱い者から、父竜や九竜に匹敵するほどの妖術を持つ狐まで様々だ。他を化かし(そそのか)すことを好む者が多く、九竜からも好まれていない種族だ。

『黄金色の狐毛。鬼火。高位の妖術使いだとは思うんだけどなあ。特定するってなると情報が足りねえ』
「ううん……困ったな」

 すると話を聞いていたらしく、他の宝玉が光った。

『星蔡。思い出したことがある。八年前の寿陵山のことだ』

 碧色の光を放って語るは、第二子・睚眦(がいさい)の玉だ。戦や争いを好み、怒ると手がつけられなくなることから九竜の中でも少し浮いた存在の彼が、こうして連絡をしてくるのは珍しい。

『我と父竜が寿陵山に向かったのは、あの山を巣とする金火(きんか)(きつね)を捕らえるためだった』
「金火狐?」
『金火狐は、自らの国を作りたいがために永と霄を争わせようと画策していた。やつの企みを知った我と父竜が向かったが金火狐の姿はなく、いまだに行方はわからん』
「もしかして、その日にわたしが落ちてきた?」
『ああ。我らが金火狐を捕らえにいかなければお前は谷底で死んでいただろう』

 恐ろしい話を、睚眦はあっさりと言ってのけた。金火狐を逃したことはよくないのだろうが星蔡にとっては幸運である。

(呉家の『末娘を寿陵山に捧げると一族が繁栄する』という言い伝え。寿陵山の金火狐。そして今日、陛下と会っていたのを盗み見ていた柿子色の宮女――ぜんぶ繋がっている気がする)

 梨喬や呉家に問うたところで答えはでないだろう。となれば、他のところで証拠を探すしかない。
 腕輪の光が消えてもしばらく星蔡は考え、ついに行き先を決めた。