蒼霄の屋敷についても中にはあがらなかった。古くから仕えているという老齢の女中に命じて馬を用意させている。馬具を付けた後、蒼霄は馬に乗った。
「乗れ。ついてこい」
「馬なんて乗ったことがないのですが……」
「前に乗ればいい。手綱は俺が持つ。落ちそうになったら俺にしがみつけ」
有無を言わさぬといった様子で手を差し伸べている。廟で初めて会った時と同じだ。もはや逃げられないのだろうと覚悟を決め、月娥はその手を取る。
馬に乗ればその視点の高さに驚いた。だが走り始めれば、吹き抜けていく風が心地よい。
「お前、どうして俯いている。せっかく馬に乗っているのだから景色を楽しめばよいだろうに」
屋敷裏手の小高い丘に向かう途中で蒼霄が訊いた。
「……わたしは俯いて生きるよう命じられています」
「なぜだ。背が曲がってしまうぞ」
答えていいものかと月娥は悩んだ。両親や麗陽は、痣を醜いものだと語ってきたためである。蒼霄に話したところで、汚いと罵られたり、馬から蹴落とされたりするかもしれない。思いあぐねていると蒼霄が続けた。
「その痣のせいか?」
「気づいていたんですね」
「何度も会っていれば気づく」
麗陽だけでなく月兎宮の宮女らも月娥の痣に気づいている。しかしみな、顔をしかめたり目を背けたりと、よい反応をする者はひとりもいなかった。
しかし蒼霄は違う。
「些細なことだ。痣など気にせず顔をあげればよいだろう」
「この痣は醜いので、人に見せない方がよいかと俯いておりました」
「くだらん。月兎宮には、痣よりもっと醜いものが蔓延っているだろうに。例えばお前の姉であるとか」
「蒼霄は、麗陽を美しいと思わないのですか?」
「外見だけだ。偽物と自覚しながら公兎妃の位に収まるあの性根は醜くてたまらん」
蒼霄はそう言って手綱を引く。丘の上についたところで、馬を止めた。
ほどよい低木に綱を結び、しばらく歩く。月娥は黙って蒼霄の後ろをついていくだけだった。
「月娥。あれを見ろ」
蒼霄は村の方を指さした。小高い丘から村はよく見える。
畑があるものの、人影はなく、畑は荒んでいる。近くは焦げた跡がある。火事で家が燃えてしまったのだろう。
「……ひどい」
「黄涼国の現状だ。税は高くなるばかり。民は搾取され続けている」
月娥は顔をしかめた。村と呼ぶには荒廃している。
月娥が住んでいたのは都の、その一帯では裕福な家だった。都外れた村の様子は廟詣りの道中に見たぐらいしか知らずにいた。蒼霄に連れ出してもらわなければ、ここまでの惨状だとは知らなかった。
蒼霄は焦げた家近くを指さした。そこには痩せ細り泥まみれになった子供が座りこんでいた。親らしき姿はない。藁をしき、寒さを凌ぐために藁をかぶっている。
「ここは数年前に、碧縁国との争いに巻き込まれた場所だ。戦火は村を焼き、住む場所や畑は失われた。あそこにいるのは親を失った子だろう」
「黄涼王はこのひどさを知っているのでしょうか」
「県令が上奏文を送ったという噂は聞いたが、まもなくしてその県令は何者かに殺されている。事件は追及されぬままうやむやになったからな、つまり、そういうことだろう」
県令とは宮城より認められて各地に置かれた地域の長である。この村にいた県令は村の窮状を訴えたがために殺されてしまった。宮城にとって不都合な口出しをする者はそうやって消されていくのである。
黄涼王が麗陽のためにと手に入れた贈り物はどれも高価なものだ。国の財政は民や国ではなく、私利私欲のため費やされている。それが適正に使われていたのなら、この景色は変わっていたことだろう。月娥は唇を噛んだ。隣では蒼霄も、苦々しい顔をして村を眺めている。
「……あの子供たちを助けてきます」
一歩踏み出そうとした月娥だったが、蒼霄がその手を掴んで止めた。
「いま行ってどうする。一時のしのぎにしかならん」
「ですが、あれはひどすぎます。一時だとしても助けてあげなければ……」
月娥が訴えるも、蒼霄は厳しい顔をして首を横に振った。
