常夜の霄で暮らしていた星蔡にとって、八年ぶりの太陽は眩しく感じた。霄がじめついたのに比べ、永は自然豊かで緑色が濃い。特に永の宮都(みやこ)中心にある宮廷は、花や緑が豊富で色鮮やかだ。
 呉星蔡は妖妃として迎えられ、その宮は霄妖(しょうよう)(きゅう)と名付けられた。
 だが霄妖宮に仕える者は少なかった。書に残らぬ国であった霄の名を冠した宮であることから、妖妃を恐れたのだ。あやかしの妃であると噂する者も少なくない。

「あ、あの……妖妃様……」

 霄妖宮の宮女長となった()寧明(ねいめい)もそのひとりだった。妖妃の元へやってくるたび彼女は怯えている。星蔡は彼女の恐怖心に気づかぬふりをし、笑顔で問う。

「どうしたの?」
「そ、その……陛下からの文が……」

 文を載せた盆までかたかたと震えている。星蔡が文を手に取ると、速やかに拝礼し、逃げるように部屋を出て行く。

(そこまで怖がらなくてもいいと思うけど)

 寧明が去って扉は固く閉まる中、星蔡はため息をついた。
 (とう)に腰掛けて文を開こうとすると、水盤の上からもぞりと小さなものが動いた。
 それは小亀の大きさまで小さくなった負屓(ふき)だった。星蔡が心配だからとついてきてしまったのである。人間たちに恐れられぬよう体を小さくし、周りに人がいない時は亀らしく振る舞って口を閉ざしている。外に出る時は袖に隠れたりと、彼なりに永の生活に気を遣っているようだ。
 負屓は部屋に誰もいないことを確認した後、水盤から這い出る。

「それなに?」
「陛下からの文だよ」
「うわ。ぼく、あいつきらい」

 ()奉遜(ほうそん)は霄で名乗った通り、永の帝だった。とはいえ九竜とっては、突然現われて妹を拉致していった男だ。九竜からの評価は低い。
 うえ、と顔をしかめる負屓を宥めつつ、星蔡は文を開く。そこには夕刻に挨拶にくる旨が記されていた。

「なんて書いてあるの?」
「陛下が会いにくるみたい」

 負屓は芸術を好む。特に好むのは文学だ。今回は負屓の好みに合わなかったようで「はずれだなあ」とぼやきながら水盤に戻っていった。
 星蔡は腕輪を一撫でした。この腕輪は霄を出る時に九竜から送られたものだ。九つの珠が埋め込まれ、これを用いれば、目の前にいなくとも九竜の力を借りることや会話をすることができる。

「ぼく、星蔡についてきてよかったよ」

 水盤からひょこりと顔だけ出して負屓が言ったので、星蔡は首を傾げた。

「どうして?」
「だってここはさみしいもん。さっきのおねえさんだって、星蔡がこわくてすぐ隠れちゃうし」
「そうね……でも負屓や兄さん姉さんがいるからさみしくない。国が違ってもこの腕輪があれば繋がっていられる」

 確かにこの場所はさみしいと、星蔡も思う。怖がられ遠ざけられるというのは悲しい。だが、嘆いてばかりではいられない。
 霄を守りたい。そのためにも、永にいるというあやかしや鬼火について調べなければ。


 夕刻。奉遜がやってきた。侍従を従えて現われたが、人払いをしたので部屋には星蔡と奉遜の二人しかいない。奉遜は負屓のことを知っているので、水盤から出して肩に乗せる。星蔡は負屓とともに奉遜の対応にあたった。

「永の国はどうだ、妖妃よ」
「馴染むのは時間がかかりそうです。陽光も眩しくて」

 素直に答えると、奉遜は小さく笑った。

「光の下に出るのが、懐かしいとは思わなかったのか」
「それは、ありますけど」

 確かに懐かしいとは思ったが、しかしどうも引っかかる。

(色々と事情があって霄にいた人間と話したのに、陛下はわたしが永の出身であることを知っている?)

 奉遜には、霄で暮らすことになった詳細を明かしていないのだ。彼が知っていることを疑問に思うが聞く隙はなく、その瞳がこちらを向く。

「今日は鬼火の件について、少し話しておこうと思ってな」

 名目上は夫婦であるはずが、淡々とした物言いにそれは感じない。いまだ妃らしいことは何もなく、それどころか後宮には星蔡以外の妃もいた。

(形式として、妃に迎えただけだろうな)

 愛や恋だの夢を見てはいないが、嫁ぐという単語から身構えていた星蔡は空振りを食らったような心地だ。
 星蔡の任は、永に逃げていったあやかしについて調べ、鬼火の害を祓うことである。妃という立場はただの名目だ。

