なんとなく、もう元彼は来ないんじゃないか。そう思ったのは沖田さんが来てから二週間が経ってからだった。
 あの日、沖田さんに追い払われてから突然チャイムが鳴ったりドアノブをガチャガチャと回されたりすることはなくなった。私に新しい彼氏ができたと知って引き下がってくれたのかもしれない。
 けれど、それを言うと沖田さんはきっと「じゃあもう大丈夫ですね」と言ってここを出て行ってしまう気がした。いや、そもそもそのために一緒に住んでもらっていたのだから、片付いたのであれば一緒にいる必要はない。
 けど、ここを出て行ったら沖田さんは行く当てもなくてホームレス状態だ。そんなことさせられない。
 ……とかなんとか言い訳をしてしまう私がいた。
 そんなことを考えていたからバチが当たったのだろうか。その日の帰り道、私はマンションの階段を上がろうとしたところで、後ろから腕を掴まれた。

「きゃっ」
「詩乃! 久しぶりだね!」
「恭平……なんで」
「ああ、会いたかった。家に行ったらあいつがいるだろ? だから外で待ってたんだ。やっと会えた」

 ニタニタと笑う姿に恐怖を感じ、私は必死にその腕を振りほどこうとする。けれど、びくともしなかった。
 
「離して!」
「離すわけないだろ? だいたいなんだ? あいつは。毎日毎日詩乃と俺の部屋にいてさ。まるでニートじゃないか。ああ、もしかして脅されてあいつを養ってるのか? 詩乃は優しいから同情した? もう心配しなくていいよ。俺、部屋を借りたんだ。そこに詩乃の部屋もちゃんと作ってある。このままマンションは捨てて俺と一緒に行こう? ほら、早く」

 恭平は私の腕を引っ張り階段を下りていこうとする。バランスを崩しそうになり慌てて手摺りを掴んだ私はその場に崩れ落ちた。
 それでもなお恭平は私の腕を引っ張り続ける。

「痛い、やめて!」
「やめたらあいつが出てくるだろ? あいつに気づかれないうちにいかなきゃ」
「どこに行くんです?」

 その声に顔を上げると、そこにはいつもの笑みを浮かべた姿ではなく、真剣な表情でこちらを見下ろす沖田さんの姿があった。

「出てきたな」
「また来たんですね。お帰りくださいと言ったでしょう」
「ふん。だいたいそれ俺の服だぞ。何勝手に着てるんだよ」
「ああ、そうですか。ではお返ししますね」

 沖田さんは着ていたトレーナーを脱ぐと、恭平に投げつけた。

「うわっ」
「詩乃さん!」

 顔にかかったトレーナーを取ろうと恭平がもがいている間に、沖田さんは私の手を掴み自分の方へと引き寄せた。

「なっ、お前卑怯だぞ!」
「服は返しますが、詩乃さんはもう私の恋人ですからお返しすることはできません」
「お前なんて詩乃のことなんにもわかってないくせに何言ってんだ! 詩乃を幸せにできるのは俺だけだぞ!」
「そんなことありません。ねえ、詩乃さん。私と一緒にいて幸せですか?」
「え、あ、あの」

 至近距離でジッと見つめられると、思わず言葉に詰まる。しかも上半身裸。引き締まった身体が今にも触れてしまいそうな程近くにある。これでドキドキしないという人がいたら見てみたい。少なくとも私には無理!
 すぐに返事をした方がいいのはわかっていた。でも顔どころか耳まで熱くなってまるで餌をもらう前の金魚のように口をパクパクとさせてしまう。

「詩乃……お前……」

 けれど私の躊躇いや恥じらいをどう取ったのか、恭平は「嘘だろ」と呟きながらその場にしゃがみ込んだ。
 そんな恭平の態度に沖田さんは微笑みを浮かべると、さらに顔をこちらへと寄せた。

「え、な……」
「黙っててください」

 そう囁いたかと思うと――沖田さんは私の唇、すれすれのところに口づけた。

「し……の……」
「ほら、もうあなたの入る隙なんてこれっぽっちもないのです。もう詩乃さんのことは諦めて新しい人生を歩みなさい」
「そんな……俺は……」
「さあ、詩乃さん。部屋に入りましょう」
「は、はい」

 沖田さんに腰を抱かれるようにして、私は部屋に入る。恭平が追いかけてくることはなかった。
 しばらく玄関近くで耳音を立てていたけれど、階段を下りていく足音が聞こえてた以外に何の音もしなかった。どうやら恭平は諦めて帰ったようだ。

「ああ、よかった。無事追い払えたようですね」
「…………」
「詩乃さん?」
「は、」
「は?」
「離れてもらっても、いいですか?」
「え? あっ」

 私の言葉に沖田さんは慌てて私から身体を離した。

「すみません、あの」
「い、いえ。えっと、あの、助けてくださって、ありがとうございました」
「駆けつけるのが遅くなってすみません。話し声が聞こえてもしかしてと思って」
「そんなことないです!」