「お前にはお前にしかできないことがある。嘘をも見抜くお前の慧眼に、この光景を焼き付けろ」
「手を差し伸べず、見るだけなんて、あんまりです」
「公兎龍に選ばれた娘は世を選ぶ。戦乱続く花堯の地を変えられるのはお前だけだ。お前が何を成したいのか、考えろ」
月娥は頷くことも答えることもできなかった。
(この村を……苦しんでいる人たちを……わたしが救うことができるのだろうか)
額が痛む。公兎龍の印がある額だ。月娥の身のうちに隠れた公兎龍が泣いているかのように。
「あの子らには、あとで別の者を向かわせる。お前や俺が表立って動くのはいまではない」
「では別の意図があって、わたしをここに連れてきたのですね」
「鋭いな。俺は理由なくこの景色を見せたりなどしない」
蒼霄は目に焼き付けるように、村のひどさを睨みつけている。眉根を寄せた険しい顔で続けた。
「鏡を探してほしい。月兎宮に祀られていると噂される公兎鏡だ。その鏡は真実を映す。過去に偽物の公兎妃が現れた時、その鏡を持って偽りを見抜いたと言われている」
「わたしがその鏡を見つけたら、どうなりますか?」
「鏡を探し出せば物事が大きく動く。小国の後宮宮女という安穏とした生活は崩れ去るだろう。お前が物事を、この花堯の地を変える気になった時に、その鏡を探すといい」
月娥の手は震えていた。その鏡を見つけることでどうして村の惨状が改善されるのか、ふたつの物事が繋がらないためだ。鏡を探し出すことは国にとってよくないのではないかと畏れが生じている。
不安が満ちる胸中を見抜くように、蒼霄が呟く。村を眺めるまなざしに悲哀が佇んでいる。
「俺は貧富の差というものがきらいだ。悲しみばかりを生む争いもきらいだ――どうだ。いまの言葉に偽りはあったか?」
「……いえ」
首裏は何も痛んでいない。これもまた蒼霄の真実だろう。
「これらの人々を救う器があるのなら黄涼王を支援する。だがそのような器もない凡愚ならば相応のことをするだけだ」
「つまり、蒼霄は謀反を考えている……その話をわたしが聞いていいのでしょうか」
「お前は、黄涼の後宮にいる者らと違う感覚を持っている。だから、姉が放り投げた高価な反物に悔しそうな顔をし、飢えた子供らの元に向かおうと足を踏み出していた」
「……わたしは、」
癖のように、月娥が俯こうとした。瞬間、ぐいと頭が持ち上げられる。
「俯くな。顔をあげて、その目に焼き付けろ」
月娥を俯かせぬようにしたのは蒼霄だった。
視界には村と青い空が広がっている。いつもよりも上向きになっていることで、顎の下を風が吹き抜けた。その感覚は慣れない。
「お前が現状を変えたいと願った時、鏡を探せ。公兎の娘であるお前が動かなければ、この世は何も動かない」
額の印が痛む。蒼霄の言葉に賛同しているようでもあった。
(わたしは……どうしたらいいのだろう)
公兎龍と出会ったのは確かである。蒼霄曰く額にある印もそれを示すものだ。しかし公兎の娘だからといって、何かを変えるような自信はない。蔑まれて生きてきた月娥にとって、一歩を踏み出すことは恐ろしく、相当の勇気がいる。眼下に広がる凄惨な光景を、月娥の小さな手で変えられるのか。
「……俺を信じていいのか、悩んでいるのだろう?」
「初対面で嘘をつくような人ですから、信じがたいところはあります」
「だろうな。これほどに警戒されるのであれば、騙らなければよかったと後悔している」
これは本音だ。けれど、蒼霄の苦しそうな顔が頭から離れないのも事実。彼が見せた表情に偽りはない。心から民を案じているのだろう。月娥は蒼霄に向き直って、告げた。
「ですが、あなたが民を思う気持ちに偽りはないと思います。そうでなければあれほど苦しい表情なんてしないはず。だから、蒼霄の優しさは信じようと思いました」
それを聞くなり、蒼霄は驚いたような顔をしたが、それは一瞬で消えた。月娥の頭をぽんと優しく撫でる。
「……ありがとう」
風が吹いて、通り抜けていく。乾いた風だ。公兎鏡を探すべきか否かの答えはまだ出ていない。けれど蒼霄のことは、少しだけわかった気がした。