「まず鬼火が確認された場所は宮都――特にこの後宮だ」

 これには星蔡も驚いた。てっきり遠くの村や里で被害が出ているものと思ったが、人の多い宮都の、それも厳重な守りを敷いている後宮で多く出ていると言うのだ。

(いくらあやかしといえど、人間が多くいる場所に忍びこむのは難しいはず)

 強い妖術を持つ妖は人間に化けることができるが、霄のあやかしは人間を恐れることが多い。これほど人が多い場所に好んで忍びたがると思えなかった。

「後宮には四人の妃がいたが、いまは二人ほど後宮を出て、静養地にいる。現在は二人しか残っていない。妖妃を迎えたから三人になったがな」

 奉遜は即位してから日が浅く、永の民は若き皇帝陛下に期待を寄せていた。世継ぎがいないのもあり、後宮には美しい娘が集められている。

「どうして二人の妃は静養地へ?」
「鬼火に襲われたのだ。一人は足を大火傷し、もう一人は顔に怪我を負った」

 鬼火を呼び出せるのは妖術、つまりあやかしだけである。それがどうして妃を狙うのか、理由は見当がつかなかった。
 しかしひとつわかることがある。

「なるほど。これがわたしを妃にした理由ですね」

 鬼火を祓うだけならば妃にならずともよい。しかし後宮で起きているとなれば、後宮を自由に動ける立場の方がよい。妖妃として迎えた意味が納得できた。
 そう考えて星蔡は告げたのだが、なぜか奉遜は苦笑していた。

「まあ、そういうことにしておこう」
「……ということは他の意図があるのでしょうか」

 星蔡の問いに答えようと奉遜が口を開こうとし、その瞬間だった。

「きゃあああ、だれか!」

 庭から悲鳴が聞こえた。女人の悲鳴だ。
 星蔡が立ち上がるのと同時に腕輪が光った。第三子・嘲風(ちょうふう)の宝玉が白く光り、声が聞こえる。

『霄妖宮の庭に鬼火が出ている。人間の女が襲われている、急げ』
「わかった。いますぐ向かうね」

 嘲風は遠視を得意とする狗竜だ。霄からでも星蔡の様子を見守っているのだろう。
 星蔡と奉遜は、急ぎ庭へ向かった。


 庭に碧の鬼火があった。勢いよく燃える鬼火は庭から霄妖宮へと近づこうとし、その先に宇寧明の姿があった。宮の壁に背をつき、腰を抜かしている。鬼火は彼女を囲むようにして広がり、逃げ道は断たれていた。
 他の宮女も水桶を持って集い、寧明を救うべく炎に水をかけているが、相手は人知を超えた妖術の炎。人間が水をかけても鬼火は消えない。

「寧明、いま助けるよ! 他の人は離れて」

 星蔡は叫び、宮女らの前に立った。鬼火に近づけばその熱さを肌に感じる。星蔡は腕輪を一撫でした。

「九竜は第九子、鴟吻(しふん)

 名を呼ぶと、鴟吻の宝玉が金色に光った。

「お願い、あの鬼火を消して欲しいの」
『わかったわ。任せてちょうだい』

 宝玉から伸びた光が、竜魚・鴟吻の姿を映し出した。本体は霄にいるのでこれは妖術が送り込まれただけ。鴟吻は鬼火に向けて、かぱりと口を開く。瞬間、竜魚の口から鬼火めがけて水が放たれた。
 鴟吻は、水や雨に関する妖術を得意とする。妖術で呼び寄せた水は鬼火を包み消していく。

 すべての鬼火を消すと腕輪の光は消えた。星蔡は壁にもたれている寧明の元に駆けつけた。

「怪我はない?」

 鬼火に襲われて恐ろしかったのだろう、顔は血の気を欠いている。一人では立ち上がれぬだろうと星蔡が手を差し伸べたが、寧明は体を震わせるだけで手を取ろうとはしなかった。
 あたりには宮女や、駆けつけてきた奉遜もいる。星蔡が鴟吻を呼び出す場面も見ていたことだろう。

(人では消せない鬼火を消すあやかしの妃――いままで以上に遠ざけられるかもしれない)

 一抹の寂しさを抱きつつ、星蔡は寧明に背を向けた。

「妖妃様、」

 霄妖宮に戻ろうとしたところで、声がかかった。振り向いて確かめれば宇寧明が立ち上がりこちらを見ている。

「助けていただきありがとうございました」

 その瞳は正面から星蔡を見つめ、恐怖心は見当たらない。そのことを嬉しく思い、星蔡は微笑んだ。

 あの炎は間違いなく妖術によるもの。先ほどは寧明を助けることを優先としてしまったため、あやかしの気配を探れなかった。

(霄妖宮に鬼火が出た理由が、妃であるわたしを狙ったものだとしたら――いま後宮に残っている二人の妃も狙われるかもしれない)

***