 沖田さんが来てくれなかったら今頃は恭平に連れて行かれていたかもしれない。手首に残った手の跡を見てゾッとする。

「それ……」

 私の視線に気づいたのか、沖田さんも腕に残ったあとに目をやりそして眉をひそめた。

「あいつが、ですか」
「えっと、はい。でも、もうそんなに痛くないですし」
「……やっぱりあいつは剣で――」
「駄目です!」

 私は今にも恭平を追いかけて行ってしまいそうな沖田さんの腕を掴んだ。

「ですが!」
「あんなやつのために、沖田さんが手を汚すことないです……。それ、に……」

 沖田さんは私の手が震えていることに気づいた。

「今は……一人に、なりたく、ない……」
「詩乃さん……」
「行か、ないで……」

 沖田さんは私の背中にそっと腕を回すと、優しく抱きしめた。

「もう大丈夫です……私がずっとそばにいますから」

 張り詰めていた気持ちが緩んだのか、沖田さんの優しい声を聞きながら私は意識を手放した。


 ふと気づくと、辺りは薄暗くなっていた。今は何時だろう。私は一体なにを。
 顔を上げようとすると、すぐそばにいた沖田さんと目が合った。

「目覚めましたか?」
「え、私……」
「もう大丈夫ですか?」

 その一言で、全てを思いだし私は慌てて立ち上がろうとした。けれどその身体は沖田さんの腕でしっかりと抱き留められていて動くことはできない。沖田さんの肌から直接熱が伝わってくる。

「あ、の」
「え?」
「もう、大丈夫なので……その、腕を」
「あっ、ああっ」

 沖田さんは思いだしたかのように慌てて両腕を上げる。私はそっと沖田さんから身体を離した。

「す、すみません。その、詩乃さんが気を失われたようだったので……。動かすよりもそっとしておこうと」
「いえ、私の方こそすみません」

 すみませんと言いながらも沖田さんの方を見ることができない。恥ずかしさとそれからみっともなさでいっぱいだ。
 そっと沖田さんの方を窺うと、沖田さんも頬を赤くしているのが見えた。その姿に思わず笑ってしまう。

「……なんです?」
「なんでもないです」
「そう、ですか」
「はい」

 私たちは顔を見合わせると笑った。
 リビングに移動した私たちは、ソファーに並んで座った。沖田さんは途中でパーカーを羽織っていた。

「あの、本当にありがとうございました」
「いえ。でも、諦めて帰ってくれてよかったです」
「はい」

 恭平の件はきっとあれで片がついた。もう来ることはないだろう。となると、もうこの家に沖田さんが住む必要はなくなる。それは沖田さんも思っているようで、こちらを向いて小さく笑った。その笑顔が妙に寂しそうに見えたのは私の思い違いだろうか。
 私は胸の奥に小さな痛みを感じた。
 この痛みを知っている。恭平が家を出たときにも感じた、ほろ苦い痛み。寂しさともの悲しさと、それから――。

「あの!」
「詩乃さん」
「え?」

 私の言葉と沖田さんの声が重なった。いつもなら「お先にどうぞ」と言う沖田さんが、珍しくコホンと咳払いをして口を開いた。

「先程の方は帰られましたがもしかするとまた来るかもしれません」
「え?」
「諦めたと見せかけてこちらが油断するのを待っているのかも」

 そうだろうか。まあ確かにそういうこともあるかもしれない。それに剣士である沖田さんが言うのだ。何かそういう気配を感じ取っているのかも知れない。やっぱり一般人である私とは見ているところが違うのかも。
 私には見えないものが見えている気がして沖田さんの目をジッと見つめる。けれど沖田さんはそんな私の視線から目をそらした。

「沖田さん?」
「……と、いうことにしてもらえないで、しょうか」

 言葉の意味が上手く理解できなかった。それは、つまり……。

「私にここに、詩乃さんのそばにいる、理由を与えてください」
「沖田、さん?」

 心臓の鼓動がうるさい。
 こちらを見つめる沖田さんの瞳の中に私の姿が見えた。

「私はこの時代の人間ではない。だからあなたを好きだなんて言う資格はないとわかっています。だから、せめてあなたのことを守らせてください。あの男からも、他の危険からも」
「沖田、さん」
「好きです。私は詩乃さんのことが好きです。他の男に指一本も触れさせたくない」

 沖田さんは私の手首を掴むと、未だ残る跡に口づけた。

「んっ」
「もう二度と、誰にも傷つけさせない、だから」

 沖田さんの顔が近づいてくる。
 吐息すらかかりそうな距離で沖田さんは囁くように言った。

「逃げるなら、今ですよ」
「……逃げ、ません」
「詩乃さん……」
「私も、沖田さんが、好きです」
 
 私はそっと目を閉じた。
 これ以上、自分の気持ちに気づかないふりをするのはやめよう。私はこの人と一緒にいたい。そばにいて一緒にご飯を食べて、他愛のない話をして笑い合っていたい。
 この気持ちが好きじゃなければいったいなんだっていうんだ。私は、沖田さんが好きなんだ。
 沖田さんの唇が私のそれに優しくそっと押し当てられた。

「好きです」
「沖田……さん」
「詩乃さんのことが、好きです」

 触れるだけの口づけが何度も何度も繰り返される。その背中に私はそっと腕を回した。
 沖田さんはこの時代の人間ではない、そんなことわかっている。
 でも、それでも想う気持ちを止められなかった。