***
「乗れ。ついてこい」
「馬なんて乗ったことがないのですが……」
「前に乗ればいい。手綱は俺が持つ。落ちそうになったら俺にしがみつけ」
有無を言わさぬといった様子で手を差し伸べている。廟で初めて会った時と同じだ。もはや逃げられないのだろうと覚悟を決め、月娥はその手を取る。
馬に乗ればその視点の高さに驚いた。だが走り始めれば、吹き抜けていく風が心地よい。
「お前、どうして俯いている。せっかく馬に乗っているのだから景色を楽しめばよいだろうに」
屋敷裏手の小高い丘に向かう途中で蒼霄が訊いた。
「……わたしは俯いて生きるよう命じられています」
「なぜだ。背が曲がってしまうぞ」
答えていいものかと月娥は悩んだ。両親や麗陽は、痣を醜いものだと語ってきたためである。蒼霄に話したところで、汚いと罵られたり、馬から蹴落とされたりするかもしれない。思いあぐねていると蒼霄が続けた。
「その痣のせいか?」
「気づいていたんですね」
「何度も会っていれば気づく」
麗陽だけでなく月兎宮の宮女らも月娥の痣に気づいている。しかしみな、顔をしかめたり目を背けたりと、よい反応をする者はひとりもいなかった。
しかし蒼霄は違う。
「些細なことだ。痣など気にせず顔をあげればよいだろう」
「この痣は醜いので、人に見せない方がよいかと俯いておりました」
「くだらん。月兎宮には、痣よりもっと醜いものが蔓延っているだろうに。例えばお前の姉であるとか」
「蒼霄は、麗陽を美しいと思わないのですか?」
「外見だけだ。偽物と自覚しながら公兎妃の位に収まるあの性根は醜くてたまらん」
蒼霄はそう言って手綱を引く。丘の上についたところで、馬を止めた。
ほどよい低木に綱を結び、しばらく歩く。月娥は黙って蒼霄の後ろをついていくだけだった。
「月娥。あれを見ろ」
蒼霄は村の方を指さした。小高い丘から村はよく見える。
畑があるものの、人影はなく、畑は荒んでいる。近くは焦げた跡がある。火事で家が燃えてしまったのだろう。
「……ひどい」
「黄涼国の現状だ。税は高くなるばかり。民は搾取され続けている」
月娥は顔をしかめた。村と呼ぶには荒廃している。
月娥が住んでいたのは都の、その一帯では裕福な家だった。都外れた村の様子は廟詣りの道中に見たぐらいしか知らずにいた。蒼霄に連れ出してもらわなければ、ここまでの惨状だとは知らなかった。
蒼霄は焦げた家近くを指さした。そこには痩せ細り泥まみれになった子供が座りこんでいた。親らしき姿はない。藁をしき、寒さを凌ぐために藁をかぶっている。
「ここは数年前に、碧縁国との争いに巻き込まれた場所だ。戦火は村を焼き、住む場所や畑は失われた。あそこにいるのは親を失った子だろう」
「黄涼王はこのひどさを知っているのでしょうか」
「県令が上奏文を送ったという噂は聞いたが、まもなくしてその県令は何者かに殺されている。事件は追及されぬままうやむやになったからな、つまり、そういうことだろう」
県令とは宮城より認められて各地に置かれた地域の長である。この村にいた県令は村の窮状を訴えたがために殺されてしまった。宮城にとって不都合な口出しをする者はそうやって消されていくのである。
黄涼王が麗陽のためにと手に入れた贈り物はどれも高価なものだ。国の財政は民や国ではなく、私利私欲のため費やされている。それが適正に使われていたのなら、この景色は変わっていたことだろう。月娥は唇を噛んだ。隣では蒼霄も、苦々しい顔をして村を眺めている。
「……あの子供たちを助けてきます」
一歩踏み出そうとした月娥だったが、蒼霄がその手を掴んで止めた。
「いま行ってどうする。一時のしのぎにしかならん」
「ですが、あれはひどすぎます。一時だとしても助けてあげなければ……」
月娥が訴えるも、蒼霄は厳しい顔をして首を横に振った。
「お前にはお前にしかできないことがある。嘘をも見抜くお前の慧眼に、この光景を焼き付けろ」
「手を差し伸べず、見るだけなんて、あんまりです」
「公兎龍に選ばれた娘は世を選ぶ。戦乱続く花堯の地を変えられるのはお前だけだ。お前が何を成したいのか、考えろ」
月娥は頷くことも答えることもできなかった。
(この村を……苦しんでいる人たちを……わたしが救うことができるのだろうか)
額が痛む。公兎龍の印がある額だ。月娥の身のうちに隠れた公兎龍が泣いているかのように。
「あの子らには、あとで別の者を向かわせる。お前や俺が表立って動くのはいまではない」
「では別の意図があって、わたしをここに連れてきたのですね」
「鋭いな。俺は理由なくこの景色を見せたりなどしない」
蒼霄は目に焼き付けるように、村のひどさを睨みつけている。眉根を寄せた険しい顔で続けた。
「鏡を探してほしい。月兎宮に祀られていると噂される公兎鏡だ。その鏡は真実を映す。過去に偽物の公兎妃が現れた時、その鏡を持って偽りを見抜いたと言われている」
「わたしがその鏡を見つけたら、どうなりますか?」
「鏡を探し出せば物事が大きく動く。小国の後宮宮女という安穏とした生活は崩れ去るだろう。お前が物事を、この花堯の地を変える気になった時に、その鏡を探すといい」
月娥の手は震えていた。その鏡を見つけることでどうして村の惨状が改善されるのか、ふたつの物事が繋がらないためだ。鏡を探し出すことは国にとってよくないのではないかと畏れが生じている。
不安が満ちる胸中を見抜くように、蒼霄が呟く。村を眺めるまなざしに悲哀が佇んでいる。
「俺は貧富の差というものがきらいだ。悲しみばかりを生む争いもきらいだ――どうだ。いまの言葉に偽りはあったか?」
「……いえ」
首裏は何も痛んでいない。これもまた蒼霄の真実だろう。
「これらの人々を救う器があるのなら黄涼王を支援する。だがそのような器もない凡愚ならば相応のことをするだけだ」
「つまり、蒼霄は謀反を考えている……その話をわたしが聞いていいのでしょうか」
「お前は、黄涼の後宮にいる者らと違う感覚を持っている。だから、姉が放り投げた高価な反物に悔しそうな顔をし、飢えた子供らの元に向かおうと足を踏み出していた」
「……わたしは、」
癖のように、月娥が俯こうとした。瞬間、ぐいと頭が持ち上げられる。
「俯くな。顔をあげて、その目に焼き付けろ」
月娥を俯かせぬようにしたのは蒼霄だった。
視界には村と青い空が広がっている。いつもよりも上向きになっていることで、顎の下を風が吹き抜けた。その感覚は慣れない。
「お前が現状を変えたいと願った時、鏡を探せ。公兎の娘であるお前が動かなければ、この世は何も動かない」
額の印が痛む。蒼霄の言葉に賛同しているようでもあった。
(わたしは……どうしたらいいのだろう)
公兎龍と出会ったのは確かである。蒼霄曰く額にある印もそれを示すものだ。しかし公兎の娘だからといって、何かを変えるような自信はない。蔑まれて生きてきた月娥にとって、一歩を踏み出すことは恐ろしく、相当の勇気がいる。眼下に広がる凄惨な光景を、月娥の小さな手で変えられるのか。
「……俺を信じていいのか、悩んでいるのだろう?」
「初対面で嘘をつくような人ですから、信じがたいところはあります」
「だろうな。これほどに警戒されるのであれば、騙らなければよかったと後悔している」
これは本音だ。けれど、蒼霄の苦しそうな顔が頭から離れないのも事実。彼が見せた表情に偽りはない。心から民を案じているのだろう。月娥は蒼霄に向き直って、告げた。
「ですが、あなたが民を思う気持ちに偽りはないと思います。そうでなければあれほど苦しい表情なんてしないはず。だから、蒼霄の優しさは信じようと思いました」
それを聞くなり、蒼霄は驚いたような顔をしたが、それは一瞬で消えた。月娥の頭をぽんと優しく撫でる。
「……ありがとう」
風が吹いて、通り抜けていく。乾いた風だ。公兎鏡を探すべきか否かの答えはまだ出ていない。けれど蒼霄のことは、少しだけわかった気がした。